第27話 君といた日々

 僕は、この本を知っている。

 そう、確か僕が小遣いをはたいて買った日記帳だ。どうしてもこれが欲しかったから。


 でも、どうして? 僕に日記をつける習慣は無かったはずだ。もし、あるとすれば・・・・・・

 分厚い表紙をめくり、中紙をぱらりと払って、1ページ目を見る。


 ――好きです、付き合ってください――

 

 僕の・・字で書かれたその一文を見た時、僕は頭の中と、心臓と、そして心の奥底に『何か』が灯るのを感じた。

 告白。それは僕が、確かに誰かに発したメッセージだった。なのにどうして、忘れていたんだろう。


 ぱらり、とページをめくる。


 ――返事は、もうちょっと待って下さい、お願いします――


 その文字を見た時、僕は胸が詰まる思いがした。僕の好意は十全には受け入れられず、保留という形で返されたんだ、返されたんだった・・・

 でも、その字は僕にとって、とても愛おしいものに感じられた。とても綺麗に書かれたその一行は、まるで書いた人間の美しさを現しているようだった。


 ぱらり、とページをめくる。


 ――神ノ山登紀さん、僕は君が大好きだ――

 ――天野未来君、私も、あなたが大好き――


 ぱりぃん。


 僕の心の中で、僕が忘れていた記憶を覆い隠していた曇りガラスが、音を立てて割れて消えた。


「あ、ああああ・・・・・・っ!」

 神ノ山登紀さん! そうだ、登紀さんだ。童顔なのにどこか大人びた表情、長い黒髪を時にはストレートに、時にはポニーテールにして、にっこりと微笑むその顔が、大好きだった彼女の笑顔が、割れたガラスの向こうにあった。


 ぱらり、とページをめくる。


 ――えへへ、私の水着、どうだった?――

 ――ナンパ男から庇ってくれた未来君、すっごくかっこよかったよ――


 ぱりぃん。割れた曇りガラスの向こうにいたのは、直視が出来ないほどに整ったプロポーションを、紫の水着に収めた彼女の笑顔。


 ぱらり。


 ――資料館のイベント、楽しかったね――

 ――でも意外、未来君まさか動物が苦手だったなんて――


 ぱりん。また記憶を閉ざしていたガラスが割れた。ふたりで一緒に子供達と遊んだ夏の日。僕が父兄が連れている犬や猫に怯えたのを見て、そう書いて返す彼女の顔が思い浮かぶ。


 ぱらり。

 ――お父さんボートレース好きなんだよなぁ――

 ――あー、それで。負けたんだね――

 ぱりん。


 ぱらり。

 ――小豆島、本当にに楽しかったね!エンジェルロード一緒に渡ったのは、一緒の宝物だよ―― 

 ――あの絵馬書くの、ちょっと恥ずかしかったけどね――

 ぱりぃん!


 ぱらり。

 ――拝啓、晴樹さん、登紀さんはきっと、僕が――

 ――晴樹さん、私は今、幸せですよ――

 ぱりぃん!



 ぱらり

 ――阿波踊り、本当に楽しかった。来年も絶対行こうね――

 ――浴衣、本当にきれいだったよ。こんな綺麗な人と一緒にいてもいいのかって思うくらいに――

 ばりぃんっ!!


 ぽたっ、ぽたぽたっ。


「僕は、僕は・・・・・・どうしてっ!」

 嗚咽のようにそう吐き出した。目の奥が熱い、鼻の奥がつんと引きつる。僕の瞳から流れた水の玉が日記帳に落ち、濡らす。



「どうして、忘れていたんだぁぁっ!!」

 ドン!と両手で机を叩き、そのまま額を机に伏せ、日記帳の文字を見て憤る。


 ここまで自分に腹が立った事なんて無かった。大事な人を、大好きな人を、大好きになってくれた人を、僕は、僕は・・・・・・よりによって!

「登紀さん! 登紀さん!! 登紀さんっ!!」


 もう限界だった。目の前の日記帳を乱暴に抱え込み、自責の念に強烈に駆られた。人目もはばからずに僕は、泣いた。ここが会社の偉い人が集まる会議室だなんて、もうどうでもよかった。


「うわあぁぁぁぁーーーっ! どうして、どうして! うわあぁぁぁぁーーーっ!!」


 喉の奥から感情を、後悔を、自分に対する怒りを吐き出すように、僕は泣き叫んだ。なんて僕はひどい奴なんだ、僕に忘れられた登紀さんはどれだけ辛かったんだ、彼女をほっぽっといてこの三年間、僕は一体何をやっていたんだ!!

 彼女の事を忘れたまま過ごした二年半はもう二度と取り戻せない。誰よりも好きだった彼女を忘れ、登紀さんをひとりにしてしまった。そんなことも気付かずに僕は今まで、のうのうと・・・・・・!


 このまま全てを嘆きと共に吐き出し切って、消えてしまえばいいとすら思った。でもどれだけ嘆き続けても、どれだけ恥を晒しても、世界は僕を消してはくれなかった。そして・・・・・・誰も僕を、責めなかった。



「ねぇ、天野君」

 隣りで三木さんの声がする。ネェ、アマノクン?その言葉の意味すら理解できずに僕は彼女の方に首を回す。白黒モノクロームに映った彼女は、片手にスマホを持っていた。

「スマホ、見て」

 スマホミテ、ああ、スマホを見ろと言うのか、と理解して、そこでようやく我に返った。


 ああ、ずいぶん恥ずかしい事をしちゃったな、こんな公衆の面前で泣き叫ぶなんて。でも、それはもうどうでもいい、こんなダメな男には恥を晒すのがお似合いなんだ。


「いーから! スマホを見なさいっての!」

 三木さんが突然怒鳴る。なんだよ、君だって勤務中にスマホ見てるくせに、不謹慎だよ。ああ分かったよ見るよ、見ればいいんだろ!

 ポケットの中に手を突っ込んでスマホを取り出す。その手が震えている、マナーモードにしたバイブ機能が自分の右手を揺らしていた。


 画面を覗き込む。そこにあったのは次から次へと流れてくる、Lineの着信メッセージだった。ヴン、ヴーッ、ヴーッヴーッ、引っ切り無しに着信バイブが鳴り、メッセージがすさまじい勢いでスクロールしていく。

「・・・・・・何だ?」

 仕方なしにラインを開く。そこには『一年三組』の友達グループの着信が、すさまじい勢いで増え続けていた。溜まったメッセージをスワイプして、未読の一番上のメッセージに目をやる。



      ◇           ◇           ◇    



本田『おい! お前ら、神ノ山さんのこと覚えているか!?』


川奈『私も、なんで? たった今まで彼女のこと忘れてた!』


○○『あれ、言われてみれば』


○○『なんでだろう、あの娘のこと全然忘れてる』


○○『転校したんじゃなかったっけ』


○○『そうだなぁ、なんかそんな気がしてた』


○○『確か天野と付き合ってたような・・・・・・あれ、どうだっけ?』


宮本『あんな面白カップルを忘れるなんて・・・・・・天野君、返信ちょうだい!』


岩城先生『なんてこった! 卒業アルバムにすら載せていないじゃないか! 私は一体、何を!?』


本田『渡辺! お前天野と同じ会社だったよな、天野はそこに居るか!?』


渡辺『それが、アイツ営業の部署にいねぇんだよ! どこいったんだ全く!』


川奈『ななみん見てる? トキちゃん覚えてる、よね』


宮本『どういうこと? 私たちはみんながみんなして、奇麗にトキちゃんのこと忘れてたの?』


○○『なーんか、魔法にでもかかったみたいだなぁ』


岩城先生『冗談ではない! 一体どういう事だ、天野、三木、連絡はまだか!』



      ◇           ◇           ◇    



「これ、って・・・・・・」

 そのメッセージを追って僕は知る。僕だけじゃない、みんなも登紀さんの事を忘れてしまっていたんだ。でも、どうして? 僕は日記帳を見たから思い出したけど、みんなまで?


「忘れたのは、天野君のせいじゃないよ」

「え? それは、どういう?」


 それに応えて彼女は手提げバッグに残っていたタブレットを取り出す。そこには動画が開かれており、一時停止されて固まっている。白黒カメラで斜め上から部屋を撮影したそれは、よく見る防犯カメラの映像に見えた。


 その先にあるのは、一本の大きな振り子と、そして、僕と・・・・・・登紀さん!


「あ、あああ・・・・・・」


 思い出した。あの月食の日、あすかむらんどで初めてのキスを交わした、あの夜。


 彼女は僕に話した。


『私ね、もうお婆ちゃんなの。今年で138歳になるんだよ』

『でもその時から私の体は、若返り続けた。一年に一歳ずつ、一秒に一秒前まで』

『私の体はね、一秒ごとに、その一秒前に作り替えられているんだって』


『私は生け贄になるんだって』


 泣きながらそう言う彼女の涙をぬぐったのを、確かに僕は覚えている。そして、その後登紀さんが言う言葉を、僕は、思い出した。


 ――わたしのこと、わすれて――



「天野君。君がトキちゃんの事を忘れていたのは、彼女自身がそう望んで、『呪い』をかけたから」

 三木さんがそう冷ややかに語る。呪い、だって?


「多分だけど、あなたが思い出した事で、その呪いは解けたの。だからみんな思い出したんだと思う」


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