第14話 今、目の前の恋しい君に
あの日、日記帳を渡した日の夜、僕はどうしても寝付けなかった。
どうすれば神ノ山さんに自分の気持ちを伝えられるか悩んでいた所、宿題のレポート書きをしている際に母さんから思わぬヒントを貰っていたのだ。
「私と父さん、付き合い出してからずっと交換日記してたんよ」
「えー・・・・・・なにその古風な交際」
完全に発想が昭和である。二人が結婚してた時はもうすでに平成だったと思うんだけど、と呆れる僕に、母は真剣な表情で力説する。
「馬鹿にしたらいかんよ。今時の子はすぐメールやラインだけど、無機質な活字じゃ想いは伝わらないものなの」
曰く、それは自分の筆跡ではない、あらかじめ機械に備わった文字でしかない。それで『愛してる』と言っても、伝わる気持ちは半分もないと言う。手間をかけ、自分の筆跡で伝える思いは必ず相手の心に響く。悩み、考え、今日一日を思い出して書き起こした文章はきっと読む人に染み渡る物語になるのだ、と。
なるほど、母さんは達筆な訳だ。
「それ、見てみたいなぁ」
「残念、お父さんがガッチリと封印してしまったのよ。昔の黒歴史だ、って」
いかにもありそうなオチに思わず笑う。あの父さんが交換日記を夜な夜な書いていた姿を想像すると、どうしても失笑をこらえ切れない。でも・・・・・・
(交換日記、か)
翌日、僕は書店に寄って、小遣いをはたいて一冊の日記帳を買った。そこらのペラペラなものじゃない、ちゃんと厚紙の表紙の入った、まるで辞書のような立派なものだ。想いを伝えるには勇気がいる、だったらこの立派な日記帳は、きっと僕の背中を、いや筆を押してくれるはずだと思って。
書く内容を一晩悶えながら考えた、何度も下書きしては消した。試行錯誤の末に辿り着いたのは・・・・・・
『好きです、付き合ってください』
この一行だけだった。自分の語力の無さに呆れるしかない。でも書けば書くほど無駄な、いわゆる蛇足が増えるばかりなので仕方ないと諦めた。
翌日、いつものように資料館にお弁当を持ってきてくれた彼女に、意を決してそれを渡した。
その夜、僕は寝付けなかった。
引かれないだろうか、笑われないだろうか、こんな立派な日記帳で交換日記とか、古いとか言われないだろうか。
嬉々として返事が来たらどうしよう、彼女はどんな可愛い字を書くのだろう、どのくらいの文章を返してくれるのだろう。
ネガとポジな思考が頭の中をぐるぐる回り続ける、僕は結局明け方まで寝付けなかった。
翌日、彼女は僕の目を見ずに、日記帳だけを差し出してきた。
その日の事は何も覚えていない。自分はなんて馬鹿な事を、身の程知らずな事をしたのだろうと、ただ鬱になっていた。この日記帳には恐らく何も書いていないだろう、あるいは拒絶の言葉が書かれているのかも。
ひとつ確実なこと。それはこれを見た時、僕の恋は終わるという事。
昨日の徹夜の疲れもあって、悲しい事実を突きつけられたこともあって、結局僕は日記を見なかった。それを見たのは朝、目が覚めてからだった。
(今日も学校に行かなきゃいけない、神ノ山さんとも会わなきゃいけない)
だから、見た。彼女の拒絶を、きちんと受け止めるために。
『返事は、もうちょっと待って下さい、お願いします』
まるで書道の先生のような美しい字で、それだけが書かれていた。
それはあまりに意外過ぎる返事だった。どこか達観したところがある神ノ山さんが、まさかの返事を保留してきたのだから。てっきり即答だと思っていたのに。
その日からしばらく、彼女は僕を避けているようだった。会話がなくなり、お弁当の差し入れも途切れ、本田君や渡辺君からは「落ち込むなよ」と慰められた。
でも、はっきりと振られたわけじゃない。
それは僕にとって、微かに望みを繋ぐ一本の糸であり、胸を渦巻く不安と負担でもあった。
そして一学期が終わる。これから長い長い夏休みだ、今日が終わればもうずっと僕は彼女と話すことは無いだろう。僕の儚い希望が消えかけたその日、校門をまたごうとしたその瞬間。
「天野君、これからちょっと、時間、いいかな・・・・・・」
神ノ山さんに、声を、かけられた。
付いて来て欲しい、と言われてバス停まで行き、そこから坂野町の犬伏という停留所まで移動した。あすかむらんどの風車を遠くに臨む山裾まで歩いて、彼女は「着いたよ」と言うように僕を見た。
「墓地?」
「うん」
そこは山を真っすぐに上るコンクリートの参道と、その脇にあるお墓の数々。ということは彼女は今日、お墓参りに僕を誘ったのだろうか。どうして、僕を・・・・・・?
坂を上る。いくつものお墓を通り過ぎていく。静謐な空気が夏の暑さを、爽やかな肌触りに変えていく。
そして『神ノ山家ノ墓』と刻まれた立派な、でももうかなり古いお墓の前で、彼女は足を止める。
「ここが私がいつか入る場所。それでね・・・・・・」
右手を斜めに示して、柔らかい笑顔で、それでもどこか悲しそうな瞳で、彼女はこう続けた。
「私の愛した人が、眠っている、お墓」
ああ、そうか。そういう事だったのか。
納得と言う名の重しが、心の深い所にどすんと落ち、それが氷のように溶け広がっていくのを感じた。
うん、わかったよ、受け入れよう。その事実を。僕の失恋を。
「私ね、ここに眠る人が本当に好きだった、心から愛していた」
彼女らしい言葉だ。この人がいい加減な恋愛なんかするわけがないんだ。
「一緒に暮らした、キスもした。セックスもしたんだよ・・・・・・私って、そういう女なの」
「それは・・・・・・別に悪い事じゃないと思う。本当に愛し合っていたのなら」
未成年で性交をするのはどうかと思うが、それが双方の想いの丈の結果なら他人がそれをとやかく言うべきじゃない。
しばしの沈黙が流れる。僕の心の中には、いつの間にか『失恋』という言葉が消え去ってしまっていた。
お墓の正面に立ち、手を合わせて瞑目する。そうだ、彼女はそこまで好きだった人を無くしてしまっていたのだ。それはどんなに悲しい事だろう、どれほど空虚なのだろう。そこに僕が立ち入るなんて出来ない、彼女の背負う物の重さに、ただ拝む事しか出来ないでいた。
「ごめん、辛かっただろうね」
交換日記で告白なんかして、返事に時間と重圧を与えてしまった。彼女には想い人がいる、忘れたくない人がいる。だったら僕の告白は、彼女にとって重しでしか無かったんだ。
「え?」
彼女はそう嘆くと、そのまま固まってしまう。吹き下ろす風が彼女の黒髪を揺らし、ネクタイを、スカートを同じ方向にたなびかせる。
そして、彼女はほろり、と、一筋の涙をこぼした。
「なんでよ」
力なくそう呟いた彼女は、そこから言葉を一気にまくしたてる。嗚咽と涙の入り混じった声で。
「どうしてよっ! 私は好きな人が居たのよ、セックスまでしてたのよ! それなのにあなたに気があるふりなんかして、お弁当なんかこしらえてその気にさせて! あんな高そうな交換日記まで買わせて・・・・・・返事をひと月も保留させて、それで、それでっ!」
そこまで嘆いて、彼女は顔を伏せて泣き崩れた。
「私を軽蔑、しなさいよ・・・・・・最低女って、言いなさいよ。二度と、話しかけるな、って・・・・・・」
「別に、いいと思うよ」
少し間をおいてそう言った僕の言葉に、彼女が「え?」と顔を上げる。
「僕も中学の時、好きな女の子がいたんだ。結局別の男子とくっついちゃったけど、もうその娘の事は忘れたよ。そして今、別の目の前の子を好きになっている。それって、間違いなのかな、不誠実なの、かな?」
僕の言葉に、まるで重しのとれたように両手を下げる彼女。その顔は、きっと次の言葉を聞きたがっている、そう見えた。だから・・・・・・
「いいと思う。神ノ山さんが、いつか他の誰かを好きになっても」
そうだ、失恋して次の恋を探すことがどうして悪いのか。運命の赤い糸なんて馬鹿げてる、もし彼女みたいにその人が死んでしまったら、もう一生恋愛無しで生きて行かなきゃいけないじゃないか、そんなの酷すぎる、間違ってるよ。
「僕じゃ役不足かもしれないけど、神の山さんがいつか、他の誰かを好きになってもいいと思う」
そう言ってお墓に向き直り、一言お詫びを入れる。ごめん、君にはひどいこと言っちゃったね、と。
どんっ!と衝撃を受けて世界が傾く。あわやの所で倒れそうになる、体に誰かがまるでタックルをするように抱き付いている。密着している部分から伝わるのは、嗚咽と、体温と・・・・・・そして、想い。
「役不足なんかじゃない! 全然役不足なんかじゃないよ! 足りすぎるくらいだよっ!」
僕の腕の中で、彼女は、そう叫んだ。
「好き、大好き! 他の誰より、晴樹さんよりも、君が、大好き・・・・・・っ」
消えていた心の光が、ふっと灯るのが感じられた。
よかった、自分の事を好きでいてくれたんだ。だから僕を今日ここに連れてきてくれたんだ。自分の気持ちを、過去も含めて僕に伝えるために。
「ありがとう」
「それは、こっちの、セリフ・・・・・・だよ」
神ノ山さんの肩に手を添えて、すっ、と引き離す。名残惜しいけど、まだちゃんと儀式をすませてないから。彼女もまたそれに気付いて、急いで涙をぬぐって、姿勢を正す。
「君が、好きです。僕と、つきあってください」
「はい、喜んで」
僕たちはもう一度抱き合った。彼女の前カレのお墓の前で。
「前の彼、晴樹さんとの思い出ごと、君と付き合っていくよ」
じゃあ始めよう、ふたりのこれからの第一歩を。
ぼくはカバンの中から交換日記を取り出す。いささか古風だけど、やはり明るい男女交際といえばこれだろう。
それを持って神ノ山さんに正対した時、彼女は目を閉じ、唇を紡いて僕の口の高さに向けていた。
「あ!」
意図を察して、思わず声が漏れる。これって・・・・・・つまり?
「へ?」
目を開け、そのままぱちくりさせて僕の顔と交換日記を交互に見る彼女。しばし固まる両者。
夏の墓地に、「この真面目男ー!」という声と共に、すっぱあぁぁん、と頭を豪快にハタく音が響き渡る。
こうして、僕たち二人の夏が始まった。
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