初恋だった女性は風俗嬢になっていました。
詩人(ことり)
本文
初恋だった女性は風俗嬢になっていました。私のことなんてまるっきり忘れてしまったと雄弁に語る瞳、それを縁取る人工的に黒々しい長い睫毛とキラキラと光るアイシャドウが黒曜石のようでした。
普段から誠実で実直だと表現されてきた自分の人間性を貫くのであれば、私はこの場を後にするべきだったのでしょうか。女性の肩に回すことを夢見ていた腕いっぱいに仕事を抱え、そんな十年が嫌になって遂に決めた覚悟と六十分のために支払った三万円を無駄にして、ネオンの光で背中を妖しい桃色に染めるべきだったのでしょうか。
私は初めて、自分の肉体が誠実さの欠片も含んでいないことを認識しました。なぜなら、学生の頃、まったくの汚れを知らないように笑う彼女のことを現在のその大人びた風貌の奥に思い出した今も、私の両足は出口を目指そうとはしないのです。むしろ、一秒でも時間を無駄にするわけにはいかないと背中を焦燥感が突き抜けていき、私を押し出そうとするのです。
そして、十年が経った今、ある程度は形が変わっていようとも、やはり彼女は綺麗に笑っていました。その十年に何が含有されているのかは私の知り至る所でないことは当然でありながら、それを探ってしまいたいと思わせるほどに、深みを増した微笑は私を魅了するのです。
「お疲れですか」
そう尋ねてきたのは、きっと彼女が編み出した一つのコツとでも言うべきものなのでしょう。私が疲れていなければ熱湯のように、私が世間に忙殺されて落ちてきたのであれば人肌の微温湯のように対応してくれるのでしょう。それは同業者から得た知識なのか、はたまた彼女が独力で導いた解なのか、だとすればどれほどの時間をかけて辿り着いたものなのか。
私は、その思考すらもが目の前の女性の中身を不躾に弄っていることに気付かぬまま、「今日は楽な仕事だったので」と答えていました。そう答えた理由はひどく簡単で、ただ学生のころ目で追っていたその人を濃く感じたいからという、ただそれだけのことでした。
「では、明日は土曜日ですし」
彼女が私の前に跪くと、いよいよその柔肌に踵を向ける選択肢は私の中にありませんでした。浴室の外に畳んで置いてきたスーツは黒だったか紺だったかも、今日の昼食に何を食べたのかも脳細胞から排除されていました。私はたった今この世に生まれ落ちたのかと錯視するほどに何もかもを忘却し、空いた容量で眼前の光景を処理、記憶しようとしているのです。
「最近は景気がいいでしょう。ほとんどの人が少しお疲れ気味で」
しかし、そのせいで彼女の言葉から不必要な情報までも読み取ってしまいました。
彼女は風俗嬢です。今からすることも、今まで来た、そしてこれから来る何百の客とするうちの一つでしかないのです。
「あなたはどうして風俗で働いているのですか」
「大学の奨学金を返済しなければならなくて」
予想外に速く返答がされ、この会話すらも誰かと経験したのだと無駄に回転する頭で理解しました。
「真っ当に働けばいい。こんな場所にいることは、あなたのためにならない」
少なくとも、その場では自分の言い分は絶対に正しいと信じ込んでいました。風俗なんかで働かず、どこかに就職すればいい。アルバイトでもなんでもいい。風俗なんかで自分の性を売却する行為は、そのときの私の中では禁忌の一つ手前のような感覚でした。
「そう仰る人もたくさんいます。けれど、私はこれでいいんです」
「よくなんてない。こうしている今も、あなたの風俗嬢としての経歴は長くなっていく。私は目の前で、一人の女性が落ちていくのを見たくない」
今となっては詭弁に他ならない、下らない論調でした。私は、彼女に他の男と裸を重ねることを許したくなかったのです。十年と少し、僅かずつ秘め続けた独占の欲求は、私ですら予見できない時点で爆発しました。
「私は今の私が嫌いではありません」
それは今までの嬢として瀞みを纏った声とは違い、鼓膜を突き刺すように鋭利な振動を芯に持った声でした。私の脳は回転をしすぎた遠心力で散り散りに吹き飛んだのでしょう。彼女が激昂していることだけは処理できていなかったのです。
「この仕事も嫌いではありません。決して愛していると大それたことは口にできませんし、する気持ちも持ち合わせていません。けれど、あなたのような誰でもない他人に否定をされ、嘲るほど憎悪もしていません。あなたはこんな場所と仰いながら安くない金額を店先で支払いましたね。そんな風に銭を投げ出せるような人に、私がどれだけ窮まっていたかは分からないでしょう。私がどれだけこの仕事に救われたかを知らないでしょう。私がどれだけ今の自分を誇って、どれだけ真っ直ぐ前を見られるようになったか。あなたは私の一切を知らないでしょう」
私はただ彼女の迫力に圧倒されていました。怒りを存分に内包した声と瞳から発せられる虚構の重力が私を彼女から引き離しにかかると、私は思わずニュートンが唱えた説を疑いました。引力の代わりに、そこには斥力が存在するように思えました。
「僕は、僕はあなたと同じ学校に通っていました。そこで見るあなたはとても純粋で、神秘的だった。僕はあなたに恋をしていたんです」
一世一代の告白でした。私は、僕は、それを言うべきかどうかも分からないほど動転していました。一歩立ち止まれば、少し思考すれば自ずと判明することだったのに、その時の私には今まで解いてきたどの問題よりも難しく感じられました。
風俗嬢には接客を拒否できる場合がいくつかあるのだそうです。そのうちの一つが相手が知人だった場合だと、私とは対照的に冷え静まった彼女は言っていました。
返金された三万円を財布に戻しながら店の敷居を跨ぎ出るのと入れ違いに、酔いが回って顔を赤くした小太りの男性が、鼻歌を振り撒きながら扉を開けました。
その男が下手くそで酒臭さを伴った歌混じりに呼んでいるのは、彼女の源氏名でした。
容姿は一般的な観点で言えば私の方が優れているし、身につけているスーツの質も、私の物の方が数段は上でしょう。
けれど、そんな指標は彼女にとってまったく何の意味も持たなかったことを、私は夜風が冷たく吹き晒す感触を以て初めて理解したのです。
ネオンの光で背中を妖しい桃色に染めると、進もうとする意思とは真逆に足が持ち上がりにくくなっていて、私は引力というものを再確認しました。
私と違って、ニュートンは何も間違っていませんでした。
初恋だった女性は風俗嬢になっていました。 詩人(ことり) @kotori_yy
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