そして彼は天を征く

詩人(ことり)

本文

 かつて日本に生息していた鴇は、きっぱりとした白に柔らかな暖色が混ざった、美しい翼を持つ美しい鳥だった。その色には鳥自身の名前が付けられている。

 その鳥は美し過ぎた。人間を魅了してしまった。全ての自然にとっての天敵は人間だと言う。それは鴇にとっても例外ではなかった。人は自らの生活を美麗に彩るために、その羽根を求めて鴇を撃ち落とし始める。

 結果的に現代、日本原産の鴇は絶滅した。今、日本に生息しているのは中国から譲り受けた個体が繁殖し、放鳥されてまた繁殖したものだ。

 私という女は、鴇を絶滅に追いやった人間の心理が分からなかった。鳥という自然生物ならばその美しさは自然で自由に、優雅に飛び回っていたほうが発揮されるだろう。殺して毟り取った羽根をどうこうしたところで、それは本当に美しいと言えるのか。ましてや獲り尽くしてしまうなんて理解ができなかった。

 就活を始めて少ししたころ、一人の男性と出会った。同じ会社の面接を受けていた人で、入口の段差に躓いて転んだところ手を貸してくれた。スカートタイプのリクルートスーツを着ていて、薄いストッキング一枚では防ぎきれずに擦りむいた膝に当てるため、ハンカチを水筒で濡らしてくれた。

 そのときのハンカチの色が鴇色だった。男の人が持つにしては珍しい色だと思った。鴇色と言えば分かりにくいが、その実は薄鮮やかなピンク色のことだ。そもそもハンカチを携帯する男性にあまり会ったことが無かったし、持つにしても白色だとか、そういう主張の激しくない色を持つものだと思っていた。だから、その彼はとても印象的だった。

 お互いに同じ業界へ就きたいと考えていることから、情報交換として連絡を取り合うようになった。最初こそ「あの会社の面接を受けた」とか「この会社は良さそう」といったものが、次第に日常の何気ないことも伝え合う会話になっていった。サークルに入らずに大学生を終えたせいで友達の少なかった私にとって、雑談で盛り上がることのできる相手は貴重で、心地の良いものだった。

 彼と連絡を取り合うようになってから半年で私は第三志望の内定を貰い、彼も遅れて第二志望の企業から内定通知が来た旨を私に伝えてくれた。条件の良いところに就職できた私たちは、お祝いのために食事をしようということになった。私も彼もお金を多く持っているわけではないので安いお店を選んだが、人と食事をするという体験が久しぶりだったせいで充分満足だった。

 交際の申し出は、その夜に彼の方から口にした。断る理由は無かった。あったとしても受け入れていたかもしれない。産まれてから今まで恋愛に取り組むことができなかったしがない女が、ただ幻想を求めていただけとも言える。しかし、六ヶ月と少しの蓄積は確かにそこにあって、私は迷わなかった。

 社会生活のための準備や実際に入社してからの忙しさも、あの人が隣にいるというだけでなんとかやっていけていた。大学時代に単位埋めで取っていた心理の授業で聞いてはいたが、精神的な支えがこれほどまでに活力を齎らすとは意外だった。

 一緒の時間を過ごせば過ごすだけ彼のことを深く愛するようになり、彼が一週間の半分を私の家で、もう半分を実家で暮らす半同棲が始まった。同棲を始めると相手の嫌なところが見えてくるとは言うものの、何ということはない。弱さをさらけ出せるほど信頼されていると思えばいい。出会ったころは完璧で隙の無いような人間だと思っていた彼の外殻が、私の手によってぽろぽろと崩れていくのが愛おしくてたまらなかった。

 実は脱いだ靴下をそのままにしてしまったり。実は食べ終わった食器を下げずに横になってしまったり。実は自販機で買ったペットボトルを飲み切らずに、また新しいのを買って冷蔵庫にどんどん溜めていってしまったり。同棲について苦言を呈するのは、こんなにも愛おしい側面すら愛せないから、嫌なところが見えてくると言い訳をしているに過ぎない。

 鴇を欲しがった人間も、つまるところこんな気持ちだったのかもしれない。どうしようもなく魅入られて、手元に置いておきたくなった。なるほど、今なら僅かながら理解できる。

 最近は仕事も増やしてもらい家事に手が回りにくかったから、包丁にも久しぶりに手を伸ばした。刺すとき、あまりにするりと刃が入っていったので、これでは死なないのではないかと思って何度も刺した。フローリングが真っ赤になった後で、料理で肉を切るときも力は要らなかったことを思い出した。

 家では靴下を洗濯籠に入れないような彼が、なぜ私と初めて会ったときにハンカチなど持っていたのか。自販機で何本も飲み物を買ってくる彼が、どうしてあのときは水筒だったのか。

 私と会わない一週間の半分を共に暮らしていた女に、家を出るときに持たせてもらったのだと今になって分かった。

 なんて簡単なことだったのだろう。LINEのメッセージだとかホテルから出てきたりとか、それでも信じようと思っていた自分が世界一の馬鹿に見える。

 体表の血液が冷めていくのを感じながら、彼のポケットからハンカチが溢れているのを見た。もとは鴇色だったものが、今は鮮やかな真紅染に晒されている。

 なるほど、今なら完全に理解できる。

 兎にも角にもそばに置いておきたい。たとえ形が変わっても、手元に置いておきたい。

 自由や優雅なんてどうでもいい。生死すらもどうでもいい。

 彼はまさしく鴇だった。とても綺麗で、すごく自由で、どこまでも人を惹きつけて。

 そして、あっけなく絶滅した。

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そして彼は天を征く 詩人(ことり) @kotori_yy

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