恋の『  』

たちばな

構想

 これは、私が高校生の時の話である。


 高校二年生の時、手の絵を描くのが好きだというクラスメイトがいた。仲島なかじま、という名字だったのは覚えている。ずっと名字で呼んでいたから、下の名前はもう覚えていない。

 彼女と初めて話したのは、夏休みも目前になった七月の頃だ。席替えで同じ班になり、それをきっかけとして話すようになったのだ。学年でも頭の良い方だった彼女は、理解の遅い私に何度も数学を教えてくれた。

 大人しい女の子だった。黒髪を肩ぐらいまで伸ばして、さらりと流していた。長い睫毛の下の目は常に眠そうにしていて、はじめは表情が読み取りづらい子だと思っていた。

 だが、その子が絵の話をする時だけ、目をきらきらとさせていたのだ。


『わたし、手を描くのがいちばん好きなの』


 いつも小さな声の彼女が、その時だけははっきりと言った。

 彼女は美術部員として、絵の具で絵を描いているらしい。中でも手を描く時が、一番心が躍るのだそうだ。

 へえ、と私は相槌を打った。絵は好きでも、嫌いでもない。その上、油絵にはあまり親しむ機会がなかった。


 そんな素人の私でも、彼女の絵は衝撃的だと思った。

『これ、仲島さんが描いたの?』

 うん。

 彼女は照れくさそうに、でも確かに頷いた。

 彼女が夏休みを捧げて描いたという作品の題名は、『手』だった。題名の通り、ただの手。何かポーズを取っているわけでもなく、特徴があるわけでもない。何かの賞に選ばれているわけでもなかった。

 ――でも、とても引き込まれる絵だった。私には、その手が今にも動き出しそうに見えた。

『すごい……』

『ふふ、ありがとう』

 すごい、すごい、と私は繰り返すことしかできなかった。それだけ、彼女の絵は素晴らしかった。

『……ねえ、安東あんどうさん』

『ん?』


『……わたしに、安東さんの手を描かせてくれない?』


 今思えば、やはりそれが始まりだったのだろう。

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