休館日前日

晴れ時々雨

🪟

暑いねぇ、と不意におじさんが言った言葉に目を上げた。八月十一日のうだる地区会館での午後、陽射しをよけた位置の机で本を読んでいた。環境や節電に配慮した設定温度を保つ室内の気流は、その上換気作用の名目で開放された窓から入るぬるい風と対流を起こしていた。

夕方は雨かもしれない。さっきより吹き込む風が強い。空気の動きが僅かな涼を運ぶ。

「こっちへ来てごらん」

おじさんの声に従った。一人に飽きていた。

規定でもあるのか、図書室の窓は全部が測ったように同じ方向がきっかり三分の一だけ開け放たれていたが、おじさんはその一枚だけ全開にして私を招いた。それから空を見上げ、

「来るかな」

とぼそりと言った。

胸がざわりとした。たぶん雨のことを言っているのだろう。半端に上げられたブラインドがしゃらんと鳴り、ブラインドの羽をたくしあげる紐が小さく暴れた。それが近寄った私の髪に絡みそうになり、おじさんがよけた紐を羽の隙間に挟み込むために腕を伸ばした。私の頭を掠りながら、おじさんが後ろで背伸びして腕を伸ばし、紐に触れた瞬間ざっとブラインドが下がった。バランスを崩したおじさんが後ろから私の背中にのしかかる。

「ごめん」

焦ったような口ぶりだったが離れる素振りはなく、しばらく密着していた。

「気持ち悪いこと言っていい?」

「だめです」

「はじめの一句が否定かぁ」

ふっと笑った鼻息で私の髪が動いた。おじさんは鼻先で私の髪を割り開き、そこに留まったまま深々と呼吸をした。何度もそうされるうち、自分もこっそりそれに息を合わせた。

「たまらなくなるね」

その囁きは、世界中の誰にも聞かせてはいけないないような声で私にだけははっきりと響いた。

こんなに他人と、男性と近づいたことはなかった。おじさんと重なる部分がとても熱い。子供の頃、母親や父親に抱きしめられたことはあるがそれももうすっかり忘れてしまった。形としては同じなのに、あの頃とは感覚がまるで違う。感じる体温も、高温や病気の高熱とは異なる熱さだった。私の動作ひとつで、話の結末が変わるような切迫感。咄嗟に身を捩ろうとした。けれどおじさんは制した。

「そのまま」

おじさんは、世間的にまだ若いのかもしれない。そんな声だった。

私は急に淋しくなった。今のこんな体勢から逃れて正面を向かなければならないと思った。そのためには何でもするつもりだった。

「私…」

おじさんは私の胸の前で交差した腕を思い切り締めつけて窒息させ、言葉を奪った。真夏の気温と湿度以外の熱が私のせいであって欲しいと、衝き上げるように思った。そう思いながら頭の片隅では、今日は髪を上げてくるべきだったか、下げておいてよかったのかなんてしきりに考えていた。

私たちはひとつの影になり、窓辺で揺れた。窓の外の梢のように、ブラインドのように、ささやかに。そしてひとしきり揺れたあと、おじさんが大きなため息をついて、私も秘かに息を吐いた。

「もう帰りな」

雨が降るから。

大人っていやだ。何でも予測して備えようとする。私は一人になりたかった。でも体をくっつけても独りになれるんだね。

私は予測なんてしない。これから降る雨が上がり、また一人になりたくなったときのことなんか。

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