アニオタ、反社の信心深さに驚く

 停学期間も、あっという間に一週間が経過した。


 朝九時から『十喜とき珠神社たまじんじゃ』で始める頼子よりこへの稽古も、折り返し地点であった。


 正直、すぐ飽きるかと思っていた。何しろ練習内容が『馬歩まほ』と『弓歩きゅうほ』だけなのだ。拳法らしい動きを全くやっていない。


 しかし頼子は思いのほか、熱心に学んでいた。わからないことは積極的に尋ねてきて、時々常春とこはるをびっくりさせるような的を射た質問も少なくなかった。


 いつの間にか、彼女へ武術を仕込むことが、最近の楽しみになりつつあった。


 停学期間の二週間の半分が経過し、なおかつ常春のそういう「楽しみ」もあり、今日からは練習内容を少し変えることにした。


「——今日は『弾腿だんたい』をやりたいと思います」


 常春のその言葉に、頼子は小首をかしげる。「『弾腿』?」


回族かいぞく……つまり中国人ムスリムが作った拳法のことさ。この拳法は現存している多くの中国北方武術に多大な影響を与えたもので、なおかつ多くの門派もんぱで基礎練功法として採用している、素晴らしい拳法なんだ」


「なんで?」


「『弾腿』は、北方武術の歩形の変化とか、そのリズムとか、そういうものを学ぶのに一番適しているからだよ。これをしっかり学べば、その人の基礎は強固なものになり、どんな拳法を学んでもうまくいくようになる。……口で言うより、実際にやってみた方が早いか」


 常春は両脇腹に拳を引いたのを始まりに、『弾腿』をやってみせた。


 首だけを動かして真右を向くと、右拳を視線の先へと突き出す。

 それから今度は真左へと向き、左足で踏み込んで『弓歩』となる。それに合わせて左拳を視線の先へ突き出す。

 そのまま足を動かさず、風車のごとく両腕を縦に回し、左右の拳の位置を交換。視線の先に右拳が来る。

 その右拳を真下へ降ろして金的を隠しつつ、重心の乗っていない左足の爪先をバッ! と鋭く蹴り出した。

 蹴り出した左足へ重心を移して『弓歩』。それと同時に右拳を突き出す。


 ——それからまた両腕を風車みたいに回し、左右の拳の位置を前後入れ替える。それから金的を守って右足で蹴りを放ち、踏み込んで正拳。また両腕を風車みたいに回し……


 同じ技を何度も繰り返しながら一歩一歩前へ進んでいき、やがて賽銭箱の位置へと達した。


 常春はそこで技の無限ループをやめ、頼子のところへと歩み寄る。


「今のが『弾腿』の第一路の套路かた。全部で第十路まであるんだ」

 

「……ウチ、そんな十個も一気に覚えられる自信無い」


「もちろん最初から全部教えたりはしないさ。しばらくは一路から三路までを集中的に訓練するから。それに、言ったでしょ? 北方武術は『馬歩』と『弓歩』をよく使うって。この『弾腿』も例外じゃないんだ。頼子の『馬歩』『弓歩』は正確にできてるから、『弾腿』の理解だって早いはずだよ。さ、始めようか」


 頼子は自信なさげに頷いた。


 常春が早速弾腿の第一路の指導に入った。


 套路かたを構成する動作の一つ一つを細かく、正確に教え、なおかつ動作の「使い方」も教える……正しい形と、正しい使い方のイメージを同時に身につけることこそが、功夫コンフーの正しい蓄積に繋がる。套路かたの中に、無駄な動作など一つも存在しない。

 

 例えば、蹴りの前に行う、両拳の縦回転。あれは攻撃であり、円運動を用いた防御の役割も持つ。子供が駄々をこねているような動きで見栄えは悪いが、極めて使い勝手の良い動きだ。実戦に強い拳法が多数存在する、中国山東省さんとうしょう起源の武術によくある動きだ。弾腿も蟷螂拳とうろうけんも山東省発祥。


 初めてやる動きゆえに、頼子の動作はたどたどしい感じがした。しかし、それでも熱心に覚えようという意欲がよく分かった。


 それに、第一路の中に含まれる『弓歩』は、まるで雛形のごとく正しい形で出来ていた。一週間の稽古で培った功夫が今、次の段階の稽古で活きているのである。まさにしっかり作った基礎の上に建物を建てていくがごとく。


 この娘は、きっとすぐに上達するだろう——常春は確信めいた予想を感じていた。


 そうしてしばらく練習していた時だった。


 ——気配。


 常春はすすけた鳥居へ振り返る。


「……あなたは、安西蓮あんざいれん


 蓮だった。さらにもう一人、神野かんのという男も一緒。


 一週間前に起こったコトがコトなので、常春は否応なしに警戒心を抱く。


「おぉ、伊勢志摩常春じゃねぇかよ! こんなところで会うなんて奇遇だなぁオイ。何してんだよ?」

 

 少し驚いた様子の蓮がそう問う。……また自分を勧誘しに来た、というわけではなさそうだ。本当に偶然出くわしたのだろう。


「……この娘に稽古をつけていたところだ」


 かといって警戒心を緩める気にはなれないが。


 頼子も同じだったようだ。周囲に目もくれず、一心不乱に弾腿一路を練習していたのが、蓮の声を耳にした瞬間にピクリと反応。緊張した面持ちで身構えた。


 蓮はそれを見て少し残念そうにため息をつき、しかし境内の奥へと悠々と足を進めた。神野もそれに付き従う。


 賽銭箱の前にたどり着くと、ポケットから一万円札を取り出し、賽銭に入れた。


 太っ腹過ぎる賽銭に常春と頼子が絶句していると、蓮は菅野に黒スーツのジャケットを預けて離れさせた。ハスの花柄のワイシャツに黒スラックスという格好となった蓮の左手には、木刀が握られていた。


「——悪いが、使


 その蓮の言葉には、いつものように軽はずみな響きはなく、ひどく神妙だった。


 傍若無人な蓮のイメージとは全く違う今の様子に目をしばたたかせている常春を他所に、蓮は持っていた木刀の柄を両手で握り、上段に構えた。両肘を左右へ楔を打つように張り出した上段の構え……古流剣術の上段構えだった。ああすると振り下ろした時に、刃筋が通るのだ。


 蓮は、縦一閃に振り下ろした。


 そう。


「————っ!!」


 しかし、常春はそんな蓮の一太刀を見た瞬間、とてつもない衝撃を受けた。


 恐ろしいくらいに整った太刀筋だった。


 まるで、物差しで線を引いたような、極限まで細く、鋭く、整然と研ぎ澄まされた力の流れ。それが針穴に糸を通すがごとき正確さで木刀の刃の部分と重なり、音も無くひどく滑らかに振り下ろされた。


 その非常に洗練された縦一閃を、その場で立ち止まったまま、何度も繰り返す。それは「素振り」だった。


 蓮が振ったのは、だ。にもかかわらず、その木刀が通過した位置をたまたま舞っていた一枚の葉が——

 

 まだ武術的な眼力を持たない頼子ですら、その非現実的光景を驚愕の眼差しで見ていた。


 さらに、常春が衝撃を受けたのは、「そこ」だけではなかった。


 この体癖、この気迫、この風格…………があった。


 常春は数多くの武術名手や、歴戦の戦士をたくさん知っている。


 その中で、文句無しに「最強」と呼べる存在が一人いる。


 今の蓮の「振り下ろし」は、その「最強」が持つ技と酷似していた。


 実戦を知り尽くし、自分の学んできた多くの技を「無駄」と捨て去り、やがて残った唯一の技。


 その技の名は——


「——『波羅蜜多はらみた太刀たち』」


 うわごとのように呟かれた常春の一言に、蓮は反応した。素振りをやめて、常春の方を向く。


「……知っているのか、この技を」


 蓮もまた、常春の言動に驚きを少し見せていた。


「知っているも何も…………これは、雲林院うじい先生の技だ」


 雲林院うじい弥彦やひこ


 普通の人は知らないが、古い武術を学ぶ人間は必ずと言って良いほど知っているビッグネーム。


 もはやミサイルや戦闘機が戦場の主役になった今の時代に、なおも武術という白兵戦術の可能性を追求した、武の求道者。


 あらゆる戦場へ傭兵として参加し、殺し、時に殺されかけながら、武というものを追求し続け、やがて「悟り」を得た人物。


 ある者は彼を「気違い」と蔑み、ある者は「現代の武蔵」と敬意を表した。


 戦前生まれで、現在は百歳を超える。しかし今なお若者や数多の猛者を寄せ付けぬほどの、圧倒的な武力を誇る、生ける伝説。


「そりゃ当たり前だな。……俺は、雲林院弥彦の弟子だったからな」


 さらなる驚愕が常春を襲う。


 雲林院弥彦は人里離れた山奥で世捨て人のような暮らしを選ぶくらい、人嫌いだ。特に戦後の日本人のことを「他者に寄りかかるしか能の無い白痴」と唾棄していた。


 そんな彼が、弟子を取る? 何度か師とともに顔を合わせたことがあるが、そんな光景が想像できないほどの偏屈者へんくつものだった。


「まぁ、あのジジイはそれを認めんだろうがな。何しろ俺はだ。……十歳の頃、母親糞女に売られて逃げ続けた果てにジジイのヤサに転がり込み、そこに野良猫よろしく一年間居着いていただけだ。自分の食事の用意は自分でしたし、布団も用意してもらえなかった。文字通り、ただ「一緒に住んでいた」だけだった。……だけど、俺はそれだけで十分だった。ヤクザに腹かっ捌かれるより、野良猫暮らしの方が億倍マシだった。それに——すぐ目の前に、が息してやがったからなぁ」


「……見取り稽古」


 常春は思わず呟く。


 蓮は「そう、それよ」と肯定した。


「ミラーニューロンと呼ばれる、脳の神経細胞がある。これは、他者の動きを見て、それを模倣し、学習する機能を持つ。俺達『戈牙かがもの』には常人より優れた身体機能が備わっているが、そのうちの一つが「異常発達したミラーニューロン」。あらゆる動きを数回見ただけで、その動きに含まれている筋肉や骨格の動きを把握し、自分のモノにすることができる。——そう。俺はジジイから何も教わらなくとも、、ジジイが培った技能の全てを得るに至った。今の『波羅蜜多之太刀』も、ジジイのやっているソレを見て、真似して練習して身につけたものだ。『波羅蜜多之太刀』は技というより、基本技を徹底的な反復練習で極限まで研ぎ澄ました「鍛錬の結晶」。だからジジイは真似できまいとその鍛錬を隠そうともしなかったが、俺があっさり真似してみせた時は流石に泡を食ってやがったよ。いやぁ、あの顔は今でも思い出すだけで笑っちまうね」


 本当に吹き出して笑みを浮かべてから、蓮は続ける。


「——自分が『戈牙者』であると知ったのは、その泡食った時のジジイの口から聞かされた時だ。自分の技と動きを完璧なまでに模倣できてる俺を見たジジイはブチ切れて、とうとう俺を叩き出したよ。だが、俺にとってそれは新たな世界への旅立ちだった。クソみてぇな母親、クソみてぇな学校、クソみてぇな大人……そんなクソ溜めみてぇな世の中から飛翔できる力を、俺は確かに手に入れていたんだからな」


 木刀を握る蓮の手は、よく見るとところどころ角質化していた。何度も剣を握り、振り続けた証。己の武と真摯に向き合ってきた、無言の証明。


 蓮は、小さな拝殿を見上げ、目を細めた。まるで尊いものを眩しがって見るような、そんな目だった。


「週に一回、ここに来て、賽銭入れて、素振りする——それがこの武久路に来て以来、欠かさず行ってきた習慣だ。ここに眠る武神……十喜ときたま朝涼あさすずに祈りを捧げるためにな」


 常春も頼子も、意外という気持ちを抱いた。……神に祈るような人間には見えなかったからだ。


「知ってるか? 十喜珠朝涼もなぁ、『戈牙者』だったんだよ。まぁ、九歳で免許皆伝だもんなぁ。ハッキリ言って異常だぜ。初めてこの話を聞いた時、俺は死ぬほど嬉しかったし感動した。女の人権が犬並みだった時代でこんな生き方ができるとは、ってな。そいつが同じ『戈牙者』であるならなおさらだ。俺が幕末か明治に生まれてたら、朝涼に求婚してたかもな。——だが、武久路ここの連中はどうだ? こんな偉大な存在を忘却の彼方に追いやり、脳みその中には金、金、金。エコノミックアニマルここにありだ。だから……朝涼と同じ『戈牙者』である俺がこの街に君臨して、豚どもにこの偉大な存在を思い出させてやるのよ」


「……それが『唯蓮会ゆいれんかい』を結成した理由か」


「俺の野心のためでもあるがな。汚泥じみた社会に咲く一の華のように君臨してぇっていう、野心のな。——お前も、その一員にならねぇか?」


 さりげなくまた勧誘してきた蓮に、常春は再びかぶりを振った。


「もったいねぇなぁ。せっかくそれだけの力があるっていうのによ」


「僕とあなたじゃ、力に対する見解が違う」


「ハッキリ言い切るねぇ。お前B型かぁ?」


「ABだ。血液型で人格を判断するのは非科学的だと思う」


「かもなぁ。ちなみに俺もABだぜ」


 そこまで言うと、蓮は再び木刀を両手で持ち、上段に構えた。


「……話し過ぎたな。あと十分待っててくれや。見ててくれても構わねぇぜ?」


「いや……おいとまするよ。行こう、頼子。別の場所で再開しよう」


「う、うん」


 頼子を引き連れて、神社から立ち去る常春。


 蓮への警戒心が拭いきれないから。それもある。


 だが、少なくとも先ほどの蓮の言葉と思いは、真摯なものであると分かった。


 だからこそ邪魔はしたくない……同じ武を志す者として、そうも思っていた。



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