愛
「うるっせぇんだよっ!!」
リビングに父さんの声が響いた。
バシン、ドゴッ、バキッ!
続けざまに凄まじい音が鳴る。
(嗚呼、また始まったのか……。)
僕は心の中で呟いた。
「ごめんなさいっ……ご、ごめんなさいぃっ!ゆ、許しっ……ヴヴヴッ!!」
見なくても分かる。また母さんが泣いていた。
啜り泣きの間から漏れる、謝罪の声。
頭に血が上った時の父さんには、何を言ってもムダなのに、それでも救いを乞うてしまう。
残酷で一方的なこのやり取りは、僕の12年という短い人生の大半を占めている。
それはあまりに歪で、普遍的で。僕の心は麻痺しきっているのか、もう恐怖も薄れつつあるのだった。諦めの境地、なんて所だろうか。
「ごめんで済むもんじゃねぇんだよ!てめぇは女なら女らしく、旨い飯を作ってご主人様の帰りをただ待ってたらいいんだよっ。それがなんだ?こんな出来合いの惣菜なんぞ。てめぇがこんなだらしない女だと知ってりゃあ、結婚もしなかったのになぁ!?」
ドスン、ドスン、バキバキッ。
「ごめんなさ、ハァ、ハァ、い、ご、クッ、めんな、ヴッ、さい、もうしませ、ハァ、ハァ、ん、も、うしま、ううっ、せんから、怠け者で、ハァ、ハァ、ハァ、済みません、ごめ、んなさ、い、ごめん、ヴヴ、なさい……。」
「さっきからハァハァハァハァるっせぇんだよ!!反省してるなら黙って俺の飯作れや‼︎女のくせに偉っそうに、キモいんだよっ!!」
ゴンッ!!
今日一番の鈍く大きな音が鼓膜を刺激した。
僕は洗濯物を畳む手を止めて、ちらりと両親へ目をやった。
木目調のテーブルの下で蹲り、土下座らしき姿勢を取っている母さん。顔はこちらから見えないが、どうやら額から出血しているらしい。床に点々と赤いものが飛び散っていた。肩で息をしながら、謝罪の言葉を繰り返している。
「このクズが。飯もろくに作れないようなてめぇなんかと結婚してやった俺に感謝しろよ!オラ、言えよ、ありがとうございますって、言えよ、オイ!」
顔を真っ赤にした父さんが、ビール瓶を大きく振りかぶった。母さんの出血はあれが原因らしい。
と、振りかぶった父さんの視線が、僕の瞳を捉えた。
あっと思った時にはもう遅い。父さんがビール瓶を掲げたままずんずんこちらへやってきた。血走った目が僕の顔をギョロリと覗き込む。
ゴンッ!!
気付いた時には、僕の視界は反転していた。床に打ち付けられるこの感覚、幾度繰り返しただろう?
刹那、生暖かい何かが、僕の左目に流れ込んできた。——血だ。
痛みは後からやってくる。これもいつもの事だった。
「ボケッと見てんじゃねぇよこのクソガキがっ!!」
きつい言葉が僕の胸に突き刺さった。脇腹にドンッ、ドンッと衝撃が走る。嗚呼、また蹴られているのか、僕。
「うぅ……。」
慣れた事とはいえ、痛いものは痛い。僕は思わず呻いてしまった。父さんの顔がより険しくなる。
「てめぇも日本男児なら、洗濯物なんてちまちましたもんあのクソ女にやらせりゃいいんだよ!もっとどっしり構えて、女なんざこき使ってやればいいんだよ!」
ドンッ、ドンッ。衝撃は続く。
「ごめん、なさい……。」
「あ゛ぁ!?なんだって!?声が小さくて聞こえねぇんだよ!!」
「ごめんなさいっ!!」
「……ったく……。チッ。」
舌打ちをすると、父さんは僕のお腹をグッと踏みつけた。
「!!!!!!!!!!」
これ以上何か言うともっと傷が増える事は明白だった。だから呻く事も出来ない。けれど、痛いものは痛いし、父さんの目がぶっ飛んでいるのは相変わらずだった。
「強い男が弱い女共の上に立つ!それが正しいって、何回言えば分かるんだッ!!」
時代錯誤な考えを押し付け、妻子に暴力を振るい、何でも自分の支配下に置きたがる。ダメな父親ナンバーワンだ。父さんが狂っているのは薄々勘づいていたけれど、小学校に入ったばかりの時に、クラスメイト達に面と向かって僕の家族の歪みを指摘された時は本当にショックだった。
ガッ!
父さんが僕の体を思い切り蹴り飛ばした。蹴られた勢いで、僕は机の脚にぶつかってしまった。打ち付けられた背中がまた痛みだす。
「女を支配してこそ愛は生まれるんだよッ!分かったか!?」
「……はい。」
「あ〜ぁ、なんで俺はこんなにも不幸なんだろうな?頭の悪い女に騙されて、結婚までしちまって、挙句出来たのはこんなひ弱な奴だとはなぁ!?」
また父さんがチッと舌打ちをする。そして、間髪入れず再びビール瓶を振り上げた。
「……も、もう……やめてっ!!その子を傷付けるのはっ!!やるなら、私だけにして下さいッ!!!」
母さんの悲鳴じみた懇願が響き渡った。
ガシャァンッ!!
瞬時に激昂した父さんが床にビール瓶を打ちつけた。破片が僕の頭上に降り注ぐ。
「テメェ……女のくせに飯も作れねぇ上に、俺に命令まですんのかぁ……!?」
「ふざけんのもいい加減にしろおおおお!!!!!!!!!!」
叫ぶが早いか、父さんが母さんに飛びかかった。
途端に始まる殴打と血飛沫の嵐。
母さんは体中が痣で覆われていて、骨折までしているのに、先程のビール瓶の一撃。もう動く気力も無いのか、じっとされるがままにしていた。
——二人を見つめながら、僕は考える。
僕なんかにこの世界を変える事は出来ないんだ、と。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ウッウッウッ……。
ドシン、ドシン。
——僕は腕力も無ければ、外の世界も殆ど分からない。
もうすぐ卒業する小学校には、5年以上通えていない。
僕には何にも無いんだ。ただ、こうして非情で小さな世界で生きるしか無い。
「この野郎ッ!この野郎ッッ!!この野郎ッッッ!!!」
バキッ、ドスッ、ビチャッ。
——僕が死ねば全部終わる、なんて甘い考えはもう捨てた。
一ヶ月前、僕の姉が自ら命を手放したというのに、この家は変わらないままだ。
残された人の間で、腐りきった愛は続く。
嗚呼、姉さん。あなたは今、僕らを見てどう思う?
そちらの世界は、やはり楽なのですか?
「グズッ……ごめんなさいっ、ああ、ごめんなさい……あの子だけは、あの子だけは……っ!」
ドゴッ。バタン。
——嗚呼、けれど。
あなたは、優しいから。
優しいあなたの事だから、僕らを見捨てることも出来ないんだろう。
今も、僕らを見て苦しんでいるんでしょう?
『なんて悲しい世界なんだろう』って。
「テメェ……このクソ女ァッ!!!!!」
ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。
——やっぱり、この世界を変えられるのは、僕しか居ないの?
この場所に、救済を授けるべきなの?
「……………………。」
「ッ……まずい……やりすぎたか……?……いや、悪いのはコイツだ、クソ女だ。コイツが、コイツが、コイツのせいで、コイツが……ッ!」
ボキッ。ボキッ。ボキッ。
——嗚呼、そうなんだね。
姉さんが、僕が唯一心から信頼できたあなたが遺した言葉の通りにするよ。
嗚呼、本当に姉さんの言う通りだ。
あの人が……愛そのものなんだね。
自信は無いけど……この世界にヒビを入れる事なら……。
パリンッ!
——僕は愛に花瓶を振り下ろした。
——姉さん。
僕は。この世界は。
もう、手遅れなのかも知れないね。
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