5 ヘルベルト・ルイスの書斎 ③

 ルーカスがいた場所は、アオイとユーがいるところよりもずっと最悪だった。先に進むにつれ道は狭くなり、足元には水があちこちに溜まり、さらには、時折頭上から汚れた水が滴り落ちてきた。壁はどこも湿っておりコケがこびり付いていて、とても触ろうとは思えなかった。


 通路は非常に狭くなっていた。彼女1人が通ればいっぱいだった。


 歩いてみると、彼女の足音がずっと奥まで響いているのがわかった。しかし、通路の奥は文字どおり真っ暗で、自分のフィーレが照らし出す場所以外は何も見えなかった。


 突然、前方からドアの軋む音がした。すかさずルーカスは身構え、歩みを止めた。


 しばらく沈黙が続いた。


 奥に誰かがいるのかもしれない。あるいは、ただ単に、何かの弾みでドアが動いたのかもしれない。確実に言えることは、ここを進むとなんらかの扉があるということだ。


 ルーカスはつま先で足元の水をつついた。水の跳ねる音が奇妙に大きく響いた。しかし、前方の扉が動く気配はない。念のためもう一度同じことをしたが、やはり水の音が響くだけだった。


 彼女はしばらくその場に立ち止まっていたが、進んでみることにした。


 恐る恐る音のした方に近付くと、フィーレがうっすらと木製の扉を照らし出した。取手部分は金属製で、いかにも古そうだった。これがさっきの音の正体か。


 ルーカスはさらに手を伸ばし、フィーレで扉を隅々まで調べた。


 少しだけ開いている。


 ルーカスはゆっくりと2歩後退した。そして、扉全体をじっくりと眺めた。一瞬後ろを振り返ってみたが、やはり真っ暗で何も見えなかった。


 何かがおかしい――


 ルーカスは扉をそっと蹴ってみた。すると、それは寂しげな音を立てて、ゆっくりと閉まっていったが、すべて閉まる前に止まり、また先ほどのところまで開いた。


 ……この扉がここで止まることはわかった。けど、さっきはどうして動いたの? 風?


 しかし、そこには風など吹いていない。では、どうして――


 ルーカスは扉をゆっくりと開けてみた。中から気味の悪い冷気が流れ出す。


 すうっと冷たい空気を頬に感じると、彼女はその奥から何者かの目線を感じた。身構えた直後、彼女の足に当たるものがあった。


 見下ろすと、そこにいたのは1匹の小さな犬。しかも、かなり痩せ細っていた。威嚇してくる様子はなく、彼女に擦り寄ってきた。


 ルーカスはしゃがみ込み、この犬の頭を撫でた。


「どうしてこんなところにいるの?」


 犬に無意味に問いかけた。すると、部屋の奥から声が聞こえた。


「誰だ? 入ってくるでない」


 声の主の姿は見えなかったが、男と考えてよいだろう。非常に芯のある低い声だった。


「私はヘルベルト・ルイスの書斎を探しているの。この井戸にあるんじゃないの?」

「ヘルベルト・ルイス? ……いやあ、笑わせてくれるじゃないか」


 声の主は鼻で笑いながら言った。


「確かにそれはここにあった」

「……あった?」


 ルーカスは眉をひそめた。


「そうだ。ここにあった。しかし、今はない。……というより、書斎はあるが本は残っていない」

「どういうこと?」

「俺はここにしばらく住んでいる。ここは住みやすいんだ」

「住みやすそうではないわ。どうやって地上に出るの?」

「それはもちろん方法があるさ。……なあに、そんなに驚く話ではない。魔法だよ」

「……わかったわ。それはいいから、書斎の話を聞かせて」


 犬は鳴きもせず暗闇に消えていった。なんらか金属的な音がしたが、彼女は特に気にしなかった。


「俺がここに戻ってきたときには、書斎にはすでに何もなかった。何が言いたいかわかるか? ……つまり、この井戸はもう調べ尽くされたんだよ」

「私たちがここにいても、もうすることはないっていうこと?」

「そういうことだ。わかったのなら帰ったらどうだ?」


 男は咳払いをした。声を出すのが久しぶりなのだろうか。


「……ところで、あなたは誰? マージなのね?」

「俺はヘッセル・バン。お前は?」

「私はルーカス。ダラン総合魔法学校の生徒よ」

「どうしてダランの生徒がここにいる?」

「探検ってやつよ」


 ふと、ルーカスは足元に光る何かが落ちているのを見つけ、ゆっくりと拾い上げた。


「探検か。面白いことを言うじゃないか」

「ありがとう。あなたこそ、こんな場所に住んで、面白いことをしているのね」


 彼女は言いながら、拾い上げた金属のプレート見つめていた。暗くてよく見えないが、何やら「現代」と荒く刻まれているのが認識できた。この文字を見て、彼女はある言葉を思い出した。


「……現代魔法研究所って知ってる?」

「唐突な質問だな」ヘッセルの声が低くなったのを察知した。

「こんなところにいる人なら、何か知っているだろうと思って。根拠はないわ」

「お前が知る必要はないさ。そして、俺はお前に何かを教えるつもりはない。だから、お前がもし現代魔法研究所について知りたいのなら、自分で見に行けばいいと思う」

「そう。どこにあるの?」

「ここからずっと遠い北東部だ。しかし、今もそこにあるのかは知らない。というのは、後世に残っているかもしれないからな」

「ありがとう。……じゃあね」


 ルーカスは部屋から出て行こうとした。しかし、ヘッセルに呼び止められた。


「待て。もし本当に行こうと思うなら、それはよした方がいい。お前が挑めるような奴はいないし、お前が想像するような魔法を使う奴は少ない。俺がここにいるのは、奴らを恐れたからだ。ここの書斎がもぬけの殻なのは、奴らが調べたからだ。有益なものはすべて持ち帰った。とにかく、今はよした方がいいと思う」


 ヘッセルは数秒間黙ったが、何かを思ったかのように再び口を開いた。


「……が、そうであっても、もしどうしても行きたいというのであれば、せめて、ヘルロンの洞窟の大蛇を倒せるようになってからだな」

「大蛇?」

「ああ、そうだ。プラルを通って現代魔法研究所に行くなら、そこを通過するだろう。言っておくが、現魔研の奴らはその大蛇よりも強い。だから、まずはその大蛇と戦ってから、本当に行くかどうか決めたらいいんじゃないか。ここの南の海岸沿いを進み、ヒールフル地方の南部にある」

「わかった。ありがとう」


 ルーカスはそう言い残して、部屋を後にした。

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