――時遡(トキサカ)――

素通り寺(ストーリーテラー)旧三流F職人

プロローグ 時を遡る呪い

第1話 赤い満月の夜、そこから始まる物語

『ねぇ、代わってよ』『おねがい、かわってー』『いいでしょー、かわってよー』


 それは、月が赤銅色に輝いた夜。

 老婆、神ノ山登紀かみのやま ときは夢を見る。


「誰や・・・・・・?」

 畳にしかれた布団に転がったまま、登紀は周囲を見回す。彼女の布団の周辺が赤く鈍い光を発しており、その下から、まるで沼の中から発せられているかのような声が立ちのぼって来る。


 そして、その赤い光の中から、細く儚い肌色の何かがゆっくりと生えてきた。


「・・・・・・手、やねぇ?」

 赤く光る畳から這い出してきたのは無数のか細い手だった。十本を超える手が登紀の布団の周りから生えて、手の平をこちらに向けている。


 それはまさにホラー映画のワンシーンのような、呪いの光景そのものだった。


 だが、齢七十七を迎える登紀にとっては驚きこそあれ、特に恐怖を掻き立てられる物では無かった。

 夫に先立たれ、子供は自立して孫、さらにひ孫の顔まで見た。自分の余生ももう何年もあるまいと思っていた彼女にとって、むしろ好奇心すら感じていた。


「あらあ、こないにひんけてやせこけて、おまはんら子供やろ?」

 上半身を起こし、枕元から生えている手の一つを両手で包み込む。それは子供の小さな手ではあったが、骨が浮き出るほどに痩せ細っており、爪はあちこちが割れ泥が食い込んでいる。


 そして信じられないほどに、冷たかった。


『あ、ぬくーい』

 登紀に掴まれたその細い手の下から嬉しそうな声が上がる。周囲の手たちはそれを聞いて『ぼくも、こっちもー』とその手をひらひらさせる。


「はいはい、まっとりや、順番になぁ」


 布団に座り、その手の一つ一つを両手で優しく包んでいく。それらは皆痩せ細った手で冷たく、赤切れやひび割れを起こして痛々しい手だった。下から届く子供の声も合わせて本当に哀れを誘うものであった。


『あったかーい』『うふふ、うれしい』『えへへ・・・・・・』


 手を包み込むたびに、畳の下から嬉しそうな、幸せそうな声が聞こえてくる。それが嬉しくて、少しでも温かみを分けてあげればと祈りながら次々と手を握る。


 全員分の手を握り終えた登紀は布団に正座して、周囲の手たちに声をかける。


「ほんで、この婆ちゃんに、何を代わって欲しいんや?」


 穏やかな声で発されたその問いかけに、手たちは何も答えない。この子たちの顔は見えずともその手の動きは、どこか申し訳なさそうな思いを感じているように見えた。


「なんや、遠慮せんで言うたらええんや。この婆でできるこっちゃったら何でもしたる」


 全ての『手』が、びくっ!と跳ね上がる。その手のうちの一本がヒジを折り曲げ、畳に手をついて力を込める。


『本当に、いいの?』

 そう言いながら畳の中から、その手の主である男の子が這い上がって来る。


『おねがいします』『かわってくれる?』『やったぁ』『うれしー』

 周囲から次々と子供たちが這い上がって来る。いずれも五歳前後の、そして哀れを誘う程に痩せ細った子供たち。身につけているのものも悲惨なほどボロで、中には全裸の子供すらいる。その肌の所々にはキズや火傷、凍傷の後が生々しく残っている。


 一体どういう仕打ちだろうか、この子たちはどんなひどい目に合ってきたのだろう。それを自分が代わってあげられるのなら、この子供たちが今よりいい生活を送れるなら――


「ええでよ、代わったるわ」


 目が覚めた時、彼女はその夢を、覚えてはいなかった。



      ◇           ◇           ◇    



「はっぴばーすで、とーゆぅ♪はっぴばーすでー、とーゆぅ、はっぴばーすでーでぃあ、とーきさん、はっぴばーすでーとぅーゆー!」


 今日は登紀の七十七歳の誕生日、いわゆる『喜寿』の日。それを祝して息子夫婦や近所の茶飲み友達がお祝いパーティを開いてくれていた。彼女はこの町内でも元気なお婆さんとして有名で、近所づきあいも積極的だったので人気者だったのだ。


「ありがとう、皆。ほなけんど、あと何回こんな事あるかねぇ」

「ときさんなら100まで生きるわ」

「ほんまになぁ、腰も曲がっとらんし、よう歩くしなぁ」


 登紀の言葉に周囲の爺さん婆さんが笑顔で返す。七十七歳にもなれば多くの者は腰が曲がっており、歩くにも手押し車に捕まらないとままならない者も多いのに、彼女は未だ背筋をピンと伸ばして山道すらスタスタ歩く、元気なお婆ちゃんなのだ。


「長生きして貰わんと困るわ、玄孫の顔まで見て貰わんと」

「無理言いない!」

 長男である浩二の無茶な注文に頭を叩くポーズを取る。先日ようやく浩二に孫、登起にとってのひ孫が生まれたばかりなのに、それが嫁入りするまで生きておれとは無理な注文だ。


 幸せな人生の晩節、その一幕である誕生会は皆が穏やかな笑顔に包まれていた、その時までは。


「そういやばあちゃん、昨日の月見た?すごかったなぁ」

 孫の壮一がそう聞いて来る。まだ九歳の壮一は腕白盛りで、この辺のガキ大将的な存在だ。


「あほ! おばあちゃんがそんな時間に起きとるかい!」

 父親(登紀の次男)の孝道にそうどやされる壮一。なんでも夕べの深夜は皆既月食とかだったらしく、太陽の光を地球に完全に遮られた月はその外周のみに光を受け、全体がうっすらと赤く光っていたそうだ。

「月食って月が消えるんかとおもとったけん、びっくりしたわ!」


「今朝の新聞に載っとるやろ、壮一取ってきぃ」

 えー、めんどいわー、とこぼしながらも席を立ち、玄関に向かおうとする壮一。


「わ!」

 部屋から廊下に出ようとしたその時、ケーキを運んできた浩二の妻、洋子とぶつかる。壮一はどうもなかったが、ケーキを抱えている洋子はバランスを崩し、そのまま倒れ込む。


 切り分ける為の包丁を添えたままのケーキが、部屋の宙を舞い――座っている登紀の目前に落ちる。その寸前にケーキ皿から零れ落ちた包丁が、真っ直ぐに彼女の顔に向かっていく。


 しゅっ、というかすかな音を立てて、包丁は登紀の頬を撫でて通過し、畳に突き刺さった。ほどなくケーキがテーブルの上に落下し、がっしゃぁん!と大きな音を立てて受け皿と共に崩れる。


「なんしょんな、ドアホ!」

 浩二がそう吐き出して洋子と壮一を叱り付ける。登紀は頬を押さえてうずくまっており、孝道が心配そうに駆け寄って声をかける。


「ばあちゃん、大丈夫いけるか、ケガしとらんか?」

 そうは言ったものの無傷では無い事を孝道は知っていた。包丁の刃が登紀の頬を斬る音が彼には聞こえていたから。


 騒然とする神ノ山家。集まった近所の爺さん婆さん達がまさかの事態におろおろし、息子や孫が登紀を囲んでその容態を心配する。


「……大袈裟にしないな、いけるけん」

 頬を押さえて身を起こす登紀。切れて出血はしているだろうけどせいぜい頬をかすめただけだ、そんな心配するような事態じゃない。

 その言葉に周囲が安堵に包まれる。折角のお祝いの日に大事になるかと心配したが……


「あれ?」

 そう発したのは孝道だった。彼は確かに切れたはずの母の左頬を見て驚かずにはいられなかった。


「……え?」

 ぺたぺたと頬を触って、その手を見て目を丸くする登紀。てっきり手には血が付いていると思っていたが、わずかな朱色も無かったのだ。


「なんや、切ってなかったなぁ、よかったやないか」

「さすがトキさんや、とっさに避けたんやろ、ウチなら切れとった」


 やれやれと収まるその場。浩二は潰れたケーキと割れた皿を片付けて、孝道は壮一にゲンコツを落とし、洋子は登紀に平謝りに謝っている。


 だが、登紀はその周囲とは別の想いに囚われていた。


(なんで・・・・・・?確かにあの時、切ったはず)

 確かな感触があった。自分の頬を掠めた包丁の刃は、間違いなく自分の肉を切り裂いたはずだ。なのに頬に手を当ててみると、血も肉も、いや皮すらその痕跡が残っていなかった。


 場が落ち着いて解散となった時、登紀は畳に落ちている皿の破片を見つけた。親指ほどの大きさのそれをそっと手に取ると、彼女は皆に見えないようにそれをぎゅっ!と握りしめた。


 痛い。それはそうだ、所々尖っている陶器の破片なんか握ったらそうなる、当たり前だ。


 だけど次の瞬間、痛みは消えていた。


 手を広げる。そこにあった破片は、まるで角が取れたかのように、小さく形を変えていた。


「……え?」

 手の平は無傷だった。どうして?破片を握り込んだのに、血も出ていなければ刺し傷も出来てはいない。


「……どうして?」

 呆然とする登紀。と、それを後ろから見ていた孝道が声をかける。

「お母さん、今のは一体?」


 彼も先程あの包丁が母を傷つけたと確信していたが、その母が無傷な事に違和感を感じていたのだ。そしてその母が今、陶器の破片を握りしめて手を開き、その手が無傷である事に本人が驚いていた。


      ◇           ◇           ◇    


 その日以降、登紀は自分の体の異常に気付いて周囲の人間と距離を取るようになっていた。


 唯一秘密を知る孝道と共に自分の体を調べてみた。刃物で切っても、焼け火箸を当てがっても、挙句にペンチで指先を潰しても、痛いのは一瞬で、次の瞬間にはキズも痕も無くなっていた。


 特に異常だったのは何かで体を刺した時だった。やはり痛いのはその時だけで一秒もすれば刺す前の手に戻っていた。

 そして……刺した針の先は、肌から先が無くなっていた・・・・・・・のだ。まるで体に取り込まれ、溶けて消えたように。


 半年後、孝道の口利きで市内の大学病院の有名な外科医に事情を説明し、診てもらう事にした。

 こちらの話を聞いてその医師は馬鹿な事をと笑ったが、目の前でナイフを手首に突き立てて見せるとさすがに黙らざるを得なかった。


 理解を超える現象に青い顔をしながらもその医師は、詳しく調べたいので一週間ほどの入院を勧めて来た。


 皮膚、内臓、骨、そして脳。様々な角度から検査を続けるが、その度に医師は頭を抱えるばかりだった。

 何かに気付いてはいるようなのだが、彼の医師としてのプライドがそれを認めたがらないかのように苦悩している、どうもそんな風に感じられた。


 そして一週間が過ぎ、退院の日。


 診察室でカルテの入った封筒を登紀に渡す医師。しばらくの沈黙の後、彼はこう告げる。

「貴方は・・・・・・貴方の細胞は、1秒ごとに”2秒前”に戻っています!」


 その回りくどい言い回しに思わず首を傾げる。それを察したか医師は、絶望的な表情で登紀にこう告げた。


「つまり貴方は、1秒ごとに”若返って”いるんです!」



 1961年(昭和36年)日本、徳島県坂野町。

 彼女、神ノ山登紀かみのやま ときの絶望的な人生が、ここから始まる――

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