不可解法律全書 世界の不合理な法の合理的な世界

よるきたる

四殺無罪の法──刑法

 一七四〇〜六〇年代、現山梨県S市中合村


 江戸時代の刑事事件はおおむね各藩の自律的解決に委ねられていた。とはいえ、中央からの統制がまったくなかったわけではない。幕府の発した公法としては公事方御定書が代表的であり、地方においてもある程度統一的な刑事裁判がなされていたとの見解が通説である。特に殺人については、原則として極刑をもってあたるというのはどの土地でも大差がなかった。

 中合村もその例に漏れないが、一点、特殊だったのは四人殺せば無罪とする法が存在したことである。中合村は現在のS市郊外に存し、一七四〇年代から二十余年は旗本・前郷紀彰の知行所とされていた。問題の法は一七七三年の筆とされる前郷家の家史『前郷史議考』に記載がある。

 同書には「前郷村の農民某、金主を殺したること」と題された一節があり、以下のような出来事が記されている。農民の某は村でも有数の地主であったが、賭博の悪癖があり、多額の借金を抱えていた。土地は金貸しに取り上げられ、もはや万策尽きたと考えた農民は金貸し三名を殺害し、さらに無関係の農民一人を斧で斬り殺した。男があえて四名を殺したのは、無論、四殺無罪の法を知っていたからである。

 男は逃亡を図ることもなく堂々と前郷家の屋敷の門前に姿を現し、裁きを乞うた。法に従えば無罪放免となるはずである。しかし前郷紀彰は農民の主張を退け、匕首を手渡すとそれで己の喉笛を切るように迫った。農民は逃げ切れぬと悟ったのか、自らの首を掻ききったという。

 前郷紀彰は己の定めた法律を破ったのだろうか。これについて『前郷史議考』は次のように説明する。

「四人を殺した者の無罪となるは法の通りなり。農民某は四人を殺した末、己の首を切り、もって五殺せしより罪なきにあらず」

 理屈ではあるが、屁理屈である。さらに言えば、はたして農民某が真実、自刃したかは不明である。前郷家の者に斬り殺され、書類上の処理としてこのようになったと考えるのが自然であろう。

 そも、なぜかような法が生じたのか。前郷紀彰は中合村を領地として与えられた直後の一七三八年に、村の農民の女四人を惨殺したとの記録が甲府藩の郷土史に残されている。切り捨て御免の法がまかり通っていた当時であっても、ゆえなき殺人が赦されていたわけではない。紀彰は己の不名誉を隠すため、四殺無罪の法を定めたと推測される。奇しくも山梨には源頼光が訪れ、群盗四人を一太刀で切り斃したとの逸話が残されている。紀彰は源頼光伝説にあやかってこのような法を創り、自らの行為を正当化したのではないだろうか。そこには無罪を願って四人ものひとを殺す者など現れまいという甘い考えもあったのだろう。しかし実際にそのような事件が起こったとき、紀彰は理屈を操ってこれを罰した。

 前郷紀彰は江戸城内で風紀を乱した廉で、一七六二年に切腹となり、所領も召し上げられた。同時に、四殺無罪の法も効力を失った。


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