さよならVtuber、そしてまた

【唯視点】


 いつからか、好きな人がいた。

 本当にいつからかは分からない。気付いた時には好きだった。

 初恋だ。それはとても可愛らしく素晴らしいことだと評価する人も多いだろう。

 でも私は、そのことを誰にも打ち明けられなかった。

 だって誰にも、その相手にさえ、私の気持ちなんて受け入れて貰えないだろうから。

 ひっそりと。その気持ちを心の奥底に閉じ込めた。

 変わらない、いつも通りの私でいようって決めていた。

 だから私の初恋の始まりは、良いスタートでは無かったのかもしれない。


 私が初恋を自覚して少し経った時、両親が他界した。

 あぁそうなんだ。と、その事実を素直に飲み込めればよかったのだろうけど、どうやら私にはそんな強靭なメンタルは備わっていないらしく、受け入れられない日々が続いた。

 学校にも通えず、部屋からも出られなかった。

 けれど、私の初恋のあの人は、そんな私を見かねたのだろう。

 彼女は私の部屋に入ってくるなり、こんなことを口にした。


「あなたの家族は、お母さんお父さんだけじゃない。私も、いるからさ」


 あなたにとったらなんでもない言葉だったのかもしれない。

 私は、その言葉に救われた気がした。私は、忘れていたんだ。

 あなたへの好意を閉じ込めていたはずなのに、もう限界だった。

 その日から、自分の気持ちを押し殺さずに依存するようになった。

 最初はこんなんでいいのだろうかと思っていた。

 けど、心が軽くなって。楽になった。

 学校にも通えるようになっていた。


 私はその日以来、笑顔が増えていた。

 にこにこと愛想が良くて、元気いっぱいで。

 以前の私とは、まるで別人のように明るくなった。

 お陰様で学校ではたくさんの友達に恵まれた。

 でも。家に帰れば、誰にもバレないようにいつも泣いていた。

 まだ何か欠けていたのに、私は無理をしていたんだと思う。


 ある日。その人がVtuberを始めた。

 突然に毛色が違う言葉がその人の口から飛び出した時、困惑した。

 理由を聞けば、楽にお金を稼げそうだと思ったかららしい。

 本音だったのか、Vtuberを馬鹿にしているのか、多分どっちもだろう。


 私はVに興味が無かった。

 けれど。Vをするあなたには興味があった。

 いや、あなたにしか興味が無かったのだろう。


 だから。私はどうすれば距離を詰められるのか考えた。

 Vtuberとはどんなものなのか、知ろうとした。

 そして私は見つけた。それは『百合営業』だった。


 こんな私なので、もちろんその単語は知っていた。

 そこからはもう止まることを知らなかった。

 お年玉をはたいて機材を揃え、準備を整えた。


 Vの名前を決める段階まで辿り着いて、

 あの人が『葵』だから、自分も花を名前に入れたいなと思った。

 花言葉、臆病な愛。いかにも私らしい『杏子あんず』の一つを私の名前に借りることにした。


 そうして弓波侑杏が生まれた。


 百合営業は順調だった。

 私たちの距離は日々が経過するごとに確かに縮められていた。

 もしかしたら私に惚れてくれたのではと疑った時もあった。

 それでも。そんなことは無いって、私の頭はずっとそれを否定し続けた。


 だから。あなたに告白をされた時。

 あなたと恋人になれた時。

 長い、すごく長い夢を見ているのかと思った。

 夢でもいいから。このまま永遠に覚めないで欲しいと願った。

 それでも。ほっぺたをつねってみれば現実で、あなたには伝わらなかったかもしれないけど、私のあの時のはしゃぎようはとてつもないものだったんだ。


 ──けれど。すぐに不穏が訪れた。

 その不穏は、Vという枠を超えて現実の私たちに干渉をした。

 怖かった。どうしてこんなことになったのか、分からなかった。

 ネットの危険性を理解していたはずなのに、十分では無かったんだ。


 私は部屋から出られなくなった。この状況は前と似ていた。

 あなたと恋人になったのに、心配をかけてしまって、私は酷い恋人だった。

 ストーカーに怯えて、次の日は学校にも行けない。

 結局あなただけが学校に向かって、私は怖くなった。

 そして私は、ストーカーが家に襲いにくるかもしれないと怯えた。

 けど、もう足は動かない。どころか、体さえも動かない。

 この状況は、傲慢でわがままな私への天罰なのだろう、と。

 自分がもしもの時を受け入れるための理由まで作っていた。


 あぁ、けれど。

 それでもあなたは、私のことを救ってくれた。

 私の部屋に飛び込んで、私のことを強く抱き締めてくれた。

 私は、あなたにずっと迷惑をかけてばっかりなのに。

 どうして。なんで、そんなに優しくて、かっこいいんだろう。


 お陰で私の日常に平穏が訪れた。

 同時に私の心は深く傷を負うことになった。

 けれど、迷惑をこれ以上かけるわけにもいかない。

 そのために、あの事件の後、最初のうちは明るく振る舞った。

 でも。あなたは、私の心を見え透いたかのように、心を突いてくる。

 そんなあなたの優しい言葉に、隠そうと思ってた心を吐き出してしまった。


 もう願いは叶ったから。

 あなたと恋人になれたから。

 だからVtuberを辞めたいって。


 言ってしまった。

 言ってしまったのだ。

 また。私を曝け出してしまった。

 稼げるようになってきたのに、こんなところで辞めたいって言ってしまったら。優しいあなたはきっと、こんなことなんでもないことのように、笑いながらVtuberを辞めてくれるだろうから。

 今年たくさんした後悔を、再びしてしまった。

 でも。Vtuberはしたくない。それだけは、変わらずに私の中にあった。


 聖夜祭当日。

 今日は最高の日になると思っていた。それなのに。

 どうやら、それとは程遠くなるだろう。そう感じさせる一日の始まりだった。


 登校の時なんて、またストーカーされてないか、そればかりが気になっていた。

 そんな私を訝しんだあなたに無理に笑顔を作っても、表情は固いままだった。

 どうしても今の私には、Vtuberというカセが手足に付いていたのだろう。


 彼女とはいつも通り、教室に入る前に別れた。

 私たちの間には気まずさばかりがあった。

 恋人同士なのに、なんでこんなになってるんだろう。

 私が始めた恋なら、私がどうにかするべきなのに。

 教室に入っても気分は重いまま。

 椅子に座れば、そのまま沈みそうなくらいだ。

 友人が話しかけてきても、生返事しかできなかった。

 朝のホームルームが始まり、内容一つ入らないまま終わった。


 時刻は8:50。

 もうすぐ講堂で聖夜祭の開会式が行われる。

 周りの人たちが席を立ち上がるのに倣って、私も立ち上がった。


 初めての聖夜祭なのに。

 これから友人と用事があるのに。

 それすらも、満足に楽しめそうにない。

 帰りたかった。でも、帰ったらきっと不安になるだけだから。

 どうしようも無かった。


 人の波に乗って。

 けれど。足は遅く、乗り遅れて。周囲の人の体がぶつかる。

 前に進もうとしているのに、足は止まりそうになってしまって。

 もういっそのこと。ここで泣き崩れられたら、すっごく楽なのにって。

 そんな風に思ってしまって、私はその場に立ち尽くしてしまった。

 それでも。私の背中は人混みに押されて、前を歩くことを強いられる。

 前に出した一歩がぬかるみにでも入ったかのように重くなる、そしてもう片方の足も。

 もう無理にでも歩けなさそうだと私は思った。

 だけど、その時だった──。


 ──視界の端っこに、あの人が映った気がした。


 でも。あの人がここにいるわけがない。

 私の頭の中に出てきた希望は、すぐに打ち消されて。

 だけれど。人影は私に距離を寄せて──気のせいじゃ、無かったんだ。

 それに気が付く頃にはもう、彼女は私の前にいた。


「お姉ちゃん!?」


 思わず大声を飛ばす。

 彼女は息切れ起こしていた。

 呼吸の隙間から、私に声を与えてくる。


「今から、配信、できる?」


 言われた瞬間、私は困惑した。

 その困惑は分かりやすく表情に出ていたのだろう。

 彼女はそんな私に「引退ライブ」と付け足した。

 私だけにしか聞こえない、小さく、力強い声で。


「でも……」


 ここに来てくれたのは嬉しかった。

 でも私は今、どうしたいのか分からなかった。

 Vtuberを辞めたい。だけど、配信するのは凄く怖くて。

 今、配信をしても。うまく喋ることができない。そんな確信があった。


「……唯! 大丈夫!」


 けれど、私の不安をよそに、そんな言葉を寄越してくる。

 無責任だと思った。だって私は怖いからだ。それなのに大丈夫なんて言われても。

 私は、どうしたらいいか分からない。その旨を伝えようと、私は口に力を入れる。

 そのまま口を開こうとした時、私たちは水量を増した人の波に押された。

 そのまま飲み込まれて溺れてしまいそうになってしまった時。

 私の前で、彼女は笑っていた。

 私が惚れた、可愛らしい笑顔で。そのまま。

 一つの手を、差し出した。


「私がいるから! 大丈夫!」


 ──あぁ。そうだった。


 言われた瞬間、私の中で腑に落ちる音がした。

 すんなりと。そのまま結論に着地する、そんな音が。

 私がここで出すべき答えは、単純なことだった。


 あなたがいたから、私は今ここにいて。

 あなたが私を今、ここにいさせてくれている。

 そしてあなたはいつだって、私のそばにいてくれた。

 ずっと。恋人になる前からずっと、私を支えてくれていた。

 私はいつだって、あなたと一緒だった。

 だから私の答えは──。


「じゃあ。うん。……お姉ちゃんに、任せてみる」


 私の頬は自然と形を崩した。

 差し出されたその手を、ぎゅっと大切に握った。

 心に広がる何かがあって、不思議と涙腺が緩む。

 でも、最近は泣いてばかりなので、ここは堪えよう。


「じゃ、行こう!」


 階段を駆け上る。

 私の速度にお姉ちゃんが合わせてくれた。

 なんか訳の分からないことを言われながら、私たちは屋上を目指す。


 明るい気持ちで駆けながら、私は思う。

 私はここまで、茨の道を進んできた。お姉ちゃんに恋をしたその時から、ずっと。

 茨の道とは言葉の選択が良くないかもしれない。でも、私にとったらそうだった。

 それでも私は最初から、その道をお姉ちゃんと一緒に歩んでいた。

 茨だって痛いだけじゃない。茨にはお姫様みたいに華奢な白い花が咲く。

 その花を眺めながら、そして時折刺されながら、私たちは前へ進んでゆく。

 そこには確かに道があり、お姉ちゃんがいるから。


 顔を上げた。

 輝きで、目の前が真っ白だ。



       ※



 屋上には雪があった。

 ほんの数センチ、いや数ミリ程度の雪。

 そして空からは、桜みたいな雪が降ってきていた。

 お姉ちゃんは私の手を外すと、さくさくと一歩二歩と歩き、振り返った。

 雪を背景にしたその姿は、どこか儚い美しさがあった。


「唯、不安にさせてごめんね。遅くなった」


 お姉ちゃんは私の目を真剣に見つめながら言った。

 主役は遅れてやってくるという言葉と、どこか似ている。


「い、いや! むしろ、ありがとう、というか! 私の方こそ、迷惑ばっかりをかけて、負担ばっかりを負わせてごめん、というか……」


 張り上げた私の声は次第に萎んでいった。同期しているかのように顔も下を向く。


「……そっか。唯は、そう思っていたんだね」


 その言葉に私は「……?」少しだけ疑問を表情に出す。

 お姉ちゃんは軽く苦笑を顔に浮かべて、続けた。


「私はね、お姉ちゃんだから唯のことを助けなきゃいけない。……でも、唯の気持ちに気付けなくて。不安にさせてしまってさ、私はお姉ちゃん失格だなーなんて。私はそう思ってたの」

「そ、そんなこと! 私だって、お姉ちゃんがしてくれなきゃ、何もできなくて……。私の方が、酷いなって思ってた……」

「……それは。私がしたいからやってること。この配信も、私が唯のためにできることを探して、その結果で見つけたものだから」


 何も言えなかった。

 何を言っても、お姉ちゃんは優しい返答をくれそうだったから。


「じゃあ、始めるね」


 続けて「タイトルはこれでいい?」と見せてくる。


『卒業します。 【夢咲葵・弓波侑杏】』


 シンプルなタイトルだった。

 引退するんだな。と実感をする。

 配信画面はどうやら前と同じ黒背景らしい。

 私が数秒の後に頷くと、お姉ちゃんはスマホの背を私に向けた。

 私に見えないように、多分、配慮をしてくれたのだろう。


 私は静かにお姉ちゃんの次を見守る。

 目を瞑って何度か呼吸の行き交いを行って、目を開く。

 意を決したような表情で、お姉ちゃんは手をゆっくりと移動させた。


「みんな、きてくれてありがとう。またこんな時間に、ごめんね」


 お姉ちゃんは静かにそう言った。

 コメント欄は今、どうなっているだろうか。

 ドッキリを疑うか、ただただ困惑するか、受け入れるか。

 そんなコメントが流れていると思うと、胸が少しだけ痛んだ。


「いや。釣りじゃないの。……本当に、急でごめんなさい、としか」


 ほんの微かに、歯軋りの音が聞こえた。

 私の心臓は跳ねた。お姉ちゃんは、悔しいのかもしれない。

 本当はVtuberをやめたくないのかもしれない。

 そう思うと。私は本当に酷いお願いをしてしまったのだろうと、胸が痛かった。

 けれど。お姉ちゃんの好意を押し退けることは出来なかった。

 私は黙って耳を傾け続ける。


「理由はやっぱり、私たちのリアルを晒してしまったから。だから、やめようって」


 違う。本当の理由は、私のわがまま。

 せめて、それを言えば、夢咲葵の面目は保たれたのに。

 私は何も言えない。そのまま時は私を置き去りにする。


「でも、楽しかった。すごく楽しかった。ここまで半年……くらい? 侑杏ちゃんとコラボしてからはもっと短いよね。こんな短い期間に、私と侑杏ちゃんのチャンネルはこんなに大きく成長して、本当にみんなには感謝してもしきれない。けど、ここでお別れ。私たちは卒業しなきゃいけないから」


 お姉ちゃんは、目の端に水滴を浮かべていた。

 そしてそのまま、スマホに向かって深く頭を下げる。

 目元から離れ宙を舞った一つの涙が、きらめいて見えた。


「ここまで私たちを愛してくださり、ありがとうございました」


 お姉ちゃんは暫く頭を下げ続けた後に、ゆっくりと上げた。

 息を一つ吐く。様々な想いが篭っているのを感じさせる溜息だった。

 その白い息は液晶画面にかかったようで、制服の裾で画面をこすりだす。

 そしてふとした時、往復させていたその動きをピタリと止めていた。

 お姉ちゃんの焦点はスマホのまま。けれど瞳はせわしなく動いている。

 かと思えば、ある瞬間に少しだけ口の端を吊り上げていた。

 泣き顔に近かった表情は、いつの間にか相好を崩し、笑みに変わっていた。

 私の方をチラと見ると、こっちに来てよと、片手をちょいちょいと動かした。

 そのジェスチャーに呼ばれるまま、私はお姉ちゃんの隣へ、と。

 ふらふらと頼りなく歩いた今の私は、どこか夢見心地だった。


「……見てみてよ。めっちゃ良いよ、これ。卒業最高じゃん」


 お姉ちゃんはおどけるかのように、配信画面を顎でさした。

 何かそんなに凄いものがあるのか、と思えば。

 しかし、いつも通りそこには視聴者のコメントしか無い。

 他に何か無いかと目を追わせるが、黒の背景以外に特に無い。

 雪が画面に落ちた時、少しだけ白が混じってすぐに溶けた。

 それだけだった。本当にそれだけだったのだ。

 なのにどうして、お姉ちゃんはそんなに楽しそうなんだろう。


「見てみた? 私、今、一番最高の気分」


 もう一度、私は目を落とす。

 だが。やはりそこには視聴者のコメントしか無くて──いや、違う。

 ──そこには、視聴者のコメントがあったのだ。


:これからも愛してるからー!

:ありがとーーーーー!!

:日々の生きがいと百合の供給ありがとう!

:うおぉぉぉおぉぉお!(言葉にならない悲しみと感謝と諸々)


「────っ」


 ハッとした。


:まーじで、ありがとう!

:餞別だ! 今月のバイト代を受け取ってくれ!

:ちょい待て、朝九時にここにいるみんなはニートって解釈でよい?

:↑はい(素直)


 忘れていたことがある。


:いつも楽しい配信ありがとう

:これからも二人を応援してる!


 それは。私たちの視聴者は、こんなにも素晴らしい人たちで溢れているということだ。


:これからは二人の百合園を築いてくれメンス

:卒業は寂しいけど、この配信をしてくれたことに感謝だわ

:↑それはそう、最後まで好感度上げてきたよな


 私はどうやら、一人の悪質な視聴者のせいで、全てが黒く見えてしまっていた。

 でも。それは違う。今、画面に流れるコメントをする人たちは、私たちのことを純粋に大好きで、夢咲葵と弓波侑杏の配信を楽しみにしてくれていたんだ。


「凄いでしょ。私たちの視聴者、みんな良い人たちだよ」

「うん。嬉しい。凄いね、ほんとに」

「だね。……でも、そろそろ終わりかな」


 そんな素晴らしい人たちの想いを無下にして、私たちは今、卒業しようとしている。

 それは何か。心に何かが引っかかる。ここで、配信を終わったら──。


「じゃあ、ばいばい! ありがとう!」


 お姉ちゃんが快活に言い放つ。

 片手を伸ばし、それは配信終了のボタンに伸びる。

 間もないうちに、私たちのVtuberとしての人生は終わりを迎えるところだった。

 しかし、その時だった。


「ま、まって!」


 一つの声が屋上に響く。

 その声は、無意識に出された私の声だった。

 その時──世界が、一瞬にして静寂に溶け込んだ。

 私も固まった。自分の口から、そんな言葉が飛ばされたことに困惑した。

 だけど。言葉の意味を、私が心のどこかで思っていたことを形にしてみれば。

 あぁそっかって、そんな風に、理解した。


「ゆ……侑杏?」


 お姉ちゃん──否、葵ちゃんが、呆気に取られたような声を出した。

 私は深呼吸をして、彼女が持つスマホに手を添えて、真っ直ぐな目で彼女の瞳を見た。


「私からも。挨拶をさせて、欲しい」


 葵ちゃんは状況が飲み込めていないようだった。

 けれどすぐに「いいよ」と嬉しそうに頷き、私にスマホを託した。

 コメント欄もまた『え?』や『配信終了できてないよ?』と困惑をしている。

 私は何を言おうか、と。考えながら、やがて纏めて一つ息を吸う。

 吐き出すと共に、私は喉奥に待機させた言葉を与えた。


「……弓波侑杏です。……私からも、挨拶をって思って」


 心臓がドクドクと脈打ち始める。

 トラウマが思い出され、萎縮をする。

 けれど私は、私が言うべきことを形作り、言葉にする。


「いきなりなんだけどさ、私は。前回の配信で、酷く心に傷を負ったんだ」


 夢咲葵の面目を落としたまま、さよならなんて、私には出来そうになかった。

 かと言ってこれは、夢咲葵のためにしているという訳ではない。

 これは、私のために──弓波侑杏と白羽唯のために、私がしていることだ。

 だから。これこそ自分勝手で、自己中心的で、利己的である。


「だからね、Vtuberなんてもう嫌だって、辞めたいって、そう思ったの。そしてね、私は葵ちゃんにわがままを言って今、配信して貰ったの。私って、凄い自分勝手なんだよ」


 言いながら、私は酷いやつだなと心の中で苦笑した。

 自分がどうにかするべきなのに、葵ちゃんにこんなことをさせた。

 卒業配信なんて、普通は一人一人でやるべきだ。だけど私は全てを葵ちゃんに押しつけた。

 葵ちゃんとお姉ちゃんに、気を遣わせてしまった。気付いていたのに何も言えなかった。

 でも。こうして言えて良かったのかもしれない。

 悔いという杭が一つ抜けた気がした。


「……ごめんね。こんな配信者で」


 良い視聴者だからと、私のこの行いに同情する寛容な人は少ないだろう。

 しかし。何を言われようと受け止める覚悟だった。

 そんな思いで、私は恐る恐るとコメント欄に目をやった。


:むしろ凄くない? ワイやったら意思表明も出来ずにすぐにでもアカウント消すぞ?

:いやーよかったよ、侑杏ちゃんの声聞けて

:侑杏ちゃんのメンタル心配だったわー、

:侑杏ちゃんもだけど、葵ちゃんもよく言ってくれたよね


 息を呑んだ。

 様々なものが、想いが、体を流れるのを感じる。


「そっか。……そっか」


 どうしても。私は多角的に物事を見る能力が欠けている。

 一つを見たら、それしか信じられずに、他を見ることを知らない。

 一人の視聴者を見たら、それ以外に見ることができていなかったのと同じだ。

 否定的な意見が来ると思い込んだら、それ以外を見れずに思考は一直線になる。


 目頭が熱くなった。

 私たちの視聴者は、どうしようもなく、どうしても、どこまでいっても優しい人たちだった。それを今、流れるコメントが示してくれている。


「優しすぎない? え? なんでそんなに優しい? みんな前世でどんな善行した?」


 私は涙声を誤魔化すように、やけに早口でそんなことを言った。

 けど。次にすすった鼻のせいで、私が泣いてるのがバレたかもしれない。

 私は「あーー」と天を仰いで「よし。じゃあ次」そう言ってスマホに向き直る。


「……え、っと。……本来の予定なら、私はこうして挨拶はしないはずだったんだ。出演せずに配信はそれで終了、私たちもこれで終わり。けど、私はこうして喋っている」


 それは。私は視聴者のみんなに伝えたいことがあったから。

 一つは伝えた。けれどもう一つだけ、伝えたいこと、聞いて欲しいことがあった。


「それはね、みんなの優しいコメントを見たからなんだよ」


 私はコメントの一つ一つを思い返す。

 一度目を瞑れば、さっき見たコメントが瞼の裏に映っている。

 もう嫌なことなんて無かった。


「コメントを見てね思ったの。みんなに出会えて幸せだったって。みんながいなければ、私の恋は実らなかった」


 両親が他界した時から、私の人生はお姉ちゃんだけだと思っていた。

 しばらくお姉ちゃんだけだったかもしれない。それでも、今は違う。

 私の人生は、お姉ちゃんだけで構成はされていない。

 視聴者のみんながいたから、Vtuberがあったから。

 今、私はここにいて、お姉ちゃんがここにいる。

 だから──。


「だから、ありがとう──ございます。これを、伝えかったの」


 ありがとう、なんて。今まで何度、言って、聞いて、思ったのか分からない。

 優に五桁は超えていそうで、それほどまでにありふれて、ありきたりな感謝の言葉。

 それでもその『ありがとう』は、私にとって初めての『ありがとう』だった。

 大切な『ありがとう』だった。


「これは確かに活動休止の配信だけど、みんなとの時間は大切な思い出。だから」


 思い出は簡単には捨てられない。

 自分が思い出だと思うものは、誰かにとっても思い出なのかもしれない。

 誰でもいい一人でもいい。その人にとって、夢咲葵と弓波侑杏が思い出として残っているのなら、私はそれを捨てるべきではない。大切に、壊さずに守るべきだ。


 気が付くことができて、よかった。


「いつかさ、私の傷が癒えた時に、また会いたい。いい? 身勝手で、ごめんなさい」


 これが私の結論だった。これこそ自己中だ。身勝手だ。

 でも。私はこうしたかった。お姉ちゃんにどう思われたっていい。

 最後のわがままにする。これからは、お姉ちゃんにいっぱい尽くすから。

 どうか。このわがままだけ、許して欲しい。


:そりゃあいいだろう!!

:いつまでも待ってる

:おぉまじかー。良かったわー

:五十年後くらいまでなら多分待てる!


「……うん。……だから、それまで。お別れだね」


 お姉ちゃんの顔を見た。

 清々しい笑顔で「そっか」と嬉しそうに呟いていた。

 私は「ごめんね」と小さく彼女に漏らしながら、スマホを手渡す。

 お姉ちゃんは『あ。私!?』といった風な表情をしながら慌てて視聴者に声を飛ばした。


「えーっと! あ、代わりまして夢咲です、葵です! そういうことだから、えー。ちょっと待って、どう終わるか決めてなかったな……」


:おーい、ここくらい決めてくれー

:せっかくいい感じでバトン渡されたのにー

:実家のような安心感さえ覚えるな、このグダグダ感


「あー、あはは。……まぁ、いつも通りでいっか」


 お姉ちゃんはコメント欄に苦笑しながら「よし」と呟く。

 そして、わざとらしい「こほん」という咳払いを一つ。

 私の目を見て『せーのっ』と合図を出すみたいに。


「ご視聴ありがとうございました! はい、ここまで夢咲葵と!」

「弓波侑杏でした。……またね、みんな」


 ──────。


 配信は終了した。

 コメントを見ながら、満たされながら、祝福を受けながら。

 それこそ、卒業式で体育館から抜けるまで拍手を受けているみたいに。


「………………」


 私たちの間には、しばらく沈黙が訪れた。

 なんだろうな。めっちゃ良い映画のスタッフロールが流れる時みたいだ。

 あの何も喋れない、喋ってはいけない、みたいな。そんな感覚に、とても似ていた。

 火照った頬に雪粒が落ちて、私は自身の身体の熱さに気が付いて、冷静になってきた。

 私はゆっくりと、口を開く。お姉ちゃんを見れば、爽やかな表情をしていた。


「私って、やっぱり自己中だったね。意見も聞かずに決めちゃうんだから」

「んーん。私は嬉しかった。それに、これが一番なんだと思う、ほんとにね。……というかね、姉としては、妹が自分でそんな決断をした。それだけで嬉しいもんだぜ」

「……そう? でも、やっぱり聞かずに言ってしまうのは──」

「ちょっと待って。私としては『何カッコつけてんの』って突っ込んで欲しいところだったよ!? なんか普通に肯定されちゃって恥ずかしいんだけど!」

「お姉ちゃんは割といつもカッコつけてる」

「え……うそ……。ショック……」

「でも。それがちゃんとカッコいんだよ、お姉ちゃんは」


 思ったままを伝えてみた。

 お姉ちゃんは「そう」と顔を赤くした。

 最近のお姉ちゃんは、すぐ顔を赤くする。

 そこがまた可愛くもあった。


「……えっと。まぁ、ともかくね。こうやって自己中なことをしたわけだから、私もこれからお姉ちゃんみたいにバイト頑張る!」


 Vは暫くの活動休止。

 お姉ちゃんがバイトの時、私にはすることが無くなるわけだ。


「……ほんと? いや、無理しなくていいんだよ?」

「どうせ暇だから! お姉ちゃん以上に稼ごうかなー、なんて」

「そう? ……じゃあ、そうして貰おうかな」


 私の子供みたいな言葉に、お姉ちゃんは笑って返した。

 話が一旦の終着点に着いたところでお姉ちゃんは「あ……」と漏らす。

 私が「ん?」と返せば「聖夜祭! 行って来なよ!」と。


「……あ。そっか」


 急に現実に戻された心地がした。

 安心感に似た何かが、急激に私に寄せる。

 私を取り巻いていた不安が、一気に解消されたのを理解した。

 別に何も悲しくないのに。溜まっていたのか、涙が溢れ出す。


「良かったぁ……」


 私は涙を隠して、お姉ちゃんの胸に飛び込んだ。

 雪化粧が施された制服は、私の肌に心地良い温度だった。


「唯。頑張ったね」


 お姉ちゃんは、いかにもお姉ちゃんみたいに私の頭を撫でる。

 私は思わず腕を回して、ぎゅっと抱き締める。

 言葉にならない想いが沸々と湧き上がるの感じた。

 やがてそれは私の中の容量をいっぱいにする。

 言葉にならないはずなのに、それは思いがけず口からこぼれた。


「私、私ね、舞が恋人でよかった」


 『お姉ちゃん』は私だけが使える言葉だから気に入ってる。

 名前呼びなんて、私だけじゃないから、今まで使ってこなかった。

 だけど。とても素晴らしい響きだった。あと、恥ずかしい。

 やっぱりしばらくは、お姉ちゃん呼びでいいかもしれない。


「……唯。私も」


 お姉ちゃんは私の名前呼びに戸惑いながら、抱き返してくれた。

 私はだらしなく、お姉ちゃんの胸の中で泣きじゃくった。


 お姉ちゃんがいてよかった。

 お姉ちゃんが私の初恋でよかった。

 お姉ちゃんが私の恋人でよかった。

 月並みな言葉しか浮かばない。

 でも、美しい言葉だった。


「……唯。もう開会式、終わったんじゃないかな」

「うん……」


 私は名残惜しくて、お姉ちゃんにしがみついたまま。

 わがままはしないって決めたのに、こんなことしてちゃダメだな。


「ほら。友達が待ってるんだよね? それが終わったら、また沢山ハグしよう」

「約束だからね。しなかったら、許さないからね」


 私はようやく、お姉ちゃんから離れた。

 今の私は文字通り不細工な顔だと思うから、少し顔を背けた。


「じゃあ! 行ってきます!」


 そのまま私は背を向ける。


「行ってらっしゃい」


 背後から声を飛ばされて、私は駆け出す。

 前を見れば、その道に茨は無く未来があった。

 今からは進むだけだ。つまずいてもいい、前に進もう。


 弓波侑杏と夢咲葵の人生は、ここで一旦の幕閉じ。

 だけれど。その幕が開ける時はいつの日かくるだろう。

 私たち、白羽姉妹の人生は、これからも続いていくのだから。


 階段を降り終えた時、私のスマホが震えた。

 覗いてみれば、先の配信のアーカイブの知らせであった。

 だけど。動画タイトルが、少しだけ違う。

 お姉ちゃんがニヤニヤしながら編集を加えたのが、容易に目に浮かぶようだった。


『またね! 【夢咲葵・弓波侑杏】』

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