第2話 ご加護のゆくえ

 さくは慎重に言葉を選んで口を開いた。


町田まちださん、奥さまに家事を全てお任せしてはるんなら、そのせりふは禁句ですよ〜」


 変な角が立たない様に少しおちゃらけた様に言う。すると町田さんは「え?」と少し驚いた様に目を開いた。


「そうやろか」


 町田さんはぴんと来ていない様だ。義明よしあきくんも横で首を傾げている。


「町田さん、もしかしてお茶れたりするんも、奥さまにやってもろうたりしてませんか?」


「そりゃあそうやろう」


 町田さんはきょとんとした顔だ。何がおかしい? そんな思いが表情から滲み出ている。


「義明くんはお母さまのお手伝いはしてはる?」


「しぃひんですねぇ。しろって言われますけど」


 義明くんはそう言って苦笑する。


「ならなおさら言わへん方がええかも知れませんねぇ」


 朔はそう言って微笑む。町田さんはまた「そうかなぁ」と眉をひそめる。義明くんも不思議そうなお顔で首をひねった。


「家内にそんな手間を掛けさせとるつもりは無いんですが。そりゃあ店の経営は安泰あんたいってわけや無いんで、金銭的に苦労を掛けたかも知れません。でも家内のことは気遣うてますし」


 やはり町田さんは奥さまにお世話をされるのが当然だと思っている。どう言ったら伝わるのだろうか。朔はやきもきしてしまう。


 するとようが「あはは」と陽気な笑い声を上げた。


「気遣うてたら自分のお茶ぐらい自分で淹れますって」


 朔は焦って「陽!」と小声でたしなめてひじで脇腹を軽く小突いた。すると町田さんは呆然とした様な顔になって「そ、そうでしょうか」と力無く漏らす。


「そうやと思いますよ。お茶を淹れる、それぐらい、って思われてるんやったら、それぐらいなんですから自分でやったらええと思いますよ」


 あっけらかんと言う陽を朔はまた「こらっ」ととがめる。しかし陽はまるで気にする様子は無く、また口を開く。


「そんなちょっとしたことで、奥さんかなり楽になると思いますよ」


 すると町田さんと義明くんは気まずそうな顔を見合わせた。


「家事は母さんの仕事やと思ってたんやけど」


「俺もそれは母さんがやることやてずっと思っとったし」


 奥さまに何でもさせる町田さんを見て、義明くんもその価値観に染まってしまっているのだろう。このぐらいの年代の子は、家事育児に関してこれまでの様な男女の区別が無い子も多いと聞く。やはり育ち方、環境に大きく左右されてしまうのだろう。


「お茶を淹れてもろたり身の回りのことをやってもらうんは、家事や無いですよ。世話です。もう大人なんやから自分のことぐらい自分でしましょうよ。そうやってなんでも奥さん任せにして、熟年離婚されるケースたくさん聞きますよ」


 すると町田さんはぎょっとして「そ、それは困るわ!」と、思わずと言った様子で腰を浮かした。それは「奥さまを想っているから困る」なのか「家事をしてくれる人がいなくなるのが困る」なのか。後者なら救い様が無いが。朔もなかなか辛辣しんらつなことを考えてしまう。


「それが嫌ならちょっと気ぃつけてみましょう。って、結婚もしてへん私が言えることでも無いですけど」


 陽が言ってにっこりと笑うと、町田さんは「む、むぅ」と顔を強張らせた。義明くんも困惑した様な顔をしている。


「お、俺、明日の受験が終わったら、少しは家の手伝いとかしてみよかな」


 町田さんより義明くんの方が、ことの重大さを理解している様だ。


「それはええね。あれ、明日受験なん?」


 少しほっとして朔が口元を綻ばせると、義明くんは「そうなんです。大学受験なんです」と頷く。やはり学生さん、高校生だったか。


「だから父さんがここに来ようって。ここで赤飯を食ったらええことがある気がするからって」


「やったらとんかつは良かったね。とんかつの「かつ」が「勝つ」の語呂合わせで縁起がええんよね」


 陽も横で大きく頷く。町田さんはご存知無かった様で「そうなんか?」と目を丸くした。


「あ、それ俺母さんに聞きました。せやから明日の弁当にとんかつ入れてくれるって」


「それやのに今日も食べてるんか?」


「好きやねん」


「そうか。ああ、でも思い掛けず大変な話になってしもうて」


 町田さんは少し落ち込んでしまう。いくら義明くんが無事受験を合格し、後々めでたく巣立って行ったとしても、奥さまに愛想を尽かされては元も子もない。


「だからそうならへん様にするんですって。そもそも町田さんが奥さんにしてはった気遣いってどんなことなんですか?」


「え、それは」


 陽の言葉に町田さんは口を開いたまま言葉を飲み込んでしまう。そしてごくりと喉を鳴らした。


「気遣うてたつもりなんですが、え、僕何をしてたんやろか」


「気遣いって自然に出るものでもあるんで、言葉にするって難しいですよね」


 朔は助け舟を出すつもりで言ったのだが、町田さんは「ううん」と考え込んでしまった。そこに陽が追い打ちを掛ける。


「とりあえず、お茶飲みたいなら自分で淹れる、爪切りたいなら自分で爪切りを出す、ごみが出たら自分でごみ箱に捨てる、自動車保険なんかの切り替えも自分でする。そんな雑事を自分でやってみましょう。それからですよ」


「そ、そうか」


 町田さんはまだ狼狽うろたえながら、それでも頷いた。


「町田さん、実は私らの父親が、そういう自分のことは自分でする人やったんですよ。私らともたくさん遊んで世話も躾もしてくれました」


 記憶にも無いころのことはマリコちゃんに聞いたことだが、赤ん坊だった双子が同時に夜泣きした時には父と母がそれぞれに双子を抱いてあやしてくれ、食事もふたりで食べさせてくれた。


 おむつ変えは気付いた方がして、風呂に入れる時も入れた方が身体を拭いて服を着せるところまでしてくれた。寝かし付けも父がしてくれたことも多かったそうだ。


 双子が物心ついた時には父はじぶんのことは自分でしていた。家事は母に任せていたが、双子の躾もきちんとしてくれた。だからそれが双子にとっての父親像なのだ。


 だからマリコちゃんは商売もしていない五十嵐いがらし家に居続けてくれていたのだ。マリコちゃんは言っていた。


「自分で自分の面倒も見れん人間が大成できるはずが無い。破天荒はてんこう気質の天才なら話は別じゃがの。子育てもそうじゃ。自分の子なんじゃから親がするのは当たり前じゃろうが。昔はなんでも女がやっていたものじゃが時代が違う。共働きの家も多い。片方がふんぞり返れる時代では無いのじゃ」


 朔の言葉に町田さんは「凄いですね……」と呟く。


「うちの母は専業主婦ですけど、家事の範疇はんちゅうで無い部分は協力しあってたって感じがします。それって大事なことやなって思いますねぇ。私も結婚するならそういう男性がええなって思います」


 朔が言うと、町田さんはまたうなだれてしまった。しまった、言い過ぎだっただろうか。だがこのままだとマリコちゃんのご加護が失われてしまう。それは避けたかった。町田金物店さんが大変なことになってしまう可能性があった。


「僕はそうしてるつもりでできてへんかったんですね。言われへんかったら判りませんでした。今からでも大丈夫でしょうか。もう呆れられてしまってるやろか」


 すると陽が「考えすぎですって」と明るく笑う。


「遅いなんてことは無いですよ。ほんまにちょっとしたことなんやと思います。気ぃつけてみましょうよ。義明くんも」


「はい。まず俺は明日の受験がんばります。ちゃんと合格して、勉強から解放されたらできることやってみます。部屋の掃除も自分でします。今まで母さんに掃除機とか掛けてもろてたから」


 決意した様に言う義明くんに、陽は「そうやな」と頷いた。


「まずは自分のことは自分で、から始めたらええと思うで。お母さんが旦那に尽くしたい、子どもを甘やかしたいって思ってはるんやったらともかく、義明くんに手伝いしろて言うぐらいなんやから、そうや無さそうやし。まずは受験がんばってな。町田さんは今日から気をつけてみてくださいね」


「は、はい。やってみます」


「俺も気をつけます」


 町田さんと義明くんは神妙な面持ちで頷いた。




 「あずき食堂」閉店後、店の片付け中に再び姿を現したマリコちゃんは「うむぅ……」と渋い表情を見せた。


「町田め。仕事については認めておったのに、嫁に負担を掛けておったとは」


 少しばかりご立腹である。朔は「まぁまぁ」となだめた。


「町田さんも義明くんも気をつけるて言うてはったし、きっと大丈夫やで」


「そりゃどうやろうなぁ。ああいうんはなかなか治るもんや無いで」


 陽の言葉に朔は「そんな病気みたいに」と呆れた顔を作る。


「それにしても、陽ははっきり言い過ぎやで」


「あれぐらい言わな通じひんで。現に朔が気ぃ使うて遠回しに言うててもぴんと来てへんかったやろ」


「そりゃあそうかも知れへんけどさぁ。でも町田さんも晩年に奥さまに出て行かれたら困るやろうし、考えはるやろ。大丈夫やで」


「だと良いがの。まぁしかし少し様子を見ようかの。とりあえず赤飯の加護は効くはずじゃ。義明は明日の受験、少しぐらいは底上げされるじゃろ」


「じゃあ合格できる?」


「それは判らん。義明が元々どれぐらい勉強しておったかじゃな」


「そっかぁ。合格できるとええねぇ」


「そうじゃな。それはめでたいことじゃからな」


「そうやね」


「うん」


 朔と陽は手を止めずに頷いた。

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