7章「交わる線」
第33話「先輩は先輩ですよ」
我らが一条製菓は現代社会ではありがたい週休二日制を採用している。
そのためミコや志穂たちとの買い物で一日が潰れたとはいえ、俺にはもう一日だけ休める余裕があった。
「ありがとう、世界よ」
なにもしないでいられる時間がどれだけ貴重なことか。厳しくありながらも、時には安らぎを与えてくれる世界には感謝の念が尽きない。
「……布団に包まりながら何言ってるんですか」
あとは俺が寝ている布団の周りでどすどすと足音をたてるこいつさえいなければ。自覚した途端、急に虚しい気持ちに駆られた。
「もうお昼なんですよ? いい加減にお布団から出てくださいって晃仁様」
「うるせえ、週に一度はこうして寝てないと身体がもたねえんだよ。恨むなら人という生き物の無常を恨め」
「晃仁様はそんな老けこんでねえです! まだまだ人生これからですよ! ですから寝てないでわたしに構ってください暇です暇、暇、暇ー!」
「いや、お前の使命の話じゃないんかい……」
結局この日は一歩も外から出ることなく終わった。流石にミコがうるさかったので、途中からはタブレットを与えて黙らせた。今度からは家で楽しめる娯楽ももっと用意するべきなのだろうか。
「まあ、それもまた来週だな。気付けばもう新しい週になってやがる」
昨日と同じ天井を見上げ独り言つ。社会人の嫌な習性か、それとも在りし
休日を謳歌しすぎたせいか。今朝は随分と早い時間に起きてしまった。
隣で届いたばかりの布団に潜り込んでいるミコは、昨夜とはかけ離れた寝相ではあるが未だ健やかに寝息をたてていた。
「……圧巻だな」
布団で眠るという文化は本来アニマにはないはずのものであるのに。こうしてみると自然とこの場に馴染んでしまっている。
まるで家族のようだ。妹か、はたまた子供がいる日常というのはこうした光景の連続であるのかもしれない。
「バカなことだ」
寝ぼけたままでいるのはよくない。俺はミコを起こさないようにそっと布団から起き上がるといそいそと朝の支度を進めた。
顔を洗ってシャワーを浴びて、着替えを済ませて二人分の朝食を完成させた頃になってようやく、ミコは欠伸を漏らしながら起床した。
「はあぁ……うーん。あれ、晃仁様は……?」
「こっちだ、寝坊助」
布団の上に割座して寝ぼけ眼を行ったり来たり。絵に描いたような起き抜けの姿に苦笑交じりで呼びかけてやる。
「……ああ! 晃仁様、おはようございます! もうお着替えも済ませてるだなんて、今日はきびきびしていますねっ。それに、なんだかいい匂いも……」
「楽しい休みは終わったんだよ。そして労働の日々がまたやってくるんだ。お前も、また付いてくるつもりならとっとと準備しておくんだな」
昨日余ったカレーにかけていた火を止めて告げるが、返事が返ってこない。不思議に思って台所から目を離すと、すっかり眠気が去った顔のミコと視線が重なった。
「なに驚いてるんだよ」
「……いえ、まさか晃仁様の方から私を求めてきてくれるとは思わなくて!」
「求めてはねえ、ただ確認しただけだろうが」
「またまたぁ、そんなこと言っちゃって。大丈夫ですよ、晃仁様の心はきちんと分かっていますからねっ」
そこまで調子づくなら置いて行ってやろうかとも思ったが。ミコを連れて行ったあの日の出来事の数々を思うと、冗談で言うにも憚られた。
こいつは確かに煩わしい面もあるが、それでもあの日俺を導き、心にある淀みを多少なりとも取り払ってくれたのだから。
それから他愛のないやり取りをいくつか交わし、俺たちはそれがお約束だというように揃ってアパートを後にした。
「おはようございます、九原先輩!」
「……ああ、おはよう」
会社のデスクにつくなり飛んできた高い声が現実感を連れてくる。のんびりと気が抜ける日常から、緊張が増す仕事の時間へ。
「八重樫……前から思ってたんだが、その先輩ってのはなんだ?」
声の主、八重樫玲奈と俺の席は向かい合わせとなっている。まだ始業まで時間があるのなら雑談でもどうかと思ってのことだったのだが。
(いくら玲奈様だからって、もう少し他に話題はなかったんですか?)
このようにミコに苦言を呈される始末。自分でも思うところはあったが、当の八重樫は気にした素振りも見せず、パソコンの向こうからちらりと顔を覗かせた。
「なんだと申されましても……ただの呼び名ですよ?」
「もっと他にあるだろ。大体の場合さん付けで呼ぶし、お前だって他の社員はそう呼んでいるだろ?」
「ああ……」
納得した表情を浮かべる八重樫はそこで席を立った。そうしてわざわざ俺の傍にまで寄ってくると、招き猫のような仕草で手招きした。
「なんだよ」
「耳を貸してください。少し言いにくいんです」
どんな理由かと思わざるを得ないが、真剣めいた表情が俺の興味を掴んで離さなかった。
無言で促すと、八重樫は華奢で背の低いその身体を折って俺の耳元へ顔を近づけていき。
「……ふううぅぅ」
「……っっ!!」
なんと息を吹きかけてきた。
「お、お前……くっ……」
口にしかけた言葉を飲み込む。
素直に従ってやったのにもかかわらずこちらを揶揄う八重樫に、一発懲戒モノの雑言を吐き出しそうになってしまった。
「あははっ! 冗談です、先輩」
「そうか、冗談か。はは、はははは」
(我慢ですよ、晃仁様)
俺は上手く笑えているだろうか。顔が引き攣ってはいないだろうか。こちらはそんな自問で心を満たさなければ自我を保てないというのに、八重樫は反対に楽しそうな様子。
「ふふ、本当にごめんなさい。ただ、先輩は先輩ですよ。それかお師匠様? 色々とお世話になっておりますので」
「……それはあれか? 営業とか仕事の話で?」
「はい! なのにただ苗字にさん付けなんて寂しいことです。つまらない慣習より自分の真心を込めることの方が大事です!」
「へぇ……」
人に対して出来る限り親しみを持って接したいということなのだろうか。これまでの行動を一つ一つ整理しながら思う。
「いいじゃないですか、他の誰にも迷惑はかけていませんし。まあ先輩がどうしても恥ずかしいというのであれば、致し方なく変えさせて――」
「別にいいって」
「……はい?」
「お前も言ってただろ、つまらない慣習うんぬんって。実際その通りだと思ってな。見直した、だから呼び名の話はこれで終いってことで」
今となってはこいつの行動にも理解が示せるようになってきた。適切な振る舞いだとは思わないが、少なくとも以前のように苛立ったりはしない。
普通から外れていることなんて、俺からすれば常のこと。
だから八重樫のことも寛大に受け入れようと流したはずなのだが、当の本人は何やら物思いに耽っている面持ちだった。
「どうした?」
「いえ……ただ先週も言ったように、以前とは違って見えますね」
「……それって俺の態度とか性格とかがか?」
「そうです……うーん、いったい私の知らない間になにが……」
「何言ってるんだ八重樫?」
「ひゃい!?」
座ったまま八重樫見上げ、その顔を覗き込む。
「いや、途中から声が小さくて聞き返しただけなんだが」
「別に大したことを言ったわけではないので聞き逃してもらって結構ですから! それよりほら! そろそろ始業時間ですよ!」
強引に話を打ち切られてしまう。何を切羽詰まっているのかと思ったが、デスク上の時計は確かに始業開始の到来を示していた。
追及をやめて席を立ち、いつものように朝礼に参加する。
(今日はこれといった情報はなかったな)
つつがなく本格的な業務を開始する段となる。予定に変更がなければ今日も八重樫の教育を担当することになるだろう。
そう思って向かいに座って準備を始めている彼女に声をかけようとしたその時。
「すまない、九原君。ちょっといいかな」
弾むような感触が肩に乗って、低く穏やかな声が座る頭上にかけられた。もはや顔を見なくても分かる、課長からの呼び出しだ。
「ああ、そのままで結構だよ」
振り返り立ち上がろうとする俺に、三浦課長が微笑む。いつも優しげな彼ではあるが、今日はなおのこと、気色の悪いほどに穏やかだった。
(そこまで言わなくてもいいじゃないですか)
(……それだけ嫌な予感がするんだよ)
思念を介した俺たち二人の会話は知る由もなく、三浦課長は言い放つ。
「君たち二人には近々出張に行ってもらいたいんだよ。麗しの京都へ、一週間ほどね」
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