第24話「キミを変えたというその出会いを、どうか大切に」

 社長室の入り口を隔てる重厚な内扉を叩くと、溌溂はつらつとした声が返ってくる。背筋を伸ばしりんとした声を心掛けて入室すると、くすんだ金髪に高級感が漂う背広に身を包んだ男が柔和な笑みで迎えた。


「サリュー、ムシュー九原。終業間際だというのに呼びたてて申し訳ない」


「いえ。社長のご命令であれば、社員である私は喜んで従うまでです」


「はっはっは、心にもないことを」


 砕けた話しぶり、気持ちのいい笑顔が売りの一条社長だが、時おりこうして鋭い毒を吐いてくるのが難点だ。

 ある程度付き合いが長い間柄に特有のやり辛さをひしひしと感じつつ、勧められたカウチに腰掛ける。


「まず話というのはワタシの不肖ふしょうの娘のことさ」


 随分と耳の早いことだ。茶化す気持ちが沸々と湧いてきたが、俺はそれをおくびにも出さなかった。

 長机を挟んだ先に座る一条製菓代表、一条蓮太郎いちじょうれんたろうはとても人好きのする性格だが、多忙さゆえ無意味な雑談を嫌う傾向にある。

 俺が今よりも荒んでいた頃は、たびたび円滑なコミュニケーションを妨げ、小言を言われたものだ。

 今となってはそんなミスはしない、そう思っていたはずなのだが。ふと追憶の蓮太郎といま目の前に座る彼が重なる。

 ひそめられた眉、隙のない視線。まさか八重樫の言っていた通り俺はこの後叱られてしまうのだろうかとさえ勘ぐってしまう。

 身構える俺に、何を思ったのか蓮太郎は可笑しそうに相好を崩した。


「なにを怯えているのだい、ムシュー。ワタシはただ礼を言いたかっただけだよ。またしても彩萌が世話をかけたようだ」


「……そうでしたか。いえ、お気になさらず。たまたま近くにいただけですし、それほど面倒だとも思っていませんので」


「ほう……?」


 再び蓮太郎の目が怪しく細められる。


「いつもの世辞とは違って今回は心からの言葉であるらしい。いったい何がキミを変えたのかな」


「…………」


「ふむ、その辟易へきえきとした表情……どうやら自覚はしているようだね」


「……はあ」


 盛大な溜息を一つ。これだから今となってもこの男と会話をするのには慣れない。

 彼の目が、俺が意図的に背の後ろへ隠していた右腕をしっかと捉えているのを見て、今回もまた帰りが遅くなるであろうことを悟った。


「詮索をするのはやめていただけると。もうこれ以上話すこともないでしょう」


「ノン、勘違いをしないでおくれ。無闇に暴こうとしているつもりではないんだ。ただキミの変化が嬉しく、できればワタシもその原因を知り、それに助力を添えられればと思ってね」


「……本当に、昔から物好きな人だ。俺の後見役を申し出たことといい、こうしてわざわざ俺に構うことといい」


「言っただろう、キミのお父上とは友人関係にあったと。その忘れ形見が今も燻ぶっているのだから、心を砕きたくもなるさ」


 蓮太郎は立ち上がり、壁沿いに設えられた棚に手を入れた。コーヒーと紅茶のどちらがいいかと聞かれたので、やや呆れながらも紅茶を所望した。

 彼が準備を整えるのを手伝うことはしない。どうせ窘められるのがオチだろうから。

 それより、俺は束の間に生まれた隙に乗じて、隠していた右手の指輪に触れてミコに語りかけた。


(晃仁様、これは……? それに社長様とは……)


(あー、本当に後回しにしてばっかですまねえが、今はこの社長殿との話を聞いておいてくれ。きっとお前の思うところにも通じているはずだ)


 ここまで見抜かれてしまっては話す以外の選択肢はない。

 ミコにこちらの主張だけを押し付ける形になるのは申し訳ないが、彼女のことがバレると話がややこしくなってしまうのは避けたかった。

 そうして雑なやり取りを一方的に終えて視線を戻すと、蓮太郎が片手に紅茶をもう片方にコーヒーを淹れたカップを手にしてこちらを覗き込んでいた。


「その指輪は正仁まさひとが購入したものだったか……まったく懐かしいよ。彼に贈る指輪の相談をされたのが昨日のことのようだ」


「そう、だったんですか」


「しかし、それはキミにとって最も憎むべきモノだったはず。違うかい?」


(え……)


 何かに強制されて吐き出されたような、それでいて吹けば飛ぶほど弱々しい、ミコの零れるような呆然が脳にこびりついて離れない。


「これを見ると嫌な顔を思い出すのは確かですよ」


 心の中にある閉ざされた鉄扉の前に、俺は立っていた。


「愛だとか、絆だとか、そんなものにしがみついても、待っているのは破滅だけだ。特に恋情なんてのは笑えるくらいに脆い。熱に浮かされて好き放題やる方はそりゃあ楽だろうが、捨てられた奴には冷たくて惨めな後悔のみが残される」


「キミが女性を心の底では忌み嫌っていて、恐怖しているのはワタシもよく知っているし、仕方のないことだと思っているよ」


 蓮太郎にしては珍しい、弱ったような、困ったような笑顔は、寄り添う優しさと立ち直らせたい厳しさを内包していて。

 言葉を区切って机に置かれた紅茶を一口含む。気を安らげる仄かな苦みを舌いっぱいに味わう。


「でも、それは少し、違っていたんです」


 沈んだ空気を震わす確かな声音に、コーヒーに口付けた蓮太郎の眉が上がる。


「当たり前ですけど、世の中あいつみたいな女性はそう多くない。多少性格に難がある奴でも、同じメシ食ってみれば案外気が許せることもあるし。何がいいのか分かりませんけど、冴えない野郎に甲斐甲斐しく構ってくる純粋な奴もいる」


 心の鉄扉てっぴに力込めれば、開いたそばから白くまばゆい光が漏れ出ているようだった。


「自分の願いを信じて、それが叶うように努力している奴を見たときには、このままじゃダメだと叱られている気分になった。そして……俺自身の願いもまた、あの頃から変わらず俺の中にあるって、その思いが本物だって、証明してくれる奴もいた」


(晃仁様……)


 確かな意思を以て開け放たれた扉の中にあったのは、かつての輝きを失ってなおせることがなかった宝石だった。


「ウィ、よく分かったよムシュー九原。ワタシは常々、人が最もその性質を変容させるのは未知の刺激に触れた時だと思っていたが……。なるほどそれは間違ってなかったみたいだね」


「……そうですね。フランスかぶれのあなたが言うと、より説得力に満ちている気がします」


「おっと! 営業職に就いてからキミも中々鋭い物言いをするようになったようだ。ふふ、まあいいさ。とにかくこの上ワタシから言うことがあるとすれば。キミを変えたというその出会いを、どうか大切に」


 力の籠った視線を向けてくる蓮太郎に、俺も頷きを返す。

 彼はこの場を二人きりの状況だと思っているからこそ、俺の内情を語るに憚らなかった。

 実際はミコの前でこの話をするのは少し気が引けたが、俺にとってはこれくらいの荒療治がちょうどよかったのかもしれない。

 俺の右手で色鮮やかに光る指輪を見れば、素直にそう思えたのだった。


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