一二
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと
先生と知り合いになってから先生の
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描きえたにすぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇をもっていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとってみじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊するまえに、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生まれ出たともいえる二人の恋愛については、さっき言ったとおりであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。ある時花時分に私は先生といっしょに
「新婚の夫婦のようだね」と先生が言った。
「仲がよさそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をしたことがありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくないことはないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、
「そんなふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」
私は急に驚かされた。なんとも返事をしなかった。
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