003
「綾瀬君は、今日は居残りです」
「はい?」
午後の授業もつつがなく終わり、近々三者面談があるとかないとかそんな話をしていたHRも無事終わり、クラスメイト達が早々に席を立っているべき場所に帰っていく時間。
そんな中で、俺は担任の中野志摩先生に呼び止められていた。
三つ編みを肩にかけた、地味目な服装の眼鏡の女性。我らが担任中野先生。
今年で二十九歳・独身。結婚を焦って婚活を頑張っているらしいが、めぼしい成果は得られず、最近は男子生徒を見る目が怪しいともっぱらの噂。胸がでかいのも、もっぱらの噂。
そんな中野先生が、微笑みながら俺を手招きしていた。
「え、俺何かしましたっけ?」
「この学校では、一年生は必ず部活に入らなければならないというのは知っていますね?」
「あ、はい」
「けど綾瀬君だけはまだ何の部活にも入っていません。この前も同じ事言いましたよね?」
っべー。すっかり忘れてた。
この学校は今時珍しく、生徒達に部活動の強制を強いている。生徒は誰でも必ずどこかの部活に所属しなければならず、二年になるまでは抜ける事は許されない。
何かちょっと前のHRで、一ヶ月経ってもまだ部活に入部してない生徒がいるから早く入るようにと言われた覚えがある。
ちなみに冬雪は美術部、佐藤君と亜衣ちゃんは軽音楽部に入ってるらしい。
俺はというと、放課後は読書(ラノベ)や芸術鑑賞(アニメ)に時間を割くべく、さっさと帰宅していたのだが。
「これ以上逃げるなら先生にも考えがありますよ? 毎日先生と一緒に部活巡りをしますか? うっかり先生とのロマンスを始めますよ?」
「ひえっ!?」
天使のような笑顔でとんでもない事を言いだしてる。
自虐を交えた脅しをかけてくるとか、手段を選ばないにも程があるだろ。
「あ、あの、俺、家の事情で家事をやらなきゃならなくて……」
「ええ、綾瀬君のおうちの事情は把握しています。妹さんと二人暮らしをしているとか」
「はい、そうです! だからすぐに家に帰らなきゃいけないんですよ!」
「ですがその妹さんに話を聞いてみた所、部活をやる程度の時間の余裕はあるはずだと証言を頂きましたので」
あ、あのやろおおおおおおおおおおおお!
最近妙に機嫌が悪いと思っていたが、まさか俺を売りやがるとは!
「というわけで綾瀬君にはさっさと部活に入ってもらいます。でも綾瀬君に任せておくといつまでかかるか分からないので、こちらで勝手に選んじゃいました」
「そんなバナナ」
「バナナ? バナナは美味しいですよね。先生も大好きです」
「はい、俺も大好きです。先生も大好きです」
いや、そんな果物の王様の話はしてないんだよ。
何言ってるのこの先生。可愛い顔してとんでもねぇ。
「でも今日はちょっとお腹が痛くて……」
「あら、それは困りましたね。じゃあ先生が看病してあげます。治るまでずっと一緒にいてあげますよ? もし治らなかったらそのまま一緒に暮らしましょうか」
「あ、いま治りました……」
駄目だ逃げらんねぇ。結局俺は中野先生にドナドナされ、やがて校内ホールの隅にポツリとある扉の前に辿り着いた。
「ここは?」
「私が顧問をしている、動画制作部の部室です」
「動画制作部。聞いた事もないんですけど」
「ひと月前に出来たばかりで、部員もまだ一年生が一人だけですからね。あ、でも喜んでください。クラスは違いますが可愛い女の子ですよ!」
「喜ぶ要素が一個もない」
「それに、その子がぜひ綾瀬君をってご指名してきたんです。綾瀬君も大人しそうな顔してやりますね! このこのっ」
どういうこっちゃ。
ぶっちゃけ同じクラスですら知らん奴が多いのに、違うクラスの女子に名指しされるような覚えはなかった。
そんな俺の懸念をよそに中野先生はさっさと扉を開け。
「矢々丘さーん、綾瀬君を連れてきましたよー」
声をかけながら室内へと入っていく。
俺も後に続くが、部室の中はがらんとしており、誰もいないようだった。
「あら? 矢々丘さーん? 綾瀬君を連れてきましたよー? これで煮るなり焼くなり好きに出来ますよー?」
おっと、早くも不穏な空気を感じましたよ?
中野先生はキョロキョロと室内を見渡しているが、やはり反応はない。
動画制作部の部室は、未だ物置としても使われているのか、壁にはスチールの棚が並びダンボールが詰められていた。
窓はカーテンが締められており、どこか薄暗い。
雑多な物で溢れる室内は埃っぽく、少し中に入っただけで咳き込みそうだ。
物は床にまで散乱しており、俺達の足下にも網のようなものが広がっていた。
「うーん、おしっこでしょうか?」
唯一の部員を探して中野先生は視線を巡らせる。
俺はというと、足下の物を踏まないようにするのに精一杯だった。
何かよく分からん物がめっちゃ転がってる。埴輪とか。
「ん?」
そんな中で、ふと目に付くものがあった。
床に置かれた一冊の本。その表紙には、俺に微笑みかける一人の少女。
「こ、これは……!」
キミオトの音乃メグの本がありゅうううううううう!
しかもこれ、個数限定で刷られた特別仕様の超々々々々々激レアラフ画じゃねーか!
雑誌にたまに付いている抽選券を送った上で、数名にだけ送られたという本当に特別な本。
当然手に入れられる者は皆無。あまりのレアさに抽選と言いつつ実際には送ってないはずだとSNSで大炎上を巻き起こした業の深い本だ。
その内容は音乃メグのラフや設定が掲載されつつ、各有名アニメーター達による音乃メグの特別イラストまでもが掲載されている、とても豪華なものになっていたはずだ。
俺もこの本欲しさに雑誌を何冊も買ったが、そもそも抽選券がほとんど出なかった。
ようやく出た抽選券を送って神に祈ったものの、結局本が送られてくる事はなく枕を噛みしめて悔しがったものだったが。
そ、それが何故こんな所に。
いや、そんな事はどうでもいい。今はとりあえずこの本を拾いたい。これはこんな所に無造作に落ちていていいものではない!
俺は急いで本を救出すべく拾い上げ。
「これ、おーれの!」
「ふぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっしゅ!」
「うおおおおおおおおおおおお!?」
その直後、子供のような声が聞こえたのと同時に俺の視界は反転した。
「な、何だコレ! どうなってるんだ!?」
「ひゃああ、あ、綾瀬君、先生は今どうなってるんですかぁ!?」
床に落ちていたはずの網が、水揚げされたサンマの如く俺を釣り上げていた。
中野先生も同様に巻き込まれ、俺に覆い被さっている。
つまり重力に従った中野先生のおっぱいが俺の上に落ちてきている。
ああ、俺の手がなければ中野先生のおっぱいがこぼれ落ちてしまう。
は、そうか! 人の手が二本あるのは、二つのおっぱいを救うためだったのか!
「ふっふっふ、逃げられては困ると思って罠をはっておりましたが、まんまとかかりましたね! 夏音の読みは大当たりです!」
何かどっかで正体不明の声がドヤってるけど、まあどうでもいいだろ。
それよりもこの嬉々、いや危機をどうにかする方が大事だ。
「くっ、何て卑劣な。絶対に防げない罠によって全く身動きがとれないっ」
「ふえええん、綾瀬君、先生のおっぱいをそんなに揉まないでくださぁい」
これは噂通りマジでデカい。両手から溢れんばかりで感触も素晴らしい。
全く何て狡猾な罠だ。こんなの抜け出せるわけがない。
「……あの、お二人とも聞いてますか? 夏音はここですよー!」
「うおおおおお! 先生、俺が今この難局を乗り切ってみせますから、待ってて下さい!」
「な、何でそう言いながら先生を抱きしめるんですかぁ!」
「な、夏音もいますよー! 綾瀬さーん、綾瀬さんってばー!」
うるっせぇな外野。
何かさっきからギャーギャー言ってるから、仕方なく首を回して声の主を探してみる。
声の出所、カーテンの影に隠れていたんだろうが、窓際には泣きそうな顔の女生徒がいた。
長いおさげを揺らしながら大きく腕を振り、必死に自分の存在をアピールしている。
一応いっぱしにセーラー服を着ているが、その姿はかなり小さくまるで幼女のようだ。
「失格」
「んなっ!? 何故ですか! 夏音の何が気に入らないんですか!」
「小学生だから」
「誰が小学生ですか! 夏音はこれでも綾瀬さんと同じ高校一年生です!」
うっそだろお前。中野先生までとは言わないが、さすがにそれはないだろ。
「……大分失礼な事を考えているようですが、そんな態度をとって良いのですか?」
「何がだよ。この状況にしたのはお前だろ」
「そうですが、いくつか誤算があったのも確かです」
「んお?」
ちびっ子、もとい夏音と名乗った幼女は、ついっと中野先生を指差した。
「どうやら綾瀬さんは中野先生に随分と気に入られていたようですね。まさかそんなにあっさり落ちるとは思いませんでした」
「あん? 何言ってんだ。俺は中野先生が落ちないようにしっかり支えてるんだぞ?」
あれ、そういやさっきから中野先生が大人しいな。
「……はふん。綾瀬君がまさかこんなに情熱的に先生を求めてくるなんて、思ってませんでした。でも先生、とっても嬉しいです」
あ、あれ。何でこの人顔を真っ赤にしてるの?
「ふふふ、男の人にこんなに触られたのは初めてです。責任、とってくれますよね?」
「おおっと先生安心して下さい、もうこの危機は過ぎ去るので、密着する必要はなくなりますよ! おい、チビっこ。早く降ろせ」
「はっはー。まだ言いやがりますか。何ならそこでお二人で暮らしますか? 夏音はお邪魔なようなので帰りますね」
「綾瀬君、先生はもう禁断の道を進む決意をしましたよ。さあ一緒に役所に――」
「夏音様ー! 行かないでー!」
一応、戻ってきてくれた。
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