序章(地球)、私と少年と怪異の始まり。

第一話、日本と夢と私。

 機械的な電子音が聞こえる。

 私の見知ったものとは違う、けれど聞き慣れた目覚ましの音。音を感じるままに淡い光を透かす瞼を持ち上げると、見慣れた部屋の天井が目に映った。


 身を起こし、少し視線をずらせば見えるベッドと壁とカーテンと。

 光の元は白色の壁際、朝の陽射しがカーテンの隙間から入り込んできていた。


 のそりと身体を揺らし、少年が目を覚ます。幼さを残す顔立ちに短く黒い髪、まだ男の"子"と言うのが似合うような、そんな少年だった。


 少年の寝起きは良く、手早くスマートフォンを操作して目覚ましを止め、ベッドから起き上がった。お腹の上から除けた布団は毛布一枚で、シャツにパンツのみという格好も季節を感じさせる。


 春。卒業の季節であり、入学の季節であり。また、進級の季節でもある。


 この日本にほんという国では、一定の年齢に達すると学び舎が変わる、完全な体系としての教育体制が整えられていた。


 全員に一定以上の教育を施すのは理にかなっているかもしれないけれど、幼少期からより高等な教育を行う専門の機関がないと言うのには少々の物足りなさを感じてしまう。

 もしかすれば、私が知らないだけでそういった学舎もあるのかもしれない。それならそれでいつか訪れてみたい気はする。というか行きたい。


 寝ぼけ眼で靴下を履く少年、名前を石海いわみ甚伍じんごと言う。薄いインナーシャツとパンツに靴下だけという組み合わせはなかなかに変態的ではあるものの、私も人のことが言える質ではないので何も言わない。

 まあ、何か言おうにも伝わらないのだけど。


 少年は部屋を出てトイレに行き、小用を済ませ階段を下りて洗面所に向かう。

 顔を洗い、口を濯ぎ、完全に目が覚めた様子でタオルを使い顔を拭いていた。相変わらずこの世海・・の技術には感心する。水道然り、電気然り、ガス然り。技術含め多くのものが私の知っている世海とは違い過ぎて最初はずいぶんと戸惑った。


 そんな戸惑いも時が経てば慣れるもので、一年あればある程度のことには動じなくなった。

 人が環境に適応するって話、あれってどこの世海でも変わらないのよね。


「甚伍、おはよう」

「おはよう」


 母親と朝の挨拶を交わして、甚伍はもそもそと食事を始める。

 今日の献立は鳥の卵の炒め物とお米と野菜炒めだった。毎日美味しそうな食事をしていて羨ましい。朝も昼も夜も。別に私の食事がさもしいという意味じゃなくて、異なる文化の食事が羨ましいという意味で。それに、家族と毎日のんびり食事を出来る時点で私からしてみれば……。


 考えている間にも食事は進み、甚伍は"ごちそうさま"と口にして食器を下げに行った。

 歯磨きをしに洗面所へやってきた甚伍に付き添いつつ、一人分の姿しか映さない鏡を眺める。


 しゃこしゃこしゃこしゃこ。そんな擬音語が聞こえてくる中で見つめる鏡は何とも言えず、少年と目が合っているような気がしないこともない。


『ふふーん』


 ぱちりとウインクをしてみても反応がない。私にも見えていないのでちゃんとウインクができているかすらわからない。たぶんできていると思う。うん。


 それにしても、やっぱり鏡に映らないというのは不思議な気持ちになる。

 海生生物の中にはそんなのもいると聞くし、深海との交流でそんな種族がいるのも知ってはいる。でも、まさか自分がこうなるとは思ってもみなかった。


 日本にも鏡に映らない人がいるのかしら。いたら是非お話をしてみたい。まあ私が見えたらの話だけど。


 私のウインクを無視しながら歯磨きを終えた甚伍は、そそくさと二階へ戻っていった。これから登校用の服に着替えるのだろう。着替えを覗くのも……覗くという表現はおかしいわね。堂々と見るだけだし。


 少年の着替えを見ていても面白いものはないので、つけっぱなしになっていたテレビの前に陣取って映像を眺める。朝のニュース番組が流れている。


『テレビって……ふふ』


 私も慣れたものね、なんてちょっぴりの自画自賛。

 ほとんど甚伍が漏らして知った言葉だけど、挨拶とかは普通に覚えた。毎日とは言わないけれど、結構な頻度で聞いていれば覚えるというもの。"おはよう"とか"おやすみ"とかね。


 流れるニュースの言葉は全然わからない。私だってそこそこ頭が良い方だとは思っているけれど、こんな言語を覚えろっていう方が無理がある。文字もそうだし、私の知らない物ばかりで覚えようにも覚え切れない。全部ご飯だけのニュースにしてほしいわ。


 じっとりと見ていたテレビが突然消え、振り返れば甚伍のお母様が縦長の棒を持っていた。机に置いたそれはテレビを遠隔操作できる代物で、私の世海における深杖しんじょうに近いもの。名前は知らない。たぶんテレビ棒とかそんなの。安直過ぎかな。


 絨毯の敷かれた床に寝転び、感触のないふわふわ感に虚しさを覚えながら時間が経つのを待つ。壁に掛けられた時計を見れば、時刻は八時を少し過ぎていた。


 今さらながら、時間の数え方とか数字とかが同じって絶対おかしいと思う。私がそんな世海を見ていることも……私だからか。逆ね。世海同士に近い部分があったからこそ私が見れている。きっとそういうこと。まあどうでもいっか。


 甚伍が家を出るまでまだ三十分もあるので、私は暇になった。テレビも消されちゃったし、絨毯にも触れないし。ふわふわ絨毯だったらいつまでもごろごろしていたというのに。絶対自分の家じゃやらないもの。


 無理なものはしょうがないので、立ち上がって二階に向かう。行く先は甚伍の部屋。

 閉まった部屋の扉をすり抜けると、そこには黒い服に身を包んだ少年がいた。ベッドに腰かけスマートフォンを弄っている。画面には最近少年がはまっているゲームが表示されていた。


 甚伍曰く、"宇宙戦艦を育成するゲーム"らしい。喜びの声は心から漏れ出しやすいので定期的に耳にする。宇宙も戦艦も私の知るものと類似しているから、その辺りに問題はない。ただ。


『どうして宇宙戦艦が人型なのよ……』


 つい、ぼやいてしまった。

 宇宙について知っていることは少ないけれど、それでも戦艦という部分では理解できる。形状や素材はともかく見た目が似てるのをテレビで見たし。それがどうして人型になるのか。しかも育てるって。育てて宇宙旅行に行くのは素敵な話だけど、もう色々と意味がわからない。あとこれが結構人気っていうのがもっとわからない。


 まあでも、甚伍がゲームのやり過ぎでお勉強に身が入らないとかまで行っていなくてよかった。遊びの領域でやっている分には私も言うことはない。

 そもそも声が届かないとかは別にして。


 しかしそう、スマートフォン。

 改めて考えてもすごい代物だと思う。この国、いてはこの世海における技術の代表と言えるような気がする。

 私の知る範囲では、という注釈が付くけどね。


 どうにかこの道具の機能を再現できないものかと考えることが多い。こう、なんかすごい力で、わぁーって。無理か。無理ね。


 ぼんやり考え見ている間にも時間は過ぎ、甚伍はお手洗いに行ったり忘れ物を軽く見たりして出かける時刻を迎えた。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 聞き慣れ見慣れたやり取りをして別れる少年とその母。

 甚伍に付いて家を出ると、空は青く澄んで太陽の光が燦々と降り注いできていた。カーテン越しに見るのとは違う、明るく眩しい空の色。


 世海は違えど空は同じ。青と白と、輝く星一つ。

 今日は何かが始まる予感がする。


 夢の中で見つめるもう一つの世海。

 一年前から始まった、夢見る私の異世海霊体生活。この"日本"という国を知り一年と少しが経ち、今日を節目に何かが変わるような気がする。それはもしかしたら、夢が現実になったり人との会話が出来るようになったり――――なんてね。


 夢の中らしく物語チックに考えては見たけれど、甚伍は普通にスタスタ歩いて行ってしまっていた。


『待ちなさいよー!』


 と叫んでみてももちろん声は届かず、やれやれと首を振って少年を追いかける。

 今日もまた、不思議な国の普通な一日が始まった。

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