逃亡

 ギルベルトが再び牢獄にやってきたのは、最初にオリヴィエと会ってから四時間後のことだった。とはいえ、窓のない部屋に閉じ込められているオリヴィエにそれを知る術はなく、その時にはすでに休戦に入っていたので、時間の経過ももはや気にしてはいなかった。


「よう、迎えに来てやったぜ。お姫様。ちったぁ俺に奉仕する気になったか?」


 ギルベルトが陽気に声をかけてきたが、オリヴィエは石壁を見つめて彼の問いを完全に無視した。ギルベルトは気を害した様子もなく、むしろ面白がるように口の端を吊り上げた。


 彼は衛兵を三人従えていた。全員屈強そうな体格をして、手には槍を持っている。オリヴィエの逃亡を警戒しているのだろう。


 自分が連れてきた衛兵を廊下に立たせた後、ギルベルトは見張りをしていた衛兵に銘じて牢獄の鍵を開けさせた。それから同じ衛兵がオリヴィエの方に近づいてきて、じゃらじゃらという音を立たせながら鎖を壁の支柱から巻き取った。鎖を自分の手に巻き付けた後、手ぶりだけでオリヴィエに立つよう促す。

 オリヴィエはゆっくりと立ち上がりながら鉄格子の外の様子を窺った。牢獄から階段までは目と鼻の先だが、進路を塞ぐように四人の衛兵が立っている。武器があればいざ知らず、丸腰の状態で突破するのは難しそうだ。焦ってはいけない、と自分に言い聞かせる。


 オリヴィエが衛兵に連れられて牢獄から出ると、すぐに廊下にいた残りの衛兵が散らばり、彼女の前後に二人ずつ並ぶ格好になった。ギルベルトが最後尾に付き、そのまま全員で列になって階段を上っていく。


 オリヴィエは最初、前にいる衛兵に体当たりを食らわせてやろうかと思ったが、階段は一人ずつしか上れないほど狭いため、自分が巻き添えになって落下するだけだと思い直して断念した。途中で踊り場があったため、そこで衛兵を突き飛ばそうとわずかに腰を屈めたが、後ろにいる衛兵がその動きを察知したかのように鎖を引いた。

 動きを封じられたオリヴィエは軽く小突く程度の痛みしか与えられず、前にいる衛兵はちらりと振り向いただけで、何事もなかったかのようにまた階段を上っていった。その後は踊り場が現れず、オリヴィエはここでも逃亡を断念した。


 それから間もなく階段を上り終え、オリヴィエはようやく外の景色を見ることができた。

 すでに辺りは暗くなっていたが、目の前に広がっている光景は闇を凌駕するほどの眩い輝きを放っていた。


 最初に目に飛び込んできたのは巨大な屋敷で、横に広く、黄色い煉瓦で覆われたそれは、金殿玉楼きんでんぎょくろうという言葉が相応しい壮麗な外観を呈していた。その周りには迷路ほどもありそうな巨大な庭園が広がっており、中央にある円形の噴水が闇夜に水飛沫を散らしている。

 遊歩道に沿うようにして並んでいる白い彫像はこの屋敷に住まう人間をかたどったものだろうか。彼らの周りに咲き乱れる橙色の花は、この地方で何度も見かけたノウゼンカズラの花だ。名誉の象徴である花が人間の彫像を取り囲む様は、まさしくここが勝者の屋敷であることを物語っているように思えた。


「俺の屋敷は見事なもんだろ?」ギルベルトが後ろから声をかけてきた。

「親父が生きてた頃はもっと貧相だったんだが、俺が当主になってから大々的に改装してやったのさ。何せ俺は侯爵家の領主様だからな。これくらいの豪邸に住むのは当然だろ?」


 オリヴィエは答えなかった。屋敷の壮麗さよりも、彼女の関心事は逃亡経路の把握にあった。自分が今出てきたのは庭園で、そこから数十メートルほど離れた場所に屋敷がある。おそらく彼は自分をそこに連れていくつもりだろう。屋敷に入れば逃亡の可能性は低くなる。逃げるなら、ここしかない――。


 オリヴィエは素早く周囲に視線を巡らせ、庭園の遙か向こうに門があるのを認めると、そちらに向かって一目散に駆け出そうとした。が、数歩進んだところでドレスに足を取られてつんのめった。辛うじて踏ん張ったので転倒は避けられたが、その間に四人の衛兵が彼女を包囲した。身を屈めて隙間から逃げようとするも、今度は槍に行く手を阻まれる。彼らは槍で四角形を作るようにオリヴィエを囲い、オリヴィエは完全に動きを封じられてしまった。


「おいおい、あんまりお転婆すんじゃねぇよ。今からそんなに暴れてちゃあ後が持たねぇぜ?」


 ギルベルトが抜け抜けと声をかけてくる。オリヴィエは彼の方を振り返ろうともせず、ただ自分の無力さに打ちひしがれていた。ギルベルトや衛兵の目を掻い潜ることばかりを考え、服装のことを全く計算に入れていなかった。ドレスは裾がもったりとしているせいで走りにくく、靴も履き慣れないピンヒールのため、少し歩くだけでも蹌踉そうろうとする。

 もしかするとギルベルトが自分にこの衣装を着せたのは、単なる下卑た趣味のためではなく、逃亡防止の目的もあったのかもしれない。だとすれば彼はなかなかの策士のようだ。他人の行動を予測し、先手を打つ。それだけ才知に長けていながら、この男は自らの知恵を情欲のためにしか使おうとしない。それがオリヴィエには愚かに思えてならなかった。

 そしてそれ以上に、そんな愚かな男に降伏するしかない自分が、愚かで、憐れで、惨めだった。




 オリヴィエの顔に浮かんだ失望を見て取ったのだろう。ギルベルトは意地の悪い笑みを浮かべると、衛兵を促して再び彼女を連行した。

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