第36話 こっそり

 海までは電車を乗り継いで一時間半ほどかかる。幸い、まずは最初の電車では四人分の席を確保できた。

 席は俺と芽吹が隣同士で、その前列に歌弥姉妹。座席は進行方向を向いているので、俺から歌弥姉妹の顔は見えない。

 この状況だと必然的に隣同士で会話をするわけで、歌弥姉妹も二人でおしゃべり。


「お姉ちゃん、なんでこの季節に海に行くの? 海なら夏じゃない?」

「春の海には春の海の良さがあるんだよー。だいたい、夏に行ったって人がわんさかいるばっかりで落ち着かないじゃんかー。日差しもきっついしー」

「ふぅん……。まぁ、そういう見方もあるか……」

「それにしても、ななはどうして急にあたしに会いに来たのー? あたしが大学辞めてから、生存確認の電話くらいしかしてこなかったじゃん」

「それは……私だって、お姉ちゃんが急に大学辞めたこと、ちょっと怒ってたし……。去年は受験生だったし……。あれからしばらく経って、気持ちも落ち着いて、わたしももう大学生になったから、ゆっくり話してみようと思ったの」

「そっかそっか。大学って地元だったよねー? 家から通ってるのー?」

「私は家から通ってる。でも、慣れてきたら一人暮らしもしたいかな」

「なるほどねー。一人暮らしは色々と大変だけど楽しいから、やってみるといいよー。いつでも彼氏連れ込めるしー」

「そういう目的で一人暮らししたいわけじゃないから! っていうか、いい加減お父さんとお母さんともちゃんと話してみたら!? 専業作家になってもう一年半でしょ? お姉ちゃんが大学辞めたときには確かに怒ってた。『専業作家なんてとてもやっていけるもんじゃない、考え直せ』って。

 けど、今はそれなりの位置にいるんでしょ? 『自分はこんだけやれてる、だから大丈夫』とか言って、お父さんたちを見返してやればいいじゃん!」

「いやー、そうしたいところも山々なんだけど、仕事が忙しくてなかなか会いにいけないんだよー」

「海に行く暇はあるんじゃん! たまには帰ってきなよ!」


 歌弥姉妹のおしゃべりが長く続き、俺と芽吹が入る余裕はなさそう。歌弥ななとしては俺の人柄を見るつもりもあるらしいが、どちらかというと姉との交流が優先らしい。

 結果、俺と芽吹が話をすることに。


「……歌弥さんって、家族と微妙に上手くいってなかったんだね」


 歌弥さんの家庭事情を特に聞いていなかった芽吹が、意外そうに言った。


「ああ、うん。大学二年生の夏頃に大学中退して、それから両親とは仲が悪いって」

「ちょっと意外。歌弥さんなら、家族とも円滑にやってるような気がしてた」

「しっかりしてるところはしっかりしてるけど、ところどころ抜けてるからな」

「まぁね。どこから見ても完璧な人なんていないよね」

「うん。ちなみに、髪をピンクに染めた理由は聞いた?」

「え? 聞いてない。単に好きな色だから、じゃないの?」

「それもあるみたい。ただ、大学を辞めて、作家として生きていくって決めたときの、決意表明みたいなものなんだって。何かの決意を込めて、タトゥーをいれる人もいるだろ? それと似た感覚だってさ」

「……そっか。それにしても、ピンクはすごいね。なかなかいない」

「今までの自分から、なるべくかけ離れた印象にしたかったらしい。色々候補があったなかで、ピンクアッシュにした」

「……歌弥さんでも、そういう気持ちの切り替えが必要な面もあるんだ。決して強いばかりの人じゃないんだね」

「そうみたいだ」

「……しっかり支えてあげなよ。少なくとも今、一番近くで歌弥さんを支えられるのは、星香君だけなんだから」

「うん。そうする」


 歌弥さんには、何があっても動じないような、誰の助けも必要としないような、強い印象もなくはない。俺を傍に置いておくのも、ちょっとした気まぐれ程度に思うこともある。

 でも、きっとそうじゃない。欠けているものがあるから、俺を傍に置いている。

 

「ところでさ、星香君」

「うん?」


 芽吹が俺の耳に口を寄せ、俺にだけ聞こえる声で囁く。


「星香君がわたしともキスする関係だってこと、ななちゃんには言わない方がいいいよね?」

「……まぁ、たぶん」

「歌弥さんも、それは言わなかったもんね。今はそれでいいんだ。わたしとしても、この関係を周りに知られて、変な目で見られるのは困るし」

「……うん」

「ただ、わたし、大学では学校外に彼氏がいるってことにしてるの。わたしたち、微妙な関係だけど、わたしは星香君のこと、好きだし。

 わたし、この関係の中でなるべく都合がいい感じで振る舞うから……星香君も、必要に応じてわたしの彼氏役として協力してほしいな」

「……それは、うん。いいよ」

「ありがとう。助かる」


 芽吹が離れる。耳に残る囁きが妙に気持ちを高ぶらせた。

 こういうとき、自分はしょうもない男だと感じる。芽吹と必要以上に仲良くなるつもりはないはずなのに、簡単に気持ちが持っていかれる。


「あ、それとさ、星香君」

「うん……っ」


 なにげなく芽吹の方を向いた瞬間、キスをされた。唇を重ねるだけじゃなく、数秒だけど、舌が俺の中に入ってきた。

 今日、俺と芽吹がこういう関係だというのは秘密。それなら、あえてリスクを犯してキスなんてしなくていいはず。

 だというのに、離れた芽吹は悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「やっちゃいけないことって、やりたくなっちゃうよね?」


 たぶん、おしゃべりに夢中な歌弥ななには、その声は届いていない。


「……あのなぁ」


 気になって、周囲の様子をうかがってしまう。目撃者はいただろうが、俺たちの関係性を知らない人たちからは、単にバカなカップルが電車内でいちゃついているという風に見えただろう。


「星香君も、もう少し遊んでみたら? わたしたち、多少踏み外したところで問題ないでしょ? 歌弥さんも公認なんだし」

「……そうだが」

「歌弥さんが変えたいと思ってるの、星香君のそういうところだよ? わたしも人のこと言えないけど、ちょうどいい踏み外し方がわかってない」

「……だな」

「歌弥さんにもっと好きになってもらいたいんでしょ? だったら、ね?」

「……そうだな」


 清く正しく生きているだけで、歌弥さんに本気で俺を好きになってもらうことはできない。たぶん。

 やっちゃいけないことも、程度をわきまえつつ、やっちゃうくらいじゃないと。

 ややこしい人だ。

 ……だからこそ、好きなんだ。たぶん。

 歌弥姉妹のおしゃべりはまだ続いている。特に歌弥ななは、全くこちらに関心を向けていない。

 すっと、芽吹の方に体を寄せて。

 その意図を、芽吹も瞬時に察して、こちらに寄ってくる。

 歌弥姉妹のおしゃべりはとまらない。

 だから、大丈夫。

 一呼吸だけ置いて、そっと右を向き……芽吹とキスをした。

 ほんの一秒程度。それ以上は、無理だ。

 唇を離したとき、芽吹は愉快そうに微笑んでいた。

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