御魂の森
長峰永地
第1話・逃げる者
月の光も通らない鬱蒼とした森の中。
一人の男が木の根もとに座り込み、肩で息をしていた。
その男、
(自分の血を見るなんて、久しぶりだな)
弥生は自嘲気味に唇を歪める。わき腹から左手を外し、顔に近づける。深く息を吸い込むと、嗅ぎ慣れた鉄の匂いが鼻に入る。その匂いのおかげか、視界が晴れていくことを感じていた。
(これから、どうする。あいつは本気で俺を仕留めようとしている。刺客から逃げることができるかと思ってここに逃げたのはよかったが…。こうも深い森とは…)
瞬間、弥生の腹に鈍い痛みが広がる。歯を食いしばり、声を出さずに済んだが怪我の程度は自身が考えているよりも重いことが明確だった。
(逃げる云々の前にそもそも、助かるのか?…まだいのちが惜しいのか、俺は)
いのちなどいつ失っても構わない、そんなことを考えていたにも関わらず助かる道を模索することにほんの少し意外さを感じていた。
(自分が散々やってきたことだろう?いつか巡ってくるとわかっていたじゃないか。まぁ、こんなにも早いとは思っていなかったが)
弥生は、ゆっくりと目を閉じる。ここで眠れば、助かる可能性が低いことなど百も承知だった。だが弥生の胸中は諦めにも似た、いのちを失う覚悟がせり上がっていた。
「生きたい?」
なにか、音が聞こえた。最初はその程度にしか感じなかった。
「生きたい?」
その音は鈴を転がしたようで。
「生きたい?」
心地よく体に響いてくる。
「生きたい?」
その音は自分に問いかけている人の声。
「生きたい?」
だが、反応はおろか、目を開けることも自分には…。
「ねぇ、生きたい?」
突然弥生の腹に衝撃が走る。息を漏らし目を開くと、足袋と草履が弥生の傷口に押し付けられている。
「かはっ…。お前、何を」
それ以上、言葉が出なかった。痛みからではない。
目の前に立っていたのは、白装束に身を包んだ、背中まで垂らした髪の長い女。黒い瞳、筋の通った鼻、薄い唇は桃色をしていた。
女は、ゆっくりと弥生の腹から足を上げ、再び問いかける。
「ねぇ、生きたい?」
その声に、生気は感じられない。それどころか、これほど近い距離にもかかわらず、女からは気配というものが感じられなかった。
弥生は、女を見つめる。より正確に言うならば、見とれていた。女は再び唇を動かす。
「…生きたい?」
その問いかけにはっとする。今まさに死にそうな相手に対して、『生きたい?』
「お前、何を言って…」
弥生が女に話しかけるのと同時に、女は腕を頭の高さまで上げる。ゆったりとした動きに、思わず息を飲む。刹那、重みに任せるように腕が振り下ろされる。どこからか、鈴の音が聞こえた気がした。
「こっちから音がしたぞ!」
突如森の中からの怒声。その声が自分を目指していることは、何も見えなくても分かった。弥生は樹に立てかけてあった刀を手に取り、鞘から抜き放つ。わき腹を抑えながらゆっくりと立ち上がった。
「おい、お前。隠れろ」
女に背を向け、弥生は言い捨てる。この女を置いて逃げることもできたが、樹にしみ込んだ血を見つけられ、どのみち追いつかれるだろう。ならば、返り討ちにした方がまだ身体を休ませることができる。
「何故?」
女は、去る様子もなくその場から動かない。説明している時間はないのに。弥生は苛立ちを覚えながら、また背中越しに言い放つ。
「いいから。ここに居たら、殺されるぞ」
脅したつもりは無い。弥生と一緒にいるものは、即処分される。奴なら間違いなくそう指示しているはずだ。
そんな弥生の緊張を余所に、女は初めて感情らしきものを表す。それは嘲笑だった。
「あぁ、それなら大丈夫。私は…」
同時に、先ほど声を上げた男が弥生を目に捕えた。
「見つけた。貴様一人か」
(一人…?)
弥生の疑問に答えるかのように、女は言葉を続けた。
「見えないから」
「お前何を言って…」
怒声が聞こえて、初めて女に目を向ける。その表情は、弥生に問いかけていた時と変わりなく、さも当然のように弥生に向き合っていた。
一瞬気の緩んだ弥生に、男は刃を飛ばしてくる。首を狙った袈裟切り。弥生は一歩足を引き、体勢を男の反対に逸らし、刃を躱す。躱した動きがそのまま反撃への準備になっていた。刀の柄を握った手は自然と左のわき腹の位置に。そしてそのまま男に向かって切り上げる。袈裟切り後の前傾姿勢だった男は右足を引き、寸でのところで弥生の刃を躱した。と、同時に切っ先を弥生に向け、後ろに体重を乗せる。突きの姿勢。弥生は歩を進め、男から見て左側に体を動かす。この位置では、突きは打てない。
男は歯噛みしながら、正眼に構え直し、目を吊り上げる。
「手負いの身体で、よくもまぁそこまで動けますね。弥生様」
弥生の名前をわざとらしく強調する男。
「俺が動けるんじゃなくて、お前が単純なんだよ。
男…田吾作は、刀の切っ先を震わせる。手の振動がそのまま伝わっているのだ。
人間が手を震わせる理由は二つ。恐怖か、怒りか。田吾作の表情を見るに今回は後者だった。
「剣を教えていただいた人間が未熟者でしてね。どうにも簡単な動きしか身に付かなかったのですよ」
「そうやって人のせいにしているから何も成長できなかったんだろう。その手負いの未熟者すら仕留められない赤ん坊が何を吼える」
その言葉に田吾作は顔を真っ赤にする。刀の震えは大きくなっていた。弥生は相手をしっかりと見ながら、少し安堵する。田吾作は弥生が指導した人間の中でも剣は優秀な部類であるが、如何せん精神面が非常に幼い。少し自尊心を傷つければたちまち頭に血が上る。中途半端な実力が、驕りを生んでいた。そうなれば直情的で単純な男、簡単に始末が着くと確信していた。
弥生の予想通り、田吾作の動きは直線的になっていく。弥生はあえて刀を合わせることなく、すべて躱していく。そうすることで、さらに挑発を重ねることになる。
お前ごときに、刀を使うまでもない。
言葉にすることなく、体現することでますます田吾作の動きの幅は狭まっていった。
田吾作がもう少し弱ければ、あるいはもう少し馬鹿であったなら。こんなにも弥生の考えには乗らなかっただろう。田吾作の切っ先は、毛ほどの差で弥生には届かない。その躱し方も田吾作の苛立ちを募らせる。
実際のところ、弥生には余裕で躱す力が残っていないだけだった。しかし表情は煽るように歯を見せている。そうすることで田吾作の精神面を削る。そして決定的な隙を捕えて一気に仕留める。弥生はその時を待っていた。
問題は弥生自身の身体がいつまで持つか分からないことと、あまり時間をかけてしまうと別の人間に見つかる恐れがあること。表には出さないでいるが、焦れているのは弥生も同じ。早めに決着をつけたいのはむしろ弥生だった。
そう願った瞬間に、田吾作は土から盛り上がった木の根に足を取られる。倒れるほどの隙は見せない。が、身体の重心が乱れればもはやいのち取りだった。踏ん張るために力を入れた左足を内側から払う。自分を支えようとした力がそのまま自分を倒す力に変えられ、田吾作は背中から倒れこむ。急な足払いにもきちんと受け身を取り、すぐに起き上がろうとした田吾作だったが、上体を起こした目の前には、刀の切っ先が突き付けられていた。落とした刀に手を伸ばすも、弥生が蹴り飛ばす。
「最期の稽古だ。じゃあな」
弥生は刀を振り上げ…目を見開き、身を屈める。閃光。炸裂音。弥生の肩から血しぶきが上がる。
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