恋の嘔吐

そうざ

Vomit of Love

 飲み付けない酒に飲まれた僕は、真夜中の路上を徘徊していた。

 ほんの一時間前、ゼミのお別れ飲み会が終った。同時に、僕の恋も微動だにせずに終った。

 僕のキャンパスライフの全過程に於いて、憧れの彼女と交わした会話を文字起こしするとしたら、ポケットティッシュの裏に添えられた広告サイズの紙があれば事足りる。

 彼女は一次会の終了と共にそそくさと帰ってしまった。僕は、その場に居残る理由を見付けられないまま唯々飲み続けた。

 ほとんどの記憶が断片化された午前三時前に三次会がお開きになり、他の参加者は始発電車までネットカフェで時間を潰すようだったが、僕は世界に果てがあるのならばそれを探し当てたい心持ちだった。

 という訳で、僕は駅四つ分の道程を自宅アパートに向かって歩き出した。

 が、生まれて初めての泥酔だ。下半身が複雑骨折しているみたいな足取りで、触角を抜かれた蟻んこ宜しく右へ左へ急旋回、立て看板だのポリバケツだのを薙ぎ倒し、この星の全てを敵に回しながら僕は彷徨さまよい続けた。

 人影のない夜道に、アルコール臭にまみれた絶え絶えの咆哮ほうこうが響いている。その辺の路地に狂犬病に犯された野良犬でも潜んでいるのか。いっその事、僕を餌食にしてくれと思ったが、自分のだらしなく半開きになった口から出ている声とようやく気付いた次の瞬間、胃が握り潰されるような感覚に襲われた。咄嗟に傍らの電柱に縋り付いた。

 吐きそうでいて、吐かなさそうな、吐きたいような気もするが、出来れば吐きたくないような、振り子のような感覚が揺り返す度に益々吐き気に拍車が掛かった。

 冷汗と鳥肌との押し問答、発作紛まがいの戦慄わななきが何とか沈静し、ほっとした途端にたちまち内容物が上がって来た。堪らず手近な電柱に掴まった。

「げぼぼぅぉぉえっ」

 胃液混じりの酒が人肌の瀑布となって噴出し、ごちゃ混ぜになった食べ物の残骸が大地にぶちまけられた。それは異臭と共に鼻腔の方へも流入し、そこで発せられる異音と来たらまるで盛りの付いた蟇蛙ひきがえるである。

 何たる不覚。何たる不祥事。電力会社の所有物であるところの電柱様と、国か県か市の管轄下にあるだろう道路様、申し訳ございません。それから、この辺りに住民票を置いている方々、並びに本籍地にしている方々にも合わせる顔がございません。後日、気が向いたら清掃しますので、今夜のところは嘔吐の自由意志を尊重して下さいまし。

 涙で濡れた視界の中で、『ゲロ』と改名した胃の内容物が抽象画を描いている。その中に輪っか状の物体が見えた。形の崩れ掛けたイカリングだった。

 一次会での彼女の笑顔が蘇った。イカリングが大好物らしく、続け様に頬張る笑顔は可愛かった。

 彼女の箸の持ち方は独特だった。普段の僕は、伝統を重んじるべきと思う至って保守的な人間だが、この時ばかりは、金釘流ですか、小笠原流ですか、直心影流ですか、その指使いでよくぞ巧みに箸を操れますね、その妙技を是非とも手取り足取りご教授願いたいものです、と脳内独白が際限なく続いた。

 そしてまた、食し方にも流派があるようだった。箸で抓んだイカリングを唇に対して縦にスタンバイし、真ん中辺りまで口内に入れた所で前歯を立て、O形のそれを∞《無限大》状にひしげさせてからおもむろに咀嚼に移行するのだ。毎回そうするのだから、これは列記とした流派である。是非とも僕を門人にして下さい、愛弟子にして下さい、いきなり免許皆伝は求めません、先ずは烏賊釣り漁船から始めます、と懇願した。

 僕は、酸味の利いた鼻水を啜り上げ、僅かにイカリングの風味の残る痰をぺっぺとアスファルトに吐き飛ばした。

 嘔吐くらいキツい症状はないと思う。

 僕みたいにほとんだ酒を嗜まない者にとって、嘔吐は立派な疾病症状だ。昨夜はしこたま飲んだ挙げ句に思いっ切り吐いちゃったよ、はははっ、と自慢気に語る奴が居るが、僕はそういう輩の人格を疑う。吐きたいが為に飲んでいるのではないのかと疑たくなる。

 二発目が込み上げて来た。

「ごぼぇげぇぇ」

 またしても醸造された液体が怒涛の如く流れで、それと共に、ほぼ原型を留めたままの鶏の軟骨や、ほぼ原型を失ったフライドポテト等がラインナップされた。

 まだ喉の奥に何かが引っ掛かっている感覚がある。僕は、人差し指と中指とを喉の奥まで突っ込んだ。何か硬い物が指先に触れた、と思ったその瞬間にそれを吐き出した。

 夜の静寂に小さな金属音が響いた。

 僕は、鼻水なのか胃液なのか、はたまたその両方が混じり合ったものかも知れない液体を鼻から滴らせながら、べちゃべちゃの路面を探り、音の正体を拾い上げた。

 銀色の指輪だった。

 何故、こんな物が胃の中から出て来たのだろうか。イカリングの後だからリング繋がりで指輪も、なんて筈もない。

 だが、よくよく見るとその指輪に記憶がある。

 去年の夏、鉄筋コンクリート工学の講義での事だ。僕は彼女の着座を確認すると、その斜め後ろに陣取り、彼女の凛とした佇まいをにんまりと眺めていた。

 確か、担当教授の話が『圧縮力と曲げモーメントを同時に受ける材の基本式』か『曲げを受ける材の剪断力、及び捩りに対する基本式』に差し掛かった時だ。参考書を捲る彼女の机から何かを転がり落ちた。目で行方を追うと、僕の爪先を軽く小突いて床に落ち着いた。教授の濁声の所為で、彼女は物音に気付いていなかった。

 僕は、然り気なく落とし物を拾い上げた。それがくだんの指輪だ。偶々指から外して机に置いておいたのだろう。

 僕は、千載一遇のチャンスが到来した事実を打ち震えながら噛み締めた。噛み締めたものの、チャンスをどう効果的に活用すれば良いのかが分からなかった。

 もし、お嬢さん、指輪を落としましたよ、と声を掛ければ一件落着するのだろうが、そんなに簡単に落着して貰っては困る。この一件を切っ掛けに飛躍的且つ加速的に関係が進展しなければ意味がない。恩人である僕に対して彼女が、どうもありがとう、折角なので私と交際して下さい、と言ってくれるのが理想なのだが、恐らく無理だろう。百歩譲って、良い機会なので親密な関係に成りましょう、くらいの展開は欲しい。

 その為にはどんな公式が必要なのか。彼是あれこれとノートにシミュレーションを書き出している間に授業は終り、彼女の姿も消えていた。結局、僕は無期限に指輪を与かり続けるしかなかったのだ。

 今更、返しに行っても変に思われるだけだろう。増してや、ゲロと一緒に出て来た事を知ったら、受け取ってくれないどころか、僕をゲロ以下の存在として確定するだろう。

 僕は、指輪をポケットに仕舞い、再びよろよろと歩き出した。


 もう二回も吐いたと言うのに、相変わらず気分は優れない。胃が全自動洗濯機になったようなイメージが頭にこびり付いている。

 僕の胃袋は、二度ある事は三度あるという成語を愚直なまでに実行したいらしい。また酸っぱい唾液がじんわりと口内を満たし始める。負けて堪るかという意固地さが頭をもたげたが、それを嘲笑うかのように脂汗も増産される。洗濯機は脱水段階に移ってしまったようだ。

 妙ちきりんな疑問が浮かんだ。

 ゲロはいつからゲロになるのだろう。どの時点からゲロと称されるのだろう。口から出た瞬間か、口内に到着した時か、食道を上って来る段階にはもうゲロと呼んでしまって差し支えないのか、胃の中に収まっている状態では唯の内容物だろうが、一旦胃に収まった食べ物が胃液に塗れた後、逆流の意志を有した瞬間にゲロの称号を拝するのか。

 たとえ美味な食べ物であっても、一度咀嚼されて胃の内容物に変化した後、娑婆への未練を捨て切れぬ霊魂の如く現世に舞い戻った途端、石礫を投げられる忌まわしい存在として扱われてしまう。『小公女』の物語を彷彿とさせる悲劇だ。

 ゲロって可哀相かわいそう

 倒錯した親近感を覚えながら、僕はまたしても大いに吐瀉った。ほとんど粘性を失ったゲロ様が腸内の宿便や大腸菌まで逆流させんばかりの勢いでお目見えした。

 最後の最後に何か柔らかい塊がゲロ溜まりの中に落ちた。その白っぽい物体は、食べ物の成れの果てには見えなかった。好奇心に駆られた僕は、それを摘み上げた。

 女物のパンツだった。

 元々は純白であっただろうパンツは、どろどろの胃液に染まって黄ばみを呈していた。縁取りのレースには若草色の糸が使われているのかと思ったら、刻み葱が絡まっているだけだった。大根下ろしと一緒に鶏の唐揚げに振り掛けた奴だ。

 何故こんな物がといぶかしがるよりも先に、誰の愛用品かという疑問が浮かんだが、考えを巡らせるまでもなく彼女の物に違いないとの確信に至っていた。フエルトペンで名前が記されている訳でもないが、絶対にそうだ。

 勿論、下着泥棒をした挙げ句に捕まりそうになり、証拠隠滅の為に思わず飲み込んでしまった記憶はなく、僕の胃袋に保管されていた理由は全く分からない。分からないが、すっかり体力を消耗し切った僕は、それ以上、推論を立てる気にもなれず、道端にへたり込んでしまった。

 胸元から下半身に掛け、べっとりと沁みが付いている。きっと顔面は胃液、唾液、涙、鼻汁の祭りでわっしょいだろう。もう僕自身が嘔吐物そのものだ。

 一方で、心はすっきりとしていた。彼女に対する思いの全てを吐き出した気がする。そう思えば、自然と身体の方も楽になって来る。

 僕は、ゆっくりと立ち上がった。気が付くと、辺りは馴染みの景色に変わっていた。いつの間にか、家の近くまで辿り着いていた。児童公園の水飲み場に寄り、何度も口をすすいで顔を洗った。

 いつまでもくよくよしていても仕方がない。前向きに行きよう。新しい一歩を踏み出そう。酒はすっかり抜けていたが、僕は自分の言葉に酔っていた。

 白々と明け始めた空を見上げ、深呼吸をしようとしたその時だった。今までにないくらいの猛烈な吐き気が僕を襲った。

「ううっ」

 もう胃袋はすっからかんだっ、もう吐く物なんかねぇっ、胃袋そのものを吐くつもりかっ、大腸に掛け合ってうんこを融通してもらったのかっ――吐瀉物よりも先にそんな罵詈雑言が飛び出して来た。

 それでも、吐き気はお構いなしに僕を挑発し続ける。

「おげっ……うげっ……ぐへっ」

 僕は、顎が外れるくらいの大口を開けていた。これまで以上の尋常ではない何かが込み上げて来る不安が襲った。

「ごごげっ……ぶがっ……がぇっ」

 しかし、黄緑色系の胃液と透明な唾液との混合液が後から後から滴り流れるばかりで、中々主役級の代物を吐く事が出来ない。食道の暗いトンネルを何かが這い上がって来る無気味なイメージばかりが明滅する。

 こんな時、産婆さんがいれば心強い。否、どうせなら嘔吐専門の若くて綺麗な看護女性が背中を擦ってくれれば良い。或いは、嘔吐系のチアガールが僕の背後で飛んだり跳ねたり人間ピラミッドを作ったり、両手にしたボンボンをリズミカルに振り回し、満面の笑みでへイッ、へイッ、ワァーオォウと叫びながら惜しげもなくミニスカートの内側を曝け出してくれれば良い。

 一瞬、チアガールの顔触れの中に彼女の笑顔を見たような気がした。それが合図であるかのように、僕は最後の力を振り絞って思いっ切り嘔吐した。

「ごぶぅおぉぼげぇぇでろでろでろぉ~ぉ~ぉ~ぅ」

 路上の胃液還元水の中に若い女が一人、ぐったり倒れていた。

 鶯色のカーディガンに白いロングスカート。僕の記憶が正しければ遡る事、幾年月、新入生歓迎会で初めて出逢った時の彼女のコーディネートである。

 僕は最後の最後にを吐いたのだ。

 逆児の状態ではなかったのですんなり吐き出せた。否、。胃袋がすっかり空になり、僕は心地好い達成感と少しばかりの空腹感とに支配されていた。

「う……うぅ~ん」

 胃液の泉の中に転がったまま、彼女が悩ましく伸びをした。その面差しは、入学当時のまだ垢抜けていない頃のものだった。どちらかと言えば、僕はあの頃の初心な感じの方がより好きだったのだ。

 僕の存在に気が付いた彼女は、屈託なく微笑んだ。

「おはよう」

 まるで、鳥の雛が初めて目にした者を親と認識するように、僕を見詰める彼女の瞳は恋の予感を漂わせていた。

 考えてみれば、彼女は僕が彼女なのだ。僕が、僕の中で、僕のイメージのままにはぐくんだ彼女なのだ。そんな僕と彼女の間に愛が生まれるのは必然と言わずして何と言おう。

 僕は、彼女の指にそっと指輪を嵌めた。彼女は、まるで結婚指輪を眺めるかのようにうっとりとした。

「ありがとう」

 スカートの下はノーパンの筈だが、既にゲロ塗れでべちゃべちゃのパンツを穿かせる気にはなれない。

 すっかり新郎気分になった僕は、彼女の頬に張り付いた、三次会で食べた海草サラダの中に入っていた若布こんぶの切れ端をふっと吹き飛ばし、そっと口付けた。初キッスは酸っぱかった。

 僕は、嘔吐感そのものを吐き出した気分だった。長い間、腹の中でわだかまっていたものを日の当たる場所に吐露したのだ。

 僕達は手に手を取り、胃液の霞に飾られた朝の光の中へ駆け出して行った。

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