生きる匂い
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生きる匂い
一面に広がる光景は、まるで金色の野原のようだった。
風がそよぐと、頭を垂れた稲穂がさらさらと揺れる。
秋晴れの下、どこまでも広がる黄金色の風景。
それは、どこか懐かしい風景でもあった。
少年は、その美しくも広大な風景に目を広げる。
背筋が伸びて姿勢が良い。
髪も短めで清潔感がある。
小さな体ながら、どこか堂々とした雰囲気があった。
名前を戸山翔と言った。
まだ小学2年の低学年だ。
田んぼを見れば、すでに祖父がコンバインに乗って刈り取りをしている。翔達親子の姿を、祖父が気がつくとクラクションを鳴らし手を振っている。
「じいちゃーん!」
それを見た翔は両手を広げ、ジャンプをして祖父に合図を送った。
「さあ翔、お手伝いするぞ」
そう言うと父は、翔の手を引いて歩き出す。
祖父母宅で着替えた翔は、父親と共に刈り取りが行われている田んぼへと歩いて行く。
そこは、祖父の家の敷地内にある田んぼであった。今年は特に出来が良く、豊作だと祖父は言っていた。
その米作りを手伝っているのだ。
この辺りでは、農家や稲作を営む人達のことを、昔ながらの言葉で言う。いわゆる農士と言うのだが、祖父やその両親なども農士なのだ。
その言葉の由来は、武士という言葉に由来する。
武士が敵と戦い国を守る、武の
食料自給の大切さを知っていた殿様は、農民達を搾取するものとして虐げることは行わず国の宝として大事にしたそうだ。
だから今でもこの地域の人々は、殿様に忠義を尽くすように敬う気持ちを忘れていない。
食に携わることを使命として、誇りに思っている。
そして、自分達も大切にしていこうという意識を持っている。
特に翔の祖父の家は農士の中でも優秀な者がいて、それが代々続く家系であった。
だからなのか、祖父は偉ぶったりしないし、威張るようなこともない。いつもニコニコとして、優しく穏やかな人だ。
そんな歴史もあり、地域の人々は結束が強い。
翔達は田んぼに着くと、すぐに作業に取り掛かる。
祖父の使うコンバインは旧式だ。刈り取った米を移送するオーガという移送管が無いために、袋詰になっている。
モミ袋が一杯になると、それを田んぼに乗り入れた農業用運搬車に乗せて運び出すのだ。
当然、この袋詰め以降の作業は、人間の手で行わなければならない。その為、翔達家族が手伝いに来ているという訳である。
翔はモミ袋を持ち上げる。
「おりゃ!」
翔は気合を入れて持ち上げられるが、大人の男性でも一人では大変な重さになる。しかも、稲刈りの時期なのでかなりの重労働となる。
しかし、翔はその作業を苦とも思わず楽々とこなしていた。それは体力的な問題ではなく、翔の持つ意識の問題だった。
農士の家系に生まれたからには、当たり前のように手伝うこと。これが普通であり日常なのだ。
だからこそ、翔にとっては特別なことではない。
それに何より、翔は祖父が好きだった。
優しい笑顔を浮かべる祖父だが、時折見せる厳しい顔つきをする時もある。そういう時の祖父は、普段とは違う一面を見せてくれるようで格好良く見えた。
だから翔は、祖父を手伝うことが好きだった。
そして今年も、翔は稲刈りを手伝う。
一日の作業が終わると、翔は疲れ果てて座り込む。
額からは汗が流れ落ちてくる。
その汗を拭いながら、空を見上げた。そこには、綺麗な夕焼けが広がっていた。
◆
一日の疲れを昔ながらの五右衛門風呂で癒やし、風呂から上がった翔を待っていたのは、炊いたばかりのご飯の匂いだった。
新米だからだろうか、炊いた時に釜から出た蒸気そのものに甘い香りを感じることができた。
しっとりと艶やかな炊き上がり。
口に入れる前から分かる美味しさ。
炊き立てのお米とは、こんなにも素晴らしいものだったのかと、今更ながらお米の持つ芳醇な甘みを感じ取ることができる。
人が料理を味わうときは嗅覚が8割、味覚が2割となっている。どんなに味が良くても、「美味しい」や「不味い」と感じる味の情報を決定付けているのは、嗅覚といっても過言ではない。
ご飯の匂い、日本人にとって生きる匂いだった。
「翔や。しっかりお上がり」
優しい祖母は、そう言って茶碗を渡してくれた。
今日の夕食は、秋刀魚の塩焼きとお味噌汁と、それから白菜漬け。
食卓に並ぶおかずは、質素ではあるが、どれも温かく心がホッとする味だ。
「いただきます!」
翔は食への感謝を込め、元気よく挨拶をした。
茶碗に盛られた白飯を口に運ぶ。
すると、ほっぺたが落ちるのではないかと思うほどに柔らかく、それでいてしっかりとした歯ごたえがあった。
噛み締めると、お米本来の甘味が口に広がっていく。
(やっぱり、じいちゃんが作るお米は最高だ)
翔は、そう思いながら箸を進める。
翔にとって食事の時間というのは、一番幸せな時間であった。
◆
食事を終えると、翔は縁側で月明かりを見ながら涼んでいた。
翔の家の周りでは、虫達の鳴き声が聞こえている。
鈴の音のような音を立てながら、秋の夜長を楽しんでいるようだ。そうしている内に、月の夜空の下を散歩したくなった。
そこで翔は立ち上がり、外に出ることにした。
玄関を出ると、外灯が点いているものの、やはり暗い。
それでも翔は怖がることなく、むしろワクワクしながら夜の道を歩いて行く。
田んぼのあぜ道を通り、その先にある土手の上を歩く。
草むらの隙間からバッタが現れ、翔の足元へと跳ねてきた。その瞬間、バッタは一瞬にして姿を消す。まるで忍者のようであった。
そしてまた次の瞬間には、別の所へ姿を現す。
それはまるで、翔のことを誘っているかのようである。
翔は、誘われるがままに歩みを進めていく。
しばらく進むと、そこは田んぼに囲まれた場所に出た。周りには民家は無く、田んぼがあるだけだ。
田んぼでは、カエル達が合唱をしている。
翔は、田んぼの縁に座って耳を傾ける。
すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「こんばんは」
翔は慌てて振り返った。
すると、そこには見慣れない衣装の女性が立っていた。
着物とは違う。
もっと古い時代。
古墳時代の人々か、神話の神様が着るような衣装、
長い黒髪に、大きな瞳が印象的な美女。
その女性は、翔に向かって微笑んだ。
翔は、驚きすぎて言葉が出なかった。
そんな翔を見て、彼女はクスッと笑う。
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
翔は、思わず後ずさりしてしまった。
だが、彼女は気にする様子もない。それどころか、どんどん距離を詰めてくるのだ。
翔は焦って、そのまま後ろ向きに転んでしまった。
痛くて起き上がれないままでいると、彼女が手を差し伸べてくれた。
翔は彼女の顔を見た。
近くで見ると、ますます美しく見える。
こんな人が本当に存在するのかと思える程だ。
翔が呆けたままでいると、彼女は首を傾げた。
「どうしたの? 次の農士さん?」
その言葉で我に返った翔は、慌てて立ち上がった。
すると、彼女はニッコリ笑ってくれた。
「お姉さんは誰ですか?」
翔は、恐る恐る訊ねてみた。
「私? ウカノミタマ」
すると、その人は笑顔のまま答えてくれる。
【
日本神話に登場する女神。
名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。
また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。現在は穀物の神としてだけでなく、農業の神、商工業の神としても信仰される。
彼女は、刈り終わった田から落穂を手に乗せる。
そこには黄金の実がなっている。
翔は、それを見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「良い実りね」
そう言って微笑む彼女の姿は、とても美しかった。
「はい。家のお祖父ちゃんと、お婆ちゃんが頑張ってくれました!」
翔は嬉しくなり、元気よく返事をした。
すると、彼女は目を細めながら翔を見る。
それから、何かを思い出すかのように口を開いた。
「天照大神は、孫の
彼女は翔を見やる。
「神話では日本は瑞々しい稲穂が豊かに実る国という意味で、なんて呼ばれているか知ってる?」
訊かれて翔は分からなかった。
彼女は落穂を、翔に手渡す。
「
そう言うと、彼女は微笑んだ。
その表情からは、どこか寂しさを感じた。
翔は、なんと言っていいか分からない。
それでも何か言わなければと思った時だった。
突然、突風が吹いた。
翔は驚いて目を閉じる。
次に開けた時には、もう彼女の姿は無かった。
夢でも見ていたのではないかと思うほどに……。
しかし、手元には金色の実が残っていた。
それは、先程の光景が現実であったことを物語っている。
そして、翔は決意する。
もっと勉強をして、立派な大人になろうと。
そして、将来は祖父の手伝いをするのだ。
それが自分の使命なのだと感じた。
翔は、その日見たことは誰にも話さなかった。自分だけの秘密にしておきたかったからだ。
2日かけて稲刈りが終わり、翔は自宅に帰る。
田んぼから見える空は高く澄み渡り、深まる秋の気配が感じられた。
翔は、車の後部座席から、ふと振り返ってみる。
そこには、まだ狩り終わっていない稲が風に揺れていた。
そして、その向こう側には、祖父母の家が見える。
ふとウカノミタマが寂しい表情をしていたのを思い出す。なぜ彼女が、そんな顔をしたのか翔には分からなかったが、後に社会の授業で知ることになる。
それは、日本の食料自給率の低さだ。
日本の食料自給率は年々、低下の一途を辿り、2020年度の食料自給率はついに統計開始以降、最低を記録した。
2022年、ウクライナ危機が勃発し、小麦をはじめとする穀物価格が高騰が増幅され、最近、顕著になってきた食料やその生産資材の調達への不安に拍車をかけている。
ロシアとウクライナで世界の小麦輸出の3割を占める。日本は米国、カナダ、オーストラリアから買っているが、代替国に需要が集中して争奪戦は激化している。
「食料を自給できない人たちは奴隷である」とホセ・マルティ(キューバの著作家・革命家)は述べ、詩人・彫刻家の高村光太郎は「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」と言った。
最低を更新した日本は独立国と言えるのかが今こそ問われている。不測の事態に国民を守れるかどうかが独立国の最低条件だからだ。
翔は運転中の両親に言う。
「父ちゃん、母ちゃん。来年も、再来年も、ずーっと! 稲を育てようね!!」
翔の言葉に両親は笑った。
だが、すぐに真面目な顔になる。
それは、翔も同じだ。
母親が真剣な口調で言った。
「そうね。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが安心できるように、しっかり頑張ろうね。家は農士なんだから」
その言葉に翔は、力強くうなずく。
その手には、あの時、ウカノミタマから手渡された落穂が握られていた。
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