恋の神様を信じますか?

時海 桜笑

恋の神様を信じますか?

「……どうして、私も一緒に背負わせてくれなかったのですか」

 ――こんなにも痛い心を、どうして。


(……いいえ、理由は分かっている)


 あなたは、本当に優しい人だから――。


 これは、二人が恋をして、再会するまでの物語。


 §

恋愛神エメルの一族たる者、身をもって恋を知らねばならぬ」

 天界を明るく照らす光によって、二つの影が時折揺らめく。謁見の間には、恋愛神を束ねる父神の声が荘厳に響いた。


 ソワールは、平伏したまま父神の言に肯う。だが、その姿勢は、父神の次の一言で崩された。

「ということで、ソワール。地上界に降りて、恋をしておいで」


「……は?」

「恋。人間同士を結び合わせる我々が、恋のあれこれを知らぬ訳にはいくまい。それにほら、可愛い息子には旅をさせろというだろう?とっとと行ってこーい」


 先程までの厳粛な空気は何処へやら。ウィンクした父神は、類稀なる腕力でソワールを地上界に繋がるゲートウェイ――別名、落とし穴とも呼ばれる――へと投げ飛ばした。


「神と人間は結ばれてはいけないのでは!?天界の掟は!?」

「頑張って一人前になってくるんだよー」

 声の限りを尽くして叫ぶソワールに返ってきたのは、のほほんとした父神の言葉だった。


 地上界の知識あり。恋のいろはに関する座学の知識あり。地上界歴0日。


(恋をしなければ、僕は天界に帰れないということか――)

 呆然とした表情のまま、ソワールは地上界へと落ち続けていた。


 §

 爽やかな朝。相変わらず森の中は暗いが、昨日よりも清浄な空気が流れているのが感じ取れる。

 今日は、“祓い”の範囲を広げてみようか、それとも代々伝わる古文書の解読を進めようか。

 そう思いながら、ぐっと伸びをしたニュイは、瞬間体を強張らせる。


「……ッ!」

 衝撃音とともに、暗闇の森全体が揺れる。暗い森の静かな朝は、音を立てて崩れ去った。

 また魔物が現れたのだろうか。それとも別の何かが。様々な可能性が頭をよぎり、鼓動が速くなる。


(……ニュイ、落ち着きなさい。あなたはこの森でただ一人の祓魔師なのよ)

 恐れ戦いている場合ではない。そう自分に言い聞かせて、ニュイは意識を集中させ、結界の綻びが無いか手早く確認した。


(……大丈夫。結界は破られていない)

 でも、念のため周囲を見回りに出た方が良さそうだ。そう考えて、ニュイは祓魔師用のローブを羽織ると、見回り用の荷物と灯を持って小屋の外へ出た。


 しばらく歩くと。

 ニュイは、森の中心部で誰かが倒れているのを見つけた。


「大丈夫ですか!?」

 急いで駆け寄り、声をかけてみたものの、地面に横たわる青年の返答は無かった。

(頬から血が……。さっきの音は、この人と関係があるかも――)

 もしかしたら、どこかから落下して頭を打ったのかもしれない。


(でも、この森に、人は私以外いないはずだけど。この人は何者?)

 結界をくぐり抜けて魔物が守る宝物を盗りに来たハンターか、祓魔師討伐隊を名乗る一団の一員か。それとも、結界が作用しない、不思議な迷い人か。


 ニュイは青年を見やる。

 髪には葉っぱが絡まり、頬には木の枝が引っかかったような傷がある。意識がないことを鑑みると、頭を打っている可能性も高い。


 それに、このまま放置しておくと、魔物に襲われるかもしれない。

 とてもニュイには、見過ごすことができなかった。


(とりあえず応急処置をして、小屋へ連れて帰ろう)

 そうニュイは決意し、青年の手当てを始める。見回り用の荷物には、応急処置セットも入っているのだ。魔物がやって来ないように、自分たちの周囲に気配隠しの障壁バリアを展開するのも忘れない。

「痛いところはありませんか。すぐ終わりますからね……」


 そうして、運ぶことができる程度に処置を施し、ニュイは再度青年の意識状態を確認しようと、彼の顔を覗き込む。

 その目蓋は、未だ固く閉ざされたままだった。


「私の家へお連れしてもよろしいですか」

 一応声をかけてみるが、勿論答えは返ってこない。


「このままでは魔物の餌食となってしまうので、お連れしますね」

 返事は無いが、拒絶も無かったと考え、ニュイは青年を連れて行こうとして……しばし首を傾げた。

(うーん。どう運んだらこの人の負担が少なくなるかしら)




 試行錯誤した甲斐あって、無事にニュイは青年を小屋まで運び、ベッドに寝かせることができた。

 氷室から取り出した氷を袋に入れて、青年の頭にあてがう。更に、井戸水で濡らした清潔な布で汚れた青年の顔を拭き、彼の髪に纏わりついた葉っぱを一枚一枚丁寧に取っていく。


「早く意識が戻りますように」

 そう声に出しても、何の効果も無い。魔を祓い大地を浄化する、と尊ばれる祓魔師も、肉体に生じた怪我や病の前には、何の力も持たないのだった。


 外の世界とは断絶した生活を送る今のニュイには、祈りを込めて、彼の様子を見守ることしかできない。

 青年は、痛みに苦しんでいるのか、眉間に皺を寄せていた。


(どうか、早く快方に向かいますように)

 そうして、祈りの時間は過ぎていく。




 そろそろ氷嚢の氷が融けてきた頃だろう。ニュイは、ベッドの傍に置いた椅子から立ち上がり、氷を取りに行った。ローブを着ていても感じる氷室の寒さに身を震わせつつ、新しい袋に氷を入れる。


 それから寝室へ戻り、青年の様子を窺う。苦しそうな表情は、かなり穏やかになっており、ニュイは少し安堵した。

「少し頭を動かします。新しい氷嚢をあてますね」

 そう声をかけて、青年にそっと触れると、ピクリと青年の体が動いた。


「……!」

 もしかして、彼の意識が戻ったかもしれない。

 期待と緊張でニュイは息を詰め、青年の顔に触れた手もそのままに、彼の様子を注視した。


「ん……」

 声が漏れ、目蓋がゆるゆると持ち上がる。はじめは焦点が合わない様子だった瞳が光を得て、ニュイの目を捉えた。その瞳は、深い夜を思わせる吸い込まれそうな紺碧色。


(良かった、意識が戻ったのね)

 ニュイは、知らず知らずのうちに微笑んでいた。


「……っ」

 すると、青年は驚いたように目を見開いた。

 何か異常でもあったのだろうか。怪我は油断が命取りだ。ニュイは気を引き締めて、彼に容体を尋ねる。


「痛みはありませんか。ご気分は?」

「あなたが介抱してくれたのか」

「ええ」

 自分の質問に答えてもらえていない気がするが、ひとまずニュイは青年の言葉に答えた。


 ニュイの答えを聞くと、青年はとても嬉しそうに笑った。やっと探し物にめぐり逢えたというような、幸せが顔いっぱいから溢れている表情だった。


「あなたに礼を。本当にありがとう」

 彼の顔に触れた手が、一回り大きな手で包み込まれる。その温かさが心に沁み渡るようで、ニュイは顔を綻ばせた。




 ベッドから体を起こした青年は、ソワールと名乗った。ニュイも名乗り、自身が祓魔師であることを告げると、青年は眉を少し下げて、何か迷うような素振りを見せた。


「すみません、祓魔師なんて怖いですよね。でも私はこの通り、人に害を及ぼす力もなければ害意もありませんのでご安心を――」

「いや違う、そういう訳ではなく!」

 早口で自分が無害であることを伝えようとすると、ソワールは慌てた様子で手を軽く上げ、ニュイを制止した。


「……っ!すみません!」

(何でこんなに必死になっているんだろう、私)

 それに、『この通り』などと言ったが、どこからニュイが無害であることを判断できるのか。むしろ、如何にも怪しげな祓魔師用のローブを羽織っている時点で、無害には見えないのでは。

 様々な恥ずかしさが押し寄せ、ニュイは俯いた。


「すまない、あなたが謝る必要はないんだ。これは僕の問題で……」

 ソワールが言葉を切る。その声色には、悩むような、困ったような揺らぎがあった。

 だが、何かを決意したのか、ソワールは、俯いたニュイの顔を覗き込んでこう言った。


「あなたは、恋の神を信じるか?」


「え……えっと…………?」


(何かの勧誘かしら?それとも新手の口説き文句……?)

 後者は無いだろう。出会って早々に口説かれるほど自分が魅力的とは思えないし、ソワールの真剣な顔は、とてもじゃないが口説いているようには見えない。


(真っ直ぐで綺麗な瞳だなぁ……)

 猫を思わせるようなアーモンド型の目元に縁どられた紺碧の瞳から目を離すこともできず、ニュイは現実逃避の世界へと足を踏み入れたくなった。


 §

「ソワール!?あの子何言ってるの!?彼女ドン引きしてるよ!?」

 天界では、父神が頭を抱えていた。気まぐれに、天界から息子の様子を覗いてみれば、とんでもない光景が目に飛び込んできたのだ。文字通り頭を抱えたくもなる。思わず口調が乱れるのも仕方がないだろう。


『あなたは、恋の神を信じるか?』

 息子ソワールの言葉を聞いた祓魔師の娘は、瞠目して石像のように硬直していた。


 ちゃんと人間の習性やものの考え方を学ばせたはずなのに。魔物が出没し、見えない力を操る祓魔師が存在する世界とはいえ、信仰心は人それぞれ。


 精霊信仰が活発な地上界では、神という存在は夢幻の世界のものとして、信仰の対象となっていなかったり、怪しげな壺を売る口実とされたりなど、散々な扱いを受けていることが多々ある。

 いきなり神を信じるかと尋ねられても、相手の人間は困るはずだ。




(おや……?)

 だが、しばらく様子を見ると、どうやら事態は悪い方向には進んでいないようだ。

 ソワールの発言により、祓魔師の娘は一瞬固まっていたように見えたが、丁寧にソワールの話を聞き、言葉を交わしている。


 ソワールを忌避することなく、偏見の目で見ることもなく、彼の言葉の趣旨を理解しようとしているようだ。


 父神は、目を細めて微笑む。

「彼女、良い子みたいだなぁ」

 残りの一生を独りで生きねばならぬ娘。彼女の人生に新たな一頁が加わればという思いだけでなく、可愛い息子への”試練”の手助けをしてもらおうという打算的な思いもあったが――。


「きっと、良い巡り合わせだ。お前の心を見つけなさい、ソワール」

 最高位神としての威厳を纏った父神は、泰然と地上界を見遣った。


 §

 夜明けを思わせる、薄青の空と陽光が混じり合ったような美しい瞳。口元は柔らかい笑みを湛えている。その微笑みに、優しい眼差しに、心が射抜かれた。

 自分を介抱してくれた礼を言うと、彼女は花が咲いたように笑った。自分に対して笑みを向けてくれることが、こんなにも幸せなことなのか。ソワールは初めて知った。


 正直、自分がこれほどまでに単純な男だとは思っていなかった。父神に天界から投げ落とされ、地上界へと叩きつけられた衝撃で意識を失くした後、目覚めた時目の前にいた娘に恋するなど。


 自分が何者であるかを明かそうか迷った挙句、彼女を謝らせてしまった。そして、焦った結果、無計画にも『神を信じるか』と唐突に尋ね、最終的には彼女を困惑させてしまう始末だ。

 もしこの様子を父神が見ていたならば、一体天界で何を学んできたのだ、と呆れられていただろう。


 彼女を困らせたくない、悲しい顔になってほしくないという思いが先走って、頭が、口が、思うように動かない。

 計算高くて冷めた奴などと天界で同族達に言われてきたソワールにとって、ニュイとの出会いは衝撃的なものだった。


 彼女の眼差しと微笑みに心惹かれ、会話を交わす毎に、彼女の内面にも惹かれていく。

『――それでは、ソワール様は恋の神様なのですね』

『ああ。でも、そんなに畏まらなくて良い。あなたには、神という肩書を抜きにして、僕という一つの存在を見てもらえると嬉しい』

『あなた自身を見る……。分かりました――』


 脈絡の無い、ソワールの言葉に対しても、困惑しつつも言葉を返し、ソワールが何者か、何故森の中に落ちていたのかも解したようだ。

 あまりにも優しい対応をするので、彼女が悪い者に騙されないか心配にもなったが。



 彼女は優しい。

 思えば、意識が混濁していた時に聞こえた優しい声も彼女のものだったのだろう。得体の知れない男の手当てをし、彼女の家に運んでくれるとは。とても優しい人だ。


 どうやってソワールを家まで運んだのか、不思議に思い尋ねたら、

『全身を使って、自分の体よりも大きくて重い物を持ち上げる方法があるのです』


 彼女は、小麦が入った彼女よりも大きな袋を持ち上げる様を実践してみせてくれ、ソワールは思わず唖然としてしまった。

 それを見た彼女は可笑しそうに笑っていた。



 それに控え目だが存外知識欲も旺盛で、物事を理解する能力も高かった。

『天界のこと、恋の神様のこと、もっと伺っても良いですか?』

『勿論。あなたが知りたいと言ってくれて、嬉しい』

『ありがとうございます。私も、ソワール様のお話を聞くことができて嬉しいです』



 力を合わせて魔物を浄化したことや、一緒に祓魔師討伐隊なる一団を追い払ったこともあった。

『弓だけは得意だ。あなたの助けになっただろうか』

『ソワール様、ありがとうございます』

『……あなたさえ良ければ、いつかソワールと呼んでくれないか?』

『……』

 彼女は、ソワールの言葉に頬を染めていた。


 彼女には名を呼ぶように求めるのに、己は彼女の名を呼ぶことができない。狡い自分に、そして、恋慕を、愛しさを込めて彼女の名前を口にできないことに、顔を顰めたくなった。

 それでも、彼女への愛しさは、どうしようもなく募るばかりだ。



『あなたは、この森でずっと独りなのか?』

 そう彼女に聞いて、悲しそうな顔の彼女を見た時、失敗したと思った。

『その通りです。……幼い頃に祓魔師の師匠せんせいと別れて以来、ずっと』


 ずっと独りぼっちだったので、特に何とも思っていなかったのですが。今は何故か、独りになるのが寂しくなる時があるような気がします。


 ぽつりと呟いた彼女は、ハッとしたような顔をして、

『いえ、今のは何でもありません。どうか聞かなかったことに!何を言っているんでしょうね、私』

 と早口で言った。無理に笑っているような顔で。


『無理に笑わなくて良い。悲しい時には、悲しい顔をしても良いものだ』

 どうか、彼女に幸せを。そう願って、彼女の肩にそっと触れた。


(僕は、ずっとあなたの傍にいる)

 そう言いたくても言えない自分が情けなかった。




 やがて、彼女との別れの時が近づいてくる。誰に言われた訳でもないが、体に流れる力が天界に帰るべき時が迫っていることを告げていた。


 神と触れ合った人間の記憶は消えることがない。神の力を人間に知らしめ、後世に伝えてもらうために、神々の祖先がかけたまじないのせいである。

 その話を聞いた時には、自己顕示欲の強い祖先がいたものだと思っただけだったが。そのまじないが自分を苛む。


(僕が天界に帰ると、彼女はまた独りになる)

 寂し気で心許ない彼女の笑い顔が、目蓋の裏にちらつく。


 これまで、独りで充実した毎日を生きてきた彼女。彼女にとって、独りは孤独ではなかった。

 だが。


『今は何故か、独りになるのが寂しくなる時があるような気がします』

 ソワールは、臍を噛んだ。

(僕と出会わなければ、彼女が孤独になることも無かった、ということか)


 記憶の消去――。

 そんな文字が頭に浮かんだ。

 彼女の心の片隅に自分を置いてほしい、彼女に悲しい思いをしてほしくない。そんな気持ちがせめぎ合う。


 他に道は、何か他にできることは――。


 その時、開かれた古文書の頁が目に入る。

 “誰かを愛し、慈しむ心を得た時、癒しの力与えられん”


(そうか、癒しの力)

 癒しの力は貴重であり、森に閉じ込められた祓魔師であっても、国から丁重に迎えられるはずだ。これで、彼女はもう独りぼっちではなくなる。


 独りぼっちにならないのなら、ソワールとの記憶を消さなくても構わないのでは。そんな甘い囁きが聞こえた。

 ――だが、自分の都合に彼女を巻き込んでおいて、ずっと自分のことを覚えておいてほしいなど、虫が良すぎる。


『すまない』


 だからソワールは、彼女に愛を与えて、彼女の記憶を消した。

 その代償として、彼女を思うがゆえに消えない心の痛みを抱えて。


 最後に見えたのは、愛しい彼女の驚いたような顔だった。




 天界に帰ると、神の罰を裁く、審判神ジュリスが待ち構えていた。


『いずれにせよ、愛する心を持ったまま離別すると、心に傷を負うだろう。お前はまだ若い。まだ寛大な罰だ』

 そう言ってソワールを牢に入れた審判神の言葉が、頭の内で響いている。


 痛み、悲しみ、苦しみ。

 決して明るくはない感情が入り乱れる中、ソワールの願いはただ一つ。


(どうか彼女に幸せな一生を)


 この思いは、何にも負けない。



 §

 大事な人がいたような気がする。祓魔師の師匠せんせい以外に。なぜか、そのことを考えると、紺碧色がぼんやりと脳裏に浮かぶ。

 小さい頃に別れた師匠以外と接する機会なんて無かったのに、突然癒しの力が発現したことと、何か関係があるのだろうか。


 “誰かを愛し、慈しむ心を得た時、癒しの力与えられん”

 最近解読したばかりの古文書の頁を見つめ、そんなことを考えた。


 考え事をしながら、ニュイは小屋の外へ出る。

 愛、慈しみ。そんな感情、知ることができるはずもないのに、心の奥に何か温かいものが宿っている。

 どういう訳か、その温かさを追い求めたくなる。心が会いたいと切望し、締め付けられるような心地にもなった。


 どうして?何故?

 そう思いながらも、ニュイは魔物の角で傷ついた樹木の幹に手を当て、浄化と癒しの力を流し込んだ。


 二つの力が混じり合い、夕焼け色と夜の色の光がキラキラと零れ、木の幹に溶け込んでゆく。

 紺碧の空に星が瞬き、笑った猫の目のように細い月が微笑む、綺麗な夜だった。


 そこへ、どこからともなく重々しい声が響き、夜の静けさが破られた。

『お前のその力があれば、森の外へと出ることができるだろう』

「……どなたですか?」

 魔物だろうか。バクバクと動く心臓の音を感じながらも、落ち着いてニュイは答える。

『お前は今世、孤独から解放されることを選ぶか。それとも、お前を待つ者のため、苦しんだとしても今を生きるか』


 会いたい。あなたの傍にいたい。


 無性に心が掻き立てられる。


 たとえ、この先に何が待ち受けていようとも、ニュイの答えは決まっていた。


 §


 陽光が明るく輝く謁見の間に、神の影一つ。そこに、眼鏡をかけ、真面目な表情をした神が突如として現れた。

恋愛神エメルの父神、エイデンよ。あなたの息子、ソワールにつき審尋いたす」

「ようこそ、待っていたよ」

 にこやかなエイデンの顔を見た審判神ジュリスは、溜息をついた。


「代替わりの度に、同じような審尋を繰り返すなど、そろそろ我慢の限界なのですが。少しは、我々ジュリスの迷惑も考えてはいただけませんか」

「君は、この審尋を担当するのは初めてだろう?」

 エイデンは飄々と答え、審判神のこめかみに青筋を立たせる。


「処理が大変面倒なのですよ?あなた方エメルの側はご存じないかもしれませんがね」

「あれでいて、理性的な子なのだよ。地上界であの娘と結ばれてはいない。天界の掟は破っていないだろう?」

「……」


「記憶消去の件にしても、あの子が彼女と関わった記憶だけを器用に消したようだ。大体、目立ちたがり屋の祖先が遺したあのまじないの方が異常ではないかい?神との記憶を人間の中に留めおき、自分の英雄譚を後世に語り継いでもらおうとするなんて」

「……結局、我らが祖先の努力の甲斐もなく、我々の存在は人間達にほとんど知られていませんがね」

 というか、あなた何祖先の悪口を言っているんですか、と審判神は突っ込みを入れる。




 愛しさを込めて互いの名を呼び合うことで、神と神は永遠に結ばれる。それは、相手が人間であったとしても同じこと。

 ソワールは、最後まで彼女の名前を呼ばなかった。


(いや、呼べなかった、と言うべきか)

 神と結ばれた人間には罰が下される。無論、神にも同様の罰が下されるが、脆弱な人間には、その罰は重すぎるのだ。

(まあ、あの子ならば踏みとどまれると信じていたから地上界に行かせたのだけど)


 エイデンが手塩にかけて育てた可愛い後継者息子。恋を知り、愛を知り、愛ゆえの脆い心と強靭な信念の何たるかを知って欲しかった。それが、父が息子に与えた“試練”。


 地上界に送り出した息子が起こしたことについて、裏で穏便に話をつける。そして、できれば、彼と彼女に幸せな未来を。

(――それは、彼ら次第だが)

 父神ができるのは、あくまで手助けだけ。未来を掴むのは、彼ら自身だ。


 ちゃんと話を聞いておられますか、と眉を吊り上げる審判神の言葉を適当に受け流しながら、エイデンは彼らの幸福を願った。


 §

『祓魔師の娘、ニュイよ。お前を我らの世界に迎え入れよう。お前はこれより、我らの一員だ』

 あの日聞いた、威厳ある声が聞こえる。

 長い長い一生を終えたニュイに、迎えがやって来た。


 辺り一面に広がる暗闇の森の浄化に、魔物の一掃。魔物によって傷つけられた森の生き物たちの治癒。

 暗闇の森を浄化すると、ニュイは森から出て、浄化と魔物退治の旅に出た。時には、魔物に襲われた人の治癒も。どういう訳か、ニュイの姿は他の人間からは見えず、森から出ても、ニュイは独りぼっちだったけれど。


 そして、一生を賭けて国一体を浄化した。それは、あの夜聞いた不思議な声との約束であり、ニュイの願いでもあった。これでもう、あの森のような澱んだ場所に祓魔師が送られ、独りぼっちで一生閉じ込められることもなくなる。


 全てを終えるために、ニュイは藻掻いた。効率良く、かつ強力な力の出し方を身に着け、一生のうちに国全体を回れるように、足腰を鍛えた。

 その心の中には、誰かが教えてくれた温かな灯火がいつも宿っていた。


 §

「君をここに案内するように言われている」

 声の主に導かれ、天界に連れられたニュイが会ったのは、審判神ジュリスだった。


 これから案内されるのは、ある神が入れられた牢らしい。

 八十年の禁固刑。刑の執行期間中、牢には心の痛みを増幅する術がかけられていたという。


 ニュイを先導する審判神は、牢の中を覗き込んで興味深げに呟いた。

「おや、存外意識を正常に保っているな――ああ、強い意志を持たぬ者は、少しずつ存在が薄れゆくものなのだ。さあ、中へ」


 審判神に促され、だだっ広い牢内にニュイは一人で足を踏み入れる。

「……!」

 牢の奥を見たニュイは、息を呑んだ。


 引き寄せられるように、一歩一歩、ゆっくりと彼に近づき、膝をついて彼と目線を合わせる。

 そこには、懐かしい紺碧色が揺らめいていた。


「……どうして、私も一緒に背負わせてくれなかったのですか」

 ――こんなにも痛い心を、どうして。


(……いいえ、理由は分かっている)


 あなたは、本当に優しい人だから。




 走馬灯のように、記憶が頭の中を駆け巡る。

 神様と人間という地位の違いにも奢らず、天界のことを教えてくれたこと。いつもニュイを気遣い、時には慣れない弓を持って魔物や悪者からニュイを守ってくれたこと。


(知っていたんだから。あなたの弓は、狩りや戦いのためのものではないこと)

 恋愛神の弓は、恋のきっかけを作るために、人間の心に向けて射るもの。人間の弓とは扱いが全く違う。


 ニュイは気付いていた。彼が夜中に、小屋の本置き場にある狩りや実戦での弓の扱いを記した本を密かに読み、練習していたこと。きっと、ニュイのために、新しい技能を習得してくれたこと。

 その翌朝は必ず、目の疲れや全身の疲労に効く、かなり苦いお茶を淹れ、彼は涙目になりながらも嬉しそうに飲んでくれていたことも思い出した。


 一緒にいる時も、さりげなくニュイを助けてくれて、でも、ただ一方的に助けるだけではなく、力を合わせて何かを成し遂げることを教えてくれた。誰かに何気ない日常の出来事を話すことの楽しさを教えてくれたのも彼だ。


 彼のおかげで、自分以外の存在の温かさを知って、ほんのりと熱を帯びて浮き立つ心を知った。


 いつしかニュイは、神様と人間という立場の違いも忘れて、彼に心惹かれていた。

 言うまでもなく、神と人間が結ばれるはずなど無いことは感覚的に分かっていた。最後まで、彼の名前に様を付けていたのは、せめてもの線引きのつもりだった。




「……なぜ……あなたがここに…………?」

 彼は、訳が分からない、というような顔でぼんやりとニュイを見つめた。


 久しぶりに見た彼は、満身創痍であるように感じられた。

 肉体が傷ついている訳ではないが、初めて会った時と比較にならないほど酷く傷ついた姿に見える。


 記憶が戻った今なら分かる。引き裂かれるような別離の痛みと、目の前が真っ暗になるような、二度と会えない絶望感。落胆、憔悴、寂寥、消せない恋慕の炎。

 きっと、彼はずっとこの痛みに苛まれ続けていたのだろう。

 その苦しみを思い、ニュイは胸の前で右手を固く握りしめた。


「痛かったでしょう、苦しかったでしょう……?」

「…………」

 涙を流すのを堪えて眉根を寄せたニュイは、彼の頬に手を当てた。彼は、その手を払うこともなく、されるがままになっていた。


「今度は、私も一緒に背負わせてください。良いことも、悪いことも、全部。これからは必ず」

「…………あなたは、もしかして」


 彼の目がゆっくりと見開かれ、真剣な光が宿った。ニュイは、彼の紺碧の瞳を見つめ、微笑んだ。

「ええ、私も、あなた達の一員として認めていただきました。どうか、あなたと共にあることを許していただけませんか?……ソワール」


 あなたのおかげで私、浄化も癒しの力も使えるようになったんですよ。少しはお役に立つと思うのですが。


 そう続けようとしたが、瞬間、強い力で抱き寄せられ、ニュイの言葉は途中で途切れた。目の前には、ソワールの上衣。

 包み込まれるような温かさをニュイは初めて知った。


「勿論……!あなたが何者であろうと、あなたへの気持ちは変わらない。僕こそ、あなたの隣を許してほしい。二度とあなたを独りにしないと誓おう。ニュイ、愛している」


 ……ようやくあなたの名前を呼ぶことができた。


 そう言って、ソワールは泣きそうな顔で笑み溢れた。


 そして、ソワールは、ニュイの耳元に唇を寄せて、言葉を続けた。

「あなたも、僕の名前を初めて呼んでくれたね。ありがとう、ニュイ」

 ニュイ、ニュイ――。

 慈しみ、愛おしむような優しい声で何度も名前を呼ばれ、そっと包み込むように抱きしめられる。


 温かくて、心地よくて、幸せで。ずっと探し続けていた大切なものと、ようやく出会うことができた時のように、熱い涙が出そうで。

 心に温かい奔流が押し寄せ、全身を満たす。


(どうか、あなたにもこの気持ちが届きますように)


「私も、あなたのことを心から愛しています。ソワール」

 そうニュイは言い、ソワールの背中に腕を回した。




 恋は愛へと変わり、二人はついに結ばれた。

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