第9話 寝起き

 ネカフェで一晩過ごすのは初めてだが、ネカフェ利用自体は初めてではない。周囲に人の気配があるなかで眠るのも特に問題ないと思っていた。

 しかし、隣に綺麗なお姉さんが眠っている状況だと、妙に頭が冴えてしまった。さらに、そのお姉さんが意識的にか無意識的にか、俺の腕にしがみついてくるとなると、普通に眠れるわけもなかった。

 女性の唇の感触を知った。

 そして、女性の胸部の感触も、ほんのりと知ることになった。

 そのものの感触ではなく、下着の感触だというのはわかっている。女性の下着って意外と堅いんだな……という感想を持ったという方が正しい。

 その感触であっても、やはり変な覚醒を強いられたのは事実で、歌弥さんのは大きめだから、余計に気になってしまった。


「……無防備だなぁ」


 ここはネカフェで、隣には今日会ったばかりの見知らぬ男。

 そんな環境でも、歌弥さんは無防備な寝顔をさらしている。二つ違いとはいえ、大人の女性だとこんなものなのだろうか? そうではないと思う。歌弥さんはかなり特殊な部類の大人だ。

 歌弥さんが無防備だからって、何か悪いことをするつもりはない。するつもりはないが……寝たふりでもして、偶然体の一部に触れてしまった、みたいなことをしてしまいたい誘惑には駆られた。

 ここがネカフェで良かった。完全な密室だったら、何をしでかしていたかわからない。

 悶々としながら、浅い眠りを繰り返すうちに数時間が経ち。

 午前四時前に、俺はスマホの目覚まし機能で目を覚ます。昨夜入ったのが午後八時なので、四時までに出ることになっていた。延長利用は考えていない。

 半端な睡眠で、眠いような、そうでもないような、変な状態。


「歌弥さん、もう出ますよ」

「んへら?」

「……涎、垂れてますよ」


 横向きに寝ていた歌弥さん。その唇の端に涎が垂れている。女性はこういうのを他人に見られたくないのではなかろうか? 何故、歌弥さんは平然と目を覚まし、えへへ、と涎を拭うのか。


「おはよー。ちゃんと眠れたー?」

「……ええ、まぁ」

「あー、嘘吐いてる顔してるー。ネカフェじゃ落ち着いて眠れなかったー?」

「……まぁ」


 落ち着いて眠れなかったのは、歌弥さんが隣にいたからだけど。


「あー、落ち着いて眠れなかったのは、あたしが隣にいたからだよって顔してるー」

「……勝手に人の心を読まないでください」

「秋夜君はやっぱり男の子だねー」


 歌弥さんがのそのそと起きあがる。くわぁ、とのんびりしたあくびをして、もう一度ぱたりと寝そべる。


「歌弥さん、もう出る時間ですよ」

「えんちょー、あと四時間ー」

「……延長料金、安くないですよ」

「うえー、上手く値切っといてー」

「現代社会においてそれは無理です」

「なんかクレームでっち上げればどうにかなるってー」

「冗談だとはわかっていますが、それは人としてアウトです」

「君はお堅いなぁ」

「これは日本人が最低限わきまえるべき常識です」

「おんぶしてー」

「……あんまりだらだらしてると、本当におんぶして連れて行きますよ」

「おはようのキッスしてー」


 ……何を言っているのだ、この人は。


「バカなこと言ってないで、早く行きますよ」

「やーだー。キスしてくれなきゃ動けなーい」


 本気で言っているのか? 何を考えているのか、俺の理解を超えすぎている。


「……わかりました」

 

 了承すると、歌弥さんがにへらとだらしなく笑う。


「ん」


 仰向けになり、目を閉じる歌弥さん。

 これは、どこまでのキスを求められているのだろうか? 軽く唇を触れ合わせるだけでいいんだよな?


「……もう、何を考えているんだか」


 軽く周囲の確認をして、ぱっと歌弥さんと唇を重ねる。三回目のキス。まだ全然慣れない。触れあわせただけで全身が熱を持った。


「気持ちがこもってなーい」

「……もう行きますよ。起きてください」

「ケチー」

「俺はケチなんです」


 ぐだぐだしたやり取りを終えて、無理矢理歌弥さんを起こす。この際、肩や背中に触れてしまったのは、致し方ないことだ。

 歌弥さんを引きずるようにして個室を後にし、受付で精算を済ませた。

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