腐っても愛

藤咲 ぐ実

第1話

 もしもゾンビに襲われたら、戦える自信が私にはある。

 なぜなら、いつもナイフを鞄やポケットに忍ばせているからだ。ゾンビがうわぁーっと襲ってきたら、ポケットからナイフをさっと取り出して、心臓をグサッと刺してしまえばいい。


 私は小さい頃からそんな妄想ばかりしていた。

 例えば道を歩いていて、車も歩行者も誰もいなくなってしまう瞬間が訪れる時がある。自分がこれまで歩いてきた道を振り返っても、近くの建物の中にも、人間の存在が感じられずに、しん、と静まり返っている。そんな時、私は必ず(ゾンビが出たんだ!)と思うのだ。

 (みんな、シェルターに避難したんだ。どうしよう、私も早く逃げなきゃゾンビに…)

 すると、どこからか犬を連れたおじいさんがやってきて、私の前を通り過ぎる。

 (なんだ、ゾンビが出たんじゃないのか。)

 安心した、ともがっかりした、とも取れる感情をぶらさげて、私はまた歩き出す。

 そんな話をすると、友人たちは皆呆れたように言うのだ。

 「ゾンビなんて出るわけないじゃん。」

 私がいくら熱心に、ゾンビ対策をきちんとしておいた方がいい、と説いても、はいはいと受け流されて終わる。誰も本気になんてしなかった。たっくん以外には。


 その時私はすでにかなり酔っ払っていて、初対面のたっくんにいきなり「ゾンビに襲われたらどうする?」と聞いてしまった。

 「えっ、ゾンビ?」

 戸惑いながらも、彼はえーと、えーと、と一生懸命考えてくれて、

 「殴って倒す!」

と、一生懸命考えた割には浅い答えを返してくれた。私は嬉しかった。今までそんな質問をしても、まともに返事をしてくれた人がいなかったからだ。

 「どんなふうに殴るの?」

 掘り下げてみた。

 「えーと、まずは顎をねらって、シュッと!そんで脳震盪起こさせて、畳み掛けるように右ストレート!」 

 「うんうん、それから?」

 私にたっくんを紹介してくれた友人を置いてけぼりにして、私たちはゾンビの倒し方について熱く語り合った。居酒屋でゾンビの話をするなんて、世界中で私たちだけだっただろう。二軒目、三軒目、私の家へと場所を移していくうちに、友人はいつのまにか消えていた。その日からたっくんは、一人暮らしをしている私のマンションから仕事へ通うようになった。

 二人で暮らすようになって間もなくして、たっくんは私に素敵なナイフをプレゼントしてくれた。

 柄のところが木でできていて、みさと、と私の名前が彫ってあった。

 「このナイフ、とっても軽いからみーちゃんでも持ちやすいでしょ?名前、俺が彫ったんだ。このナイフが、ゾンビからみーちゃんを守ってくれますようにって願い込めた。」

 今まで生きてきて1番嬉しいプレゼントだった。私はたっくんを抱きしめて、大好きだよ、と言った。たっくんが、ぎゅうっと私を抱きしめ返してくれた。俺も大好きだよ。



 日常が日常でなくなるのは、私たちがそれを当たり前だと感じた罰なのだろうか。

 あまりの衝撃に、私は口に溜まった歯磨き粉の泡をゴクン、と飲み込んでしまった。

 『ゾンビウイルスが発見されました。』

 歯磨きをしながら朝のニュース番組を観ていると、突然そんな情報が飛び込んできたのだ。

 アナウンサーは淡々とニュース記事を読み上げていく。昨日、アメリカのナントカカントカ州で、何者かが牧場の牛を生きたまま齧っているところを、その牧場のオーナーによって発見されました。オーナーが、持っていた銃でその人物を射殺。遺体はなんと蒸発して消えてしまったとのことです。体の半分を食いちぎられた牛は死んだと思われましたが、その後再び動き出し、オーナーに襲いかかりました。襲われたオーナーは現在行方不明です。牛は研究所に送られ、解剖された結果、ゾンビウイルスに感染していることが判明しました。これを受けて空港は、国際線の便を当面運休とし…。

 まるでパニック映画を観ているかのようだった。しばらくテレビの画面を茫然と見つめていた。次のニュースです、と話題が切り替わったところで、はっ、として時計を見る。針は8時を指していた。もう出ないと会社に遅刻してしまう。急いでうがいをして、家を出る前に棚の引き出しを確認した。たっくんからもらったナイフが、そこにきちんと収まっていた。少し安心して、私は家を出た。たっくんはすでに仕事に出発したあとだった。

 家に帰ってきて、一緒に夜ご飯を食べながら今日見たニュースのことをたっくんに話した。するとたっくんは、しばらく黙ったあと、真剣な顔をして言った。

 「みーちゃん、明日から絶対、この家から出ないで。」

 たっくんは黙々とご飯を食べ続けた。いつもなら、楽しく会話をしながら食べるのに。すでに日常は奪われていた。


 しかし次の日、たっくんはいつも通り仕事に出かけて行った。

 「行かないで。ゾンビに襲われたらどうするの?」

「大丈夫だよ。殴って倒すから。」

 私には、家から出るなと言っておいて、自分は仕事に行くの?私を置いて行くの?そんなに仕事が大事なの?めんどくさい女になりたくなくて、その疑問たちは口にしないでおいた。でも、めんどくさい女になってもいいから、たっくんをうちに引き留めておくべきだったと、その日のニュースを見て後悔した。

 『日本でゾンビが確認されました。』

 泣き叫びながら逃げる人々。その背後から、ゾンビが両手を前に出して、まるでおもちゃにつられて歩き出した赤ん坊のように人間たちを追いかけている様子が映っていた。その映像の撮影者は、逃げながらスマートフォンでその光景を撮っていたのだろう。なにかにつまづき、地面にカメラが叩きつけられたところで映像は途切れた。その後彼はどうなったのだろうか。

 画面がスタジオに切り替わり、ニュースキャスターが再び記事を読み始めた。

 『これを受けて政府は、非常事態宣言を発動し、外出を控えるよう…』

 そこで突然、記事を読む声が止まった。ニュースキャスターの目がある一点を見つめ、みるみる丸くなっていく。キャスターのとなりに、ゾンビが立っていた。彼女は声も出せず、かたまったまま動けない。ゾンビが、ゆっくりとキャスターに近づいて行く。カメラマンや、他のスタッフたちは、何をしているのだろう。きっと誰も、何も考えられなくなっている。次の瞬間、ゾンビがキャスターに襲いかかった。断末魔の叫びが聞こえ、画面は砂嵐に切り替わった。

 私はしばらくテレビの前から動けなかった。固く握りしめた手の中に、じわりと汗をかいていた。

 ドンドンドンドン!

 玄関のドアが勢いよく叩かれて、私は驚いて飛び跳ねた。バクバクと脈を打つ心臓を押さえて、ゆっくりと玄関に近づく。

 「みーちゃん、俺だよ。ドア、開けてくれない?」

 たっくんの声だ。安心して泣きそうになりながら、ドアに駆け寄った。

 ドアを開けると、そこには私の大好きなたっくんがいた。

 「じゃーん、取引先の人から、食料いっぱい貰ってきたよ。」

 たっくんは嬉しそうに、食料のたくさん入ったビニール袋を高く持ち上げた。今にもゾンビが襲ってくるのではないかと不安になり、いいから早く中に入って、と彼を急かす。

 二重に鍵を閉めて、安心したところで私はたっくんを抱きしめた。

 「ごめんね、一人にして。怖かった?」

 「すごく怖かった。」

 よしよし、とたっくんは私の背中を撫でてくれた。

 「こんなに食料があるから、しばらく家に篭っていられるよ。」

 そう言って袋の中からひとつひとつ食料を出していった。

 「カップ麺でしょ、2リットルのお茶、みかんに、お菓子も色々、キャベツ、牛肉、にく、ニク………オイシソウ。」

 たっくんの口から、ぼたぼたと涎がこぼれ落ちた。次の瞬間、たっくんは、はっ、としてじゅるりと涎を拭った。その手の甲がみるみる緑に変色していく。そこから、鼻をツンと刺激する腐敗臭が漂った。

 「みーちゃん、みー、チャン、だめだ、ニゲテ…」

 たっくんの綺麗で逞しい筋肉が、どんどん萎んでただれていく。思わず後退りをした。

 「あのナイフ、デ、オレヲ、サシテ、コロして…ハヤク」

 たっくんに貰ったナイフで、たっくんを刺すなんて、こんなことになるなんて。膝がガクガクと震えて止まらない。

 目の前の彼は、もはやどこからどう見てもゾンビと化していた。だけど、みーちゃん、と子猫を呼ぶように私に語りかけるその声は、間違いなく、私の大好きなたっくんなのだ。

 「ミーチャン、ゴメン、ゴメンネ、ゥ…アァ」

 私は棚の引き出しからナイフを取り出した。たっくんが、私を食べようと追いかけてくる。鞘をそっと外した。


 どこか遠くから、キャー、と叫ぶ声が聞こえてきた。もう、この街のあちこちにゾンビが現れ始めているらしい。私は、ナイフを握る手に力を込めた。

 刺すしかない。

 目を閉じて、息を大きく吸い込んだ。もう、私の声が彼に届くことはないだろうけど、それでも言った。たっくん、大好きだよ。

 グサリ。

 心臓を貫いた感触があった。

 自分の胸元を見ると、ナイフが真っ直ぐ突き刺さっていた。たっくんを殺すなんてできなかった。私は自分を刺すことを選んだ。

 ナイフの柄に彫られた私の名前が、だんだん赤く染まって見えなくなっていった。

 私は仰向けになって床に倒れた。

 すぐには死なないんだな、と徐々に薄れていく意識の中で思った。

 私のはらわたを、がつがつと喰らいつくたっくんの口が、あったかくて涙が出た。

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