触手な彼氏とSな男。

貴津

触手な彼氏とSは男。

 ある晴れた日の午後。

 紀野理一きの りいちが洗濯物を干そうとサッシを開けると、ベランダにイソギンチャクが寝ていた。

 比喩でも例えでもなくイソギンチャクだった。海中の岩場とかに居るあの触手がいっぱいでフヨフヨしているアレだ。

「え?」

 サッシを閉めて、目を擦って、もう一度サッシを開けてみるが、イソギンチャクは消えない。

「うそ……」

 嘘じゃない。

 素足だったが爪先でチョンと突いてみた。爪先にプルンとした感触が伝わり、確かにそこに居るのを感じる。

 しかも、よく見るとイソギンチャクの触手の下に男が寝ている!

「ヒッ!?」

 理一は悲鳴を上げて後ずさった。

「く、食われてるっ!?」

 家賃6万8千円、築35年のマンションの5階ベランダでイソギンチャクに人間が食われている。

「け、け、警察っ」

 洗濯物を放りだし、慌ててベッドサイドに置いてあるスマホを掴み、110番しようとして――手が止まった。

「え……?」

 体が動かない。

 指先は動くが腕が動かず、スマホの画面に指が届かない。

 腕だけじゃなかった。

 腕も、脚も、胴も、頭も動かせず、何かに引っ張られるような、縛られているような、訳の分からない状態で体が動かない。

「何……これ……」

 金縛り……にしては、力ずくで押さえられている感が半端ない。

『静かにしろ』

 理一の頭の中に声が響く。

「ひっ、あ……ぁ」

 背後から赤い紐の様なものがどんどん絡まってきて、理一の体の動きを奪っている。

 スマホを持っていた手の指が開かれ、スマホが床に落ちた。

 指先にはミミズくらいの赤い触手がグルグルと巻き付いて、動きを封じた上に操り人形の様に理一の身体を無理やり動かす。

『良い子だ。そのまま黙ってろよ』

 低い声が頭の中で響くと、理一は体が竦んで逆らえなくなった。太細様々な触手は、どんどん身体に巻き付き覆って行く。

「や、だ……」

 理一は微かに抵抗を試みるも、逆に開いた口の中に触手が入り込んできて黙らされた。

「ぅ、ぐぅ……ん」

『このまま、少し食わせろ』

「っ!?」

 恐ろしい事を言われてパニックになるが、身体がまるで動かない。

「ぃひゃ、あ、ぐっ、ううっ」

 叫ぼうにも口の中には触手が入り込み、だらだらと唾液が溢れるばかり。

 もがくことも叫ぶこともできずに、理一は触手に身体を開かれる。

 指に指を絡ませて手を開かせるように、触手が四肢に巻き付き腕と脚が開かれた。身体が開かれると同時に、巻き付いた触手に支えられ体が宙に浮かぶ。しかし、それでも身動き一つとれない。

『美味そうな匂いがする……』

 触手がうっとりと呟く。

 触手のどこに口があるのかわからないが、頭の中にうっとりした声で「美味そうだ」とか「たまんねぇ」とか響きまくる。

「うぅ……」

 理一は涙と唾液で顔をベタベタにして、何とかもがこうとするが、触手にがっちりと拘束されている。

(やだ……)

 逃げる術も為す術もなく、あのベランダにいた男の様にこのまま食われてしまうのか。

「ぃひっ、んっ!?」

 もぞっと触手が服の中に入りこみ始めた。袖口から、ウエストから、もぞもぞと肌を弄りながら入り込んでくる。

(やだっ! やだっ!)

 理一は一層暴れるが、触手はお構いなしで理一の肌を弄る。

 やがてその先は理一の尻に届き、その隙間へと強引に入り込んできた。

(尻から食われるっ!?)

 頭の中にSFホラースプラッタな光景が浮かぶ。

 触手に巻き付かれ、体の中に侵入され、消化液を出されて腹の中から溶かされて食われる!

(やだーーーーーーっ!)

 理一は悲鳴が出ない代わりに、思いっきり歯を食いしばった!


「!?」

『!?』


 ぶつっと触手が噛み切れた。

 しかも勢いでそれを飲みこんでしまった。


「やだーーーーーーーーっ!!」

『ちょっ! おまっ! 何やってんだよッ!』

 触手が慌てたように、理一からズルンと解けた。

「うぇっ、げほっ、けっ、ううっ、飲みこんじゃった……うぇっ」

 理一は吐き出そうとするが、飲みこんだ先はすっかり腹の奥に落ちてしまって出てこない。

 ゲホゲホとえずいていると、急に男に顔を掴まれた。

「ちょっと見せろっ!」

「だ、誰っ!?」

 触手に代わりに今度は見知らぬ男。

 理一が暴れる前にプロレス技の様にがっちり男の足と腕にホールドされて、男に無理やり口を開かされた。

「あがっ、ぎゃ、やぎゃっ、ああっ」

「少し黙れ。……あー、飲んじまったな……」

 男はこじ開けた理一の口をじろじろと眺めまわしてから、がっくりと肩を落としてそう言うとポイッと理一を開放した。

「ちょ、あ、あ、あんたっ! 誰だよっ! 触手っ!? イソギンチャクはっ!?」

 腰が抜けて立ち上がれない理一が慌てて部屋の中を見回すと、イソギンチャクの姿はすでになく、男が胡坐をかいて座っているだけだった。

「あんた誰だよ!」

「イソギンチャクってなんだよ?」

 理一と男は同時にそう言い合って、互いに向かい合って同時に沈黙した。

「……誰だ?」

「あー……説明すると長い」

「説明しろ! なんで部屋に勝手に入って来てんだよ? あのイソギンチャクなんだよ? って、俺あれ食っちゃったのか! うげっ」

 思い出したように理一は風呂場へと駆けて行き、洗面台でがぶがぶ水を飲んで吐こうとしたが、腹が膨らむばかりで吐きだせない。

「無理だよ。溶けちまった」

 男が風呂場の入り口まで来て中を覗きながら言った。

「げっ……ウソだろ、つか、何であんたがそんなことわかんだよ!」

「わかるんだよ。ありゃ、俺の一部だしな」

「はぁっ?」

 男はニヤッと笑うと、理一に手のひらを向けてみせた。

「?」

 男の手のひらを見ると、うっすらと盾に赤い線が入って、そこが裂けるように開く。

「!? ……っ! ひぃっ!」

 裂け目から赤いものが溢れ出たが、それは血ではなく赤い――触手だった。

「ぃぎっ! ぎゃっ、んぐ」

 溢れ出た触手は器用に理一の顔に巻き付き、鼻から下を塞いでしまった。

「あんた、いい匂いがするな」

 男が触手を吐きだしている手で手招きするだけで、理一は触手に引きずられて男の方へと引き寄せられる。

 引き寄せられた理一の身体を抱きとめると、男はうっとりと首筋に鼻をうずめた。

「たまんねぇ匂いだ」

「う、むぐ、うっ」

 再び触手が理一の身体を這い回り始める。

 男の手からだけではなく、足元や背中を服の上からそわそわと撫で擦られた。

「んっ、んんっ」

 口を塞がれているために鼻で息をしているせいか、さっきまでは感じなかった匂いを感じる。

 理一を抱きしめている男の香水だろうか、淡い水の匂いの様な清涼で少し甘い香りがした。

 その匂いを嗅いでいるうちに、理一の体から力が抜けて行く。

 パニックが落ち着くというよりは、何か睡眠薬のようなものを嗅がされているような酩酊感と眠気が意識を濁らせる。

「んっ……」

「相性もいいな。よし決めた」

 男は理一をぎゅっと抱きしめて言った。


「お前を俺の嫁にする」


 ◆◇◆


「イテッ、イテテ……」

 理一にいきなりお前を嫁にする宣言をかました男は、真っ赤になった頬にアイスパックを包んだタオルを押し当てながらブツブツ文句を言っていた。

「なんだよ、いいじゃねぇか……俺のどこが不満なんだよ」

「不満だらけだろ! どうして俺がお前の嫁になるとか普通に思ってんだよ! ワケわかんないよ!」

 嫁にする宣言の直後、更なるパニックに陥った理一は、腕と触手を振り解いて力いっぱい男――じんをぶん殴ったのだ。

 一撃沈没でぶっ倒れた陣を前に、ハッと我に返った理一だったが、目の前に倒れている陣は再びパニックに陥りそうなほど奇妙な物だった。

 背中からあふれ出ているのはイソギンチャクのようなあの触手。陣は触手に食われていたのではなく、触手が背中に生えていたのだ。

「ひとの部屋に勝手に入ってきたイソギンチャクの嫁とかありえないだろ」

「それは謝っただろ。悪かったよ。ちょっと疲れていて、行き倒れてたんだ。そしたら、すごくいい匂いがしてきて、ふらっと近寄ったらお前だったんだよ」

「食べようとしたじゃないか! この人食いイソギンチャク!」

「バーカ。食うってのは飯みたいにムシャムシャいく以外にもあんだろ。ほら下のお口でいただきますとかさぁ」

「アホかっ! 下衆! 下品! バカ! アホ!」

「アホ二回言った」

「何度でも言うよっ! バカ!」

「なんだよ、初対面の相手にそれは無いだろ」

 陣は頬にタオルをあてたままブスくれる。

「それを言ったらあんたの方が無いよ! 食わせろ? 嫁? 男同士であんたはイソギンチャクじゃないか!」

 なんだか普通に会話に突入しているが、理一は絶対に嫁だけは回避したい。嫁どころかイソギンチャクの知り合いとかも絶対ごめんだ。

「イソギンチャクとは失礼だな。俺は歴とした地球外生命体だ」

「もっとヤダ!」

 理一は即答するが、陣も引かない。

「ヤダじゃねぇ。お前が嫌がっても、俺は宇宙人だし、お前は俺の嫁だ」

「ワケわかんない!」

 まったくもって会話にならない。

 真っ赤に腫れた頬が流石に気の毒で冷やすモノを貸し与えたが、それすら間違いだったのだ。即座に追い出せばよかった。

「わかんなくねぇよ。お前は俺の一部を食ったんだから、これから俺と同じものになるんだよ」

「!?」

 それは衝撃的な事実だった。

 イソギンチャクを食べたらイソギンチャクになるなんて聞いてない。

「ナニ、ソレ」

「お前は俺の体の細胞を食っちまっただろ? 俺たちは自分の体の一部を嫁に与えて、自分たちと同じものに変えて一緒になるんだ」

「俺もイソギンチャクになるってことっ!?」

「いや、姿かたちじゃなくて、お前はその姿のまま、俺たちのようになる。悪いことはねぇよ。体も丈夫になるし、頭も少し良くなる」

「そんなこと言われたって騙されない! なんだよっ、そのインチキサプリの宣伝みたいなの! 騙されるかっ!」

「騙してねぇよ」

 陣はそう言いながらも、理一から視線を逸らした。

「あ! 目ぇ逸らした! 怪しい!」

「うっせーなぁ、大人しく言う事聞けよ!」

「逆ギレか! このイソギンチャク!」

「うっせぇ! 大人しく嫁になれ! このチビ!」

 二人そろって立ち上がり、ぎりりと睨みあう。

「言っちゃイカンこと言ったな! イソギンチャク」

「イソギンチャク違うわ! このチビ」

 どうやらお互い逆鱗を逆撫でまくったようだ。

 理一は陣と向かい合っても頭一つ以上小さい。身長は160センチほど。これと童顔であることが合わせて猛烈なコンプレックスとなっていた。

 対して陣は身長こそ180センチほどで恵まれた体躯をしていると言えるが、背中からはずるりと触手が這い出している。イソギンチャクと言われてもその通りなのだが、彼なりにプライドに障るようだ。

「やるか? イソギンチャク!」

「チビになんぞ負けんわ」

 先手は陣だった。言い争っている隙に、足元から触手を理一の方へと潜ませて、一気に下から理一の下半身を拘束する。

「っ!?」

 しかし、それより先を読んでいたのは理一の方だった。

 理一は足元に迫った触手を思い切り踏んづけると、踏んだその触手を捕らえ、力いっぱい自分の方へと引っ張った。

「あぁっ!?」

 予想外の動きに隙を突かれた陣は、つんのめるように理一の方へとバランスを崩す。

「もらったっ!」

 よろけた陣の首に、理一の回し蹴りがヒットする。

 力加減は抜群で、理一は蹴り倒すのではなく、脚でそのまま押すようにして陣の身体を床に押し倒した。

 押し倒された陣は、背中に乗られた理一に完全に制圧された状態だ。

 この間、数秒。

 見事な技の勝利だった。


「お前、いいわ。俺の嫁になれよ」

 踏んづけられたまま陣はうっとりと言った。

「俺と一緒にいるには理想の嫁だわ」

「だから、嫁とか絶対嫌だ。まだ蹴られたりないのか?」

「いやいや、俺とやりあえるだけすげーんだって」

「自惚れんな、イソギンチャク!」

 理一は陣の背に跨る様にして座り込んだ。後は何とかしてこいつを追い出さなければならないのだが、こうして側に居るとさっきの良い匂いが香ってきて、何だか怒りが抜けて行ってしまう。

「お前さ、俺の嫁になればもっとその身体能力上がるぞ。俺の細胞を取り込んで、組織体が俺らに近い物になれば能力はグンと上がる。俺はどっちかっつーと頭脳派じゃねぇが、身体能力は悪くないはずだから」

「うっせ、俺に蹴り倒されてるくせに何言ってんだよ」

「あれはほんの少し油断しただけだっての……ほらよっと」

「うわっ」

 陣は背中に理一を乗せたまま腕立ての要領で身体を起こすと、器用に触手を使って太腿で陣の背にしがみ付いたままの理一を掬い上げた。

「お前はチビだけど、ちゃんと重いキックも出せるし、人間にしては運動能力がある。俺の嫁になれば、もっと体が動くようになるぞ?」

「っ!?」

 理一はお姫様抱っこをされるように抱きかかえられて、耳元に顔を寄せてワントーン低い声で囁かれた。

 相手は男でイソギンチャクだと分かっているのに、何故かボワッと体温が上がる。

「触った感じ、体も悪くないな」

 陣がそう言うと、さわわっと触手が体に巻き付く。

「や、やめろっ」

「なあ、悪い話じゃねぇだろ?」

「……ヤダ……」

 密着すると更に香りが強くなって、思考が奪われて行くようだ。

「たまんねぇ、匂いだな。……美味そうだ」

 陣の様子もどこかおかしい。

 最初からおかしいのだが、よりおかしくなっている気がする。

 熱に浮かされる様にぼうっとなっている理一の頬に、陣の唇が寄せられ、舌でぺろりと舐められる。

「ゃ……」

 嫌なはずなのに、理一も小さな声でしか抗えない。

 そんな弱弱しい仕草が逆にそそるのか、陣は噛みつくように理一と唇を合わせる。

「んぅ……」

 濡れた舌を絡ませ合い、口蓋をぬるぬるとなぞられると、身体の奥がゾクゾクしてくる。きゅうっと何かが疼くような切ない感覚。

「ふ、ぅん……んっ」

 陣の舌が理一の舌の付け根を擽っていたかと思うと、そのままするっと喉の方へと滑り降りる。

「んっ! んんっ!」

 喉が詰ることもなく、喉の奥の粘膜を擦られると、疼くような切なさで体の芯がそわそわと落ち着かなくなる。

 匂いはますます強くなり、陣が発情しているんだと本能的に感じた。

(この匂いは、こいつの匂い……)

 鼻腔を通って胸に入ると、そこに火が灯るように暖かくなる。香りは清涼な青い香りで、もっと胸の奥に入れたくなるような香りなのに。

 気が付けば、理一の方から陣の背に腕を回し、しがみつくようにしてキスを楽しんでいた。


 陣は確かに宇宙人かも知れない。

 絶対なにか怪しげなフェロモンの様なものを分泌していて、理一の思考力を奪ってメロメロにして、よく分からないうちに嫁にして、そのうち食おうと狙っているに違いない。

「失礼だな。実際バリバリ食うんじゃねぇよ。それにそう言う意味で食うんだったら、それはお前の方が食うんだ」

 一頻りキスを堪能した後で、ハッと我に返った理一に空手チョップを食らわされ頭にアイスパックを乗せている陣が、理一の向かいでブスくれた様子で言った。

「そんな事より帰ってほしいんだけど!」

「まあ、そう言うなって。でも、もうお前は俺に逆らえない感じだろ?」

「う……」

 そうなのだ。空手チョップを食らわせた後、尻を蹴っ飛ばしてベランダから外に追い出そうとしたところ、陣の「蹴るな!」と言う命令一言で体が勝手に止めてしまった。

 それどころか、コーヒーが飲みたいだの、アイスパックが欲しいだのと言う命令まで何故か全部従ってしまう。

 しかもそれが嫌じゃない。

「ホントに何してくれんだよ! このイソギンチャク」

「口が悪いのは許してやるよ。それも可愛いしな」

 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる陣に、理一は切れる直前だった。

「まあ、冗談はさておき、本題だ」

 陣はアイスパックを下すと真面目な顔で言った。

「お前に残された選択肢は二つだ。俺の組織体を受け入れて同化する。この場合は即俺の嫁だ」

「断る」

「話は最後まで聞け。もう一つの選択肢は俺を受け入れない。この場合は体内に俺の組織体が俺としての自我を持ったまま残る。要は俺がお前の中から遠隔でお前を操れる。今俺がコーヒー出せって言ったら出しただろ? そう言う事が出来る」

「死ねっ!」

 理一は空になったカップを投げつけようとして、すかさず触手に止められる。

「お前が俺を受け入れてくれたら俺も助かるんだよ。俺は自分の組織体を受け入れた相手と組織交換しないとあと5年くらいで死ぬんだ」

「……知るかよ」

「お前にとっても悪い話じゃないのはさっきもしたろ? それに俺はお前が気に入ってるんだ。こんないい匂いの人間は初めてだ……」

 触手に捕まれた腕がぐいっと陣の方へ引っ張られる。

 陣は引き寄せた理一の手を取って、その甲に唇をつけた。

「匂いってなんだよ。そんなのシャンプーか柔軟剤でも変えたらすぐ変わるだろ! 大体イソギンチャクに嗅覚ないだろ!」

「バカだなぁ。蛇は舌の先で匂い嗅いでるって知ってるか? 俺たちもこの触手の先で五感のすべてを補ってるんだ」

「蛇かよ……」

「全然違う生き物だけどな。俺たちはこの地球上の生き物の系統からは完全に外れている。ただ、それ故に人間の助けが無いとこの星で生きて行けない……」

「…………」

「俺を助けると思って頼むよ。悪いようにはしない。無理強いもしねぇ。大事にするから」

 陣は手を握ったまま、テーブルの反対側に居る理一の方へと身を乗り出す。

 鼻筋の通った男らしい顔。

 童顔で背の低い理一が憧れてた姿が目の前にある。

 こいつは男で宇宙人でイソギンチャクで……と繰り返し唱えても、どうしても目が逸らせない。

 腕を引いて離れたいのに、それすらできずに見つめてしまう。

「これもお前の細胞の所為かよ?」

「そうだ。でも、受け入れてくれたら、俺はお前のものになるから、命令するようなことは出来なくなる。あくまでも対等な立場で、共生関係を保つんだ」

「共生……」

 声に逆らえないだけじゃない。

 こうして顔を突き合わせていると、再び意識が持って行かれそうになる。

 頭の中で何かが拒むことを妨害していて、陣の言葉に頷いてしまいたくなる。

「……無理」

 理一はやっと絞り出したものの、声は弱弱しく小さい。

「俺も無理」

 陣が理一に顔を寄せる。

 固まったまま動けなくなった理一の耳元で甘く囁いた。

「ハイって、言え」

 その言葉に頷いてしまいたい、その言葉に従ってしまいたい、そんな欲求で頭の中が一瞬でいっぱいになる。

 破裂寸前の風船のような頭を抱えて、理一は唇を震わせながら抗った。

「ダメ」

 その言葉と同時に、陣の顔が遠ざかり、少しだけ匂いが遠退く。

 その途端、いっぱいだった何かが抜けて、理一はへなへなとテーブルに突っ伏してしまった。

「ちぇっ、無理か」

 陣はケロッとした顔で嘯くと、今までの濃厚な空気が嘘のように立ち上がった。

「ま、でも、あきらめないからな。お前を絶対俺の嫁にする」

「……ふざけんな」

 理一は顔も上げずに切り捨てる。

 もうあの抗いがたい圧迫感はない。

「俺は粘り強い男なんだよ」

「イソギンチャクじゃなくて、タコか」

「減らず口も可愛いぜ」

 そう言って、くしゃっと理一の頭を撫でると、陣は部屋から出て行った。


◆◇◆


「普通はそこで話が終わるもんじゃないのか?」

 ベランダで洗濯物を干しながら、理一は隣室との境を蹴っ飛ばした。

 その向こうには、先刻、理一に無体の限りを尽くした陣がニヤニヤしながら覗いている。

「仕方ねぇだろ。ここに住んでんだから」

 そう言えば、長く空き部屋だった隣室に誰か越してきたとは思っていた。そして、時間が不定期な仕事をしている理一は、ドアノブにかけられていた挨拶状とお菓子でその存在を知っているだけだった。

「いやぁ、ホントは自分の部屋に近道しようとベランダに飛び込んだんだけど、一部屋間違えちまってさ。そこで電池が切れて眠っちまったんだけど、起きたらいい匂いの理一がモーニングサービスよろしく出てきたら、そりゃ据え膳喰わぬは男の恥でしょ」

「なにがモーニングサービスだ! 変態イソギンチャク!」

 理一はもう一度ドカッと仕切りを蹴飛ばす。

「そんなに蹴ると穴が開くぞ。それともなにか? リフォームして二人の愛のトンネルでも作っちゃうか?」

「うるさい!」

 最悪だ最悪だ最悪だ。

 隣室に変態イソギンチャクが住みついてるなんて最悪だ。

 それなのに、仕切りの向こうからはいい匂いがしてるし、こんな変態イソギンチャクなのに隣に居るのが嫌じゃないとか最悪だ。

 冷たく仕切りを蹴っ飛ばすにも理性を総動員して拒まなきゃならないなんて最悪だ。

 下手したら、うっかり変態イソギンチャクの誘いに頷いてしまいそうだなんて、本当に最悪だ!

 理一は洗濯ものを干し終ると、空いた洗濯かごを持って部屋の中に入ろうとする。

 後ろでなんか言っている変態イソギンチャクは無視だ。

 部屋に入って時計を見ると仕事に出ないとならない時間で、理一は慌ててテーブルの上に出しっぱなしだったものを鞄に詰め込み、支度をして部屋を飛び出す。

(くそっ! 遅刻したら変態イソギンチャクの所為だ!)

 こんな些細な手間を取らされた事も腹立たしい。

 だが、今日から理一は泊りがけでの仕事だ。少なくとも10日は変態イソギンチャクを顔を合わせることもない。

(少し離れたら、この変な気持ちも治まるだろ)

 そう気を取り直して部屋を出た理一だったが、部屋を出ると再びそこに陣の姿があった。

 陣はボストンバッグを持って立っている。

「よう、一緒に行こうぜ」

「はぁ?」

「お前、仕事だろ?」

「何言って……っ!?」

 陣は手にしたボストンバッグの中から、見覚えのある本を取り出す。

 さっき同じものを自分のカバンにも詰め込んだ。

「お前さー、自分の仕事の看板ぐらい顔覚えておけよ?」

 呆れた調子で笑う陣が手にしているのは、先日クランクインしたばかりの映画の台本だった。

 理一はそれのスタントマンとして撮影に加わることになっている。

「看板って……あっ!」

 映画の主役は確か最近評判の新人俳優だ。新人と言うほど若くはなかったが、舞台上がりで演技力に評判があって……。

「あーーーーーっ!」

 スタントマンの理一は基本的に読み合わせなどの打ち合わせには出ない。スタント同士の打ち合わせだけで済ますことも多く、キャストと顔を合わさない事もある。

 しかし、そこにいるニヤついた変態イソギンチャクは、言われてみれば確かにティザービジュアルのメインに載ってた男の顔。

 俳優・三守陣みかみ じんだった。

「と、言う訳で、今日からよろしくな。ヒロインスタントの西島 理一くん」

 陣はにっこりと笑うと理一の肩をポンと叩いた。


 変態イソギンチャクこと三守 陣の【俺の嫁獲得計画】はここから始まるのであった。



―― ひとまずおしまい。

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