第8話 地下への扉


 子どもが怯えたように体を震わせ私にしがみついたから、私は咄嗟に伸ばされる手を払い、子どもを抱き締めた。


 お、と青年は面白がるような声をあげる。


「なんだ、嬢ちゃん。そいつを渡して欲しいんだが」


「お、お断りします! 売り飛ばすとか、あ、あなた、人売りですか? まさか、奴隷商人──」


 思い至った可能性に言いながら青褪める私の言葉を、ははは、と笑って青年が遮った。


「だったらどうする?」


「え、わ、ひゃあっ、お、おろしてください!」


 青年は子どもを抱き締める私ごと横抱きにして抱えると歩き出してしまった。物凄い力持ちだと思う。私がバタバタ暴れてもびくともしないし、スタスタと何処かへ向かって歩いて行く。


 私は子どもを抱き締めたまま何処へ連れて行かれるのかと不安で一杯になった。坊主と呼ばれた子どもも、不安そうな表情をしている。硬った表情に、私は抱き締める力を強めるしかできない。


 青年は扉を足で開けた。中庭から通じるその扉は、絶対に行くなとビルに言われていた場所だ。別に用事もないからと気にしていなかったけれど、どうやら地下に続いているらしい。かつん、かつん、と靴音をさせて青年は階段を降りて行く。その背後に明るい外が遠ざかっていくのを見て私はぶるりと震えた。


 怖い。でもこの子どもを私は守る責任がある。伯爵はいないし誰も認めてはいないのだろうけれど、私は形式上、伯爵夫人なわけだし。この敷地内に迷い込んだ子どもを見知らぬ青年に渡すなど、赦されることではない。


 彼は奴隷商人であることを否定しなかった。絶対に行くなと言われていた場所が地下なんて、まさか。


 私は伯爵の黒い噂を思い出す。奴隷商人のお得意様で、幼い子どもの奴隷を買っては屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしいという。此処がもし、その地下であるなら。


 切り刻まれる……っ。


 何とかして逃げ出さなければと思うのに、体は震えて動けなかった。ぎぃ、とまた別の扉を開いて青年はその先へ進む。


 よいしょ、と下ろされたのは固い板の上のようなところで、状況を把握するより早く子どもごと胴体を固定され、子どもは猿ぐつわを嚙まされた。


「嬢ちゃん、丁度良いや。そのままその坊主が動かないようにふん縛っといてくれ。坊主、我慢しろよ。痛いのは最初だけだからな──」


「や、やめて!」


「何をしてる」


 私が叫んでも止める気配のなかった青年は、冷たい声に動きを止めた。むーむー悲鳴をあげている子どもの向こうでぴたりと止まった青年が肩を下ろして振り返る。其処に立っていた人物が見えて、私は目を丸くした。


「ビル!」


「……何故、此処に? 入ったのか?」


 ビルは不機嫌そうな色を声に滲ませた。それどころじゃないのに、と私は思う。勝手に入ったというか連れてこられただけなのだけど、それは今どうでも良い。助けて欲しい。


「そんなの後でいくらでも怒られるから、この子を助けて……っ!」


「ぶっはははは! 助ける助ける! だからちょーっと我慢してろ……今、痛み止め打ってやるからな」


「……え?」


 痛み止め、と聞いて私は目が点になった。痛み止めって、何のために? 切り刻むために情けをかけるのだろうか?


「嬢ちゃん、オレは此処の医者でな。まぁ正式に認められてるわけじゃないから闇医者だが……この坊主は足を怪我してるんだ。そのせいで引きずりながらしか歩けない。そのくせすばしっこいからな、本人はあんまり困ってなかったかもしれないが。登るのは良くても降りられない。それを治してやろうってわけだ」


「治す……? え……? お医者様……?」


 混乱している私の目には真剣な眼差しを子どもの足へ向ける青年の姿だった。心臓から遠い場所とはいえその危険性を知るからこそ鋭くなる眼光の奥に、けれどどうしようもない愛情を見た気がして私は目を何度かしばたたく。


「マックス、勝手にべらべら喋るな」


「良いだろ別に。お前が見つけて来られなかった坊主を捕まえたのはこの嬢ちゃんだぜ。そもそも隙を突かれて逃したのは誰だったかな〜」


「……それは、悪かったと思うが」


 ビルが、あのビルが言い負かされている。私は目の前で起きていることが信じられずに目を丸くしたままだ。青年は軽口を叩きながらも真剣な目付きで子どもに屈み込む。子どもの方は一瞬だけ痛みにか呻き、すぐにとろんとして眠りに落ちていた。痛み止めというのは本当なのだろうか。


「それよりビル、血がぶっしゃー出る予定だからちょっと離れてろ。椅子に座ってろよ。ぶっ倒れたお前の面倒まで見てられねぇからな」


「な……そんなに出るのか……?」


 ビルが急に狼狽えた声を出すから私は驚いた。言われた通りにビルは離れた場所で木製の椅子に腰を下ろす。視線は見えないながらも顔はこちらを向いていて、目を離すつもりはないようだ。


「あいつ、血が苦手なくせに目は逸らさねんだわ。と思ったらそのまま気絶してることもあるけどな」


 はは、と笑いながら青年は私に話しかける。


「マックス、だから勝手にべらべら喋るな」


「なんだよ聞こえたのか」


「この距離だぞ、聞き逃すと思うか」


 ビルは私だけではなく他の使用人ともあまり喋らない。喋っているのを見たことがないくらいだ。だからこんな風に気安く誰かと言い合うのを見るのは新鮮だ。


 ビルは血が苦手らしい、ということも私は初めて知ったのだった。


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