目に見えない世界こそが重要である

 人はだれでも老いていく。残念なことに、肉体は次第に衰弱し機能不全に陥り、やがて心臓の鼓動が止まる。死へのカウントダウンからだれも逃れることはできない。

 老いとはまったく困ったものだ。以前はちゃんと出来たことが次第に出来なくなり、つい苛立ち、だれかにかに当たったりしてしまう。だれも口に出して言うわけではないのだが、『あんたは、もう終わってる…』と、嘲笑されているかのように感じてしまう。しかし、これはすべて、地上での生活の最期の日に人生が終わるという死生観に基づいたネガティブな人生観に原因があるのだ。最期に近づくほどに恐怖とストレスに襲われるというなら、それはネガティブなものだと言わざる得ない。

 ところで、我々の社会には、充分な敬老精神があるだろうか? 成熟した立派な社会なら、老人が幸せに生き生きと暮らしているはずだ。老人を大切にできないなら、それは心貧しい社会だと言わざるを得ない。どんなに科学や工業技術が発達し経済が豊かであって駄目である。だれもが同じ終着駅を目指して生きているのである。それなのに、その最期に対して希望を持つことができないなら、どうすればいいだろう? 老人を敬うことができないのも、そのせいである。それもやはり、根底にネガティブな死生観しか持たない社会だからと言う他ない。


 希望とは、いったいなんだろう? それは、終わらないことではないだろうか? 終わってしまっては、自分自身にはもうなにも残らない。どんなに向上心があって、人格の完成を目指していても、消滅の時が待っているだけである。それでは虚しすぎるではないか。続きがあるから、より良く変えて行ける可能性を残しているのだ。だからこそ希望があるのである。

 死は新しい人生の始まりだと考えることができるなら、なんの恐れもなくなる。古い衣服を脱ぎ捨てるように、肉体を離脱して、我々の霊魂は次なる世界へと旅立つのだ。霊界についての知識の不足が招く恐怖を克服さえできれば、我々の人生はもっと快適なものになるに違いない。怖いもの見たさや神秘主義といったような本質から外れた動機からではなく、探究心から出発し、純粋な学術に高められた霊界についての知識を蓄積するべきではないだろうか? だが、どこの大学が、そのような学部や学科を開いているだろう? また、どこにそのような霊界の実態の解明を真剣に試みる研究施設があるだろう? 人生の根本問題の一つであるにも関わらず、優先順位は甚だしく低く、学問にさえなっていない。


 なぜだろう? こんな大切なことを後回しにして、いったい、なにを学び、なにを得ようというのだろう? もしも死後に霊界があるのが事実であるなら、金儲けや実利的な価値観を優先して、それで正しいのだろうか? 人間は誰しも幸福になることを望むのだ。飢えや貧困のを恐れ、懸命に働き、揺るがない安心を獲得しようとする。だが、肝心なのはここである。運よく成功し大金持ちになれたとして、手にした財産をどうやって霊界に持って行くというのだろう? 

 新聖書に書かれたイエスの言葉に、『金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい』と言うのがある。もしも天国があるのなら、そこにに行くには、財産をどれだけ持つかより、心に愛をどれだけ持つかの方が重要だということぐらい、だれでも分かっていることだ。あなたが、もしも、ビジネスの成功に人生の大半の時間を費やして、ほかのことを考える余裕がないというなら、聞いてほしい。金持ちには、むやみにならない方がいい。お金がなくて困っている人がいることを分かっていながら、なにもしなかったなら、ラクダになってしまうという結論に至るからだ。死ぬまでの限られた価値観と、永遠に根ざした価値観、この二つの価値観の選択によって、生き方がまったく違ってくるということを知ってほしい。


 死後の世界について、それは単なる憶測にすぎないと言った人がいた。そして、そのような憶測に惑わされることなく、生きることにもっと切実であるべきだというのだ。精一杯、一生懸命、生きなさいということなのだろう。だが、生と死について考えるのは、けして怠け者だからではない。

 それは分からないからだ! 自分の意志で生まれて来たわけではないので、まず生きる目的が分からない。だから、ゴールがどこなのか見えず、暗闇をはいまわるような、そんな不安な境遇で、我々はは生きていかなければならない。

 もしも、人生がこの地上で息を引き取る日に終わるのだとしたら、そして、墓石の下に白い骨しか残らないとしたら、自殺を切望する者をだれが止めることができるだろう?

 死者は、星になるのだろうか? あるいは、地上に残った者の心の中に入って、ひっそり生きるのだろうか? 

 終わりがあるからこそ、人生は素晴らしいだって? それ、本気で言っているのだろうか? とうてい、納得できるような話ではない!

 人生は永遠であってほしい。僕は心底そう願う。死後には、霊界だろうがなんだろうが、なんでもいいから、とにかく、なにかあってほしい。人生は永遠でなければ意味を成さない。永遠でなければ我々の人生は完結しないではないか。結末のない三文芝居のような人生などいらないのだ。

 人生すべて修行の場と言った人がいた。僕もそうだが、修行など好まない者には息苦しい言葉ではあるのだが、その人が正しいなら、人生が終わらないことはたいへん理にかなっている。自己実現というものが、世界有数の資産家になることではなく、人格の完成というような心の中の価値であるなら、終わりのない期限を与えられたこととなり、だれでも努力し続ければ達成できる可能性が出てくるからだ。全ての修行を終えた者たちが集う所が天国であったなら、天国はだれにでも門を開いていることになるだろう。そうだ、どんな悪人だって、やり直せばいいことになり、けして希望を捨てることはないのだ。



 人間の永遠の生命について、蝶の一生と比べて考えてみるとおもしろい。

『蝶の一生は、点・平面・立体的空間の、三つの段階にわたって、次元を高めながら進行する。卵は点である。孵化して幼虫になり、平面である植物の葉の上を這い回って暮らす。やがてサナギになり、まるで死んだかのように動かなくなる。そして、そこを割って出て、第二の誕生を果たした蝶は、自由に空を舞って生きるのだ。

 人間も、三つの段階にわたって生きるようになっている。それは、水中・地上・空の三つに例えることができる。胎児は水中にいる。母胎に満たされた羊水の中で十カ月暮らす。その後、そこを蹴って飛び出し、この地上に産声を上げる。そして、やがて寿命を終えて地上に別れを告げ、空に例えるべき霊的世界へと生活の舞台を変えるのだ。死とは、老いた肉体を霊魂が抜け出し、次なる高次元的世界へ旅立つ第二の誕生の時である』

 子供の頃、人間は、羽根のある鳥や昆虫よりも劣ると思ったことはないだろうか? あのたよりなく、ふわふわ宙を舞う蝶でさえ飛べるのに、なぜ人間は飛べないのかと。だが、残念がるのはまだ早い。霊界では、人間(霊人)は空を飛べる。それどころか、瞬間移動だってできる。


 “スエーデンボルグの霊界日記”というような本をを読んだことがあるだろうか? ウィキペディアでは、“エマヌエル・スヴェーデンボリ” と表記されている。18世紀に活躍した、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家である。幽体離脱を行い、生きたまま霊界を見て来たという霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。

 それによると、霊界は、我々が現在いる物質世界とはまったく違うのである。そこは、時間と空間を超越した世界なので、条件が合えば、すでに死去している歴史上のどんな人物でも、会いたいと思うだけで会うことができる。言語の違いを越えたテレパシーのような手段でコミニュケーションを行えるので、だれとでも通じ合えるし、また、まったく誤解も生じない。

 霊界でも、食事はする。だが、楽しむためにするのであって、それをしなかったからといって、死ぬようなことはない。なぜなら、すでに死んでいるからだ。(つまらないジョークで、申し訳ない…) つまり、生活費を稼ぐために働く必要がないのだ。芸術家は芸術以外のものと関わらなくていいのだ。夢中になっていることがあるのに、ご飯を食べなさいと言われ、それを中断されなくてもいいのだ。なんと素晴らしい世界なんだろう! 

 しかし、必ずしもいいことばかりではない。霊界を一言で言い表わすなら、心が実体化した世界とでもいうべきだろうか。霊界では、心が、嫌だと感じたなら、無限の距離が生じる。だから、とても深刻な問題も起こる。例えば、家族がずっと一緒にいられるかどうか。地上では、どんなに憎み合う夫婦であっても、体があるおかげで、同じ屋根の下に居られる。だが、霊界においては、一緒にいることさえできなくなり、どんなにやり直したいと願っても、その機会を失うだろう。

 霊界は、いい加減に生きてきた者にとって、厳しい世界である。地上では見えなかったこと、隠していたことが、白日の下に晒され、全て明瞭に示されるようになるからだ。そして、地上で有効だったさまざまなことが効力を失う。嘘や方便、ごまかしが、効かなくなるのは言うまでもない。また、財産やお金という概念がない霊界では、財力やそれによって築いた権力を用いて、人を動かすということができなくなる。その上、霊界においては、知識も簡単に共有することが可能なため、どんなに高等な教育を受け、博識であったとしても、特別な能力を持った魅力的な人物には見えないことだろう。そこでは、愛とはなにかを知ろうとし求めないない者は、全てを失うことになりかねない。


 もしも、霊界が存在するのが事実であり、それが前述したような世界であって、そのことを確信できたなら、我々の生き方、暮らし方が、今のままでいいとは、だれも思わないだろう。死後の世界について、それは単なる憶測にすぎないと言う人がいるなら、申し上げたい。それを知った結果、人生観がまったく変わり、それによってこの人生における価値観が根底から転換してしまうかもしれない将来の出来事に、けして我々は無関心でいるべきではないと。


 そうそう、死期が迫っている家族や友人がいるなら、教えてあげるといい。向こうには向こうの生活がちゃんとあるから怖がらなくてもいいと。そして、霊界では、たいていみんな、二十代の若い姿に戻っていると。だから、自分の両親に出会ってもすぐには気づかないかもしれないからって……

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