120分間ブルー

詩人(ことり)

本文

 東海道新幹線で車内販売されているアイスは硬く、付属のプラスチックスプーンでは歯が立たない。だからゆっくりと、この世の喧騒から逃れるようにゆっくりと溶けるのを待つ。車内だとしても窓から差し込む夏の陽光が手伝ってくれる。

 幸い、目的地まで二時間以上もあった。そのうちの十分をたかがアイスを溶かすためだけに使ったところで、今さら何も不利益は生じないだろう。

 以前は何もしていない時間に漠然とした焦りを感じることも多かった。家に帰ってテレビを眺めているだけ、飯を食っているだけの時間。学生時代、見るたびに英単語帳を開いていて仲間と根暗だと嘲っていたあいつは、既に私よりも高い給料を手にしているだろう。あいつなら私が無駄にした時間を活用して利益を生むに違いない。

 でも、長い人生の中で少しくらい無駄な時間があってもいい。すべてのことに意味を求める必要は無い。

 そうやって言い訳して怠惰を貪っていた先週、十七年勤めた仕事場からリストラに遭った。不景気だったから、そうなるかもしれないという予感はあった。あったにも関わらず何も行動に移さなかった。積極的に行動して評価され、重要な仕事を任せても良いと判断されるほど優秀だったら、私は今、実家に向かう新幹線に乗っていない。

 故郷は漫画で描かれる畑しか無いようなド田舎ではないが、若者が休日に遊ぶ場所に苦労するくらいには何も無い。

 それがどうしようもなく退屈で、大阪にある大学に通った。そこでは数分歩けばいくらでも遊び場がある。遊んで過ごした四年間はあっという間に過ぎて、けれど結局、私は何も持たないまま卒業してしまった。数年間フリーターをして、ようやく就職したところからも首を切られる始末だった。

 これは逃走だった。やるべきことから逃げ続けて、時間を無駄にし続けたツケが回ってきた今、また逃げている。

 ふと、窓外の景色に向けていた視線を隣の席に向けてみた。そこには私よりもずっと若く見える男が座っていて、溶けていない硬いままのアイスに、貧弱なスプーンで果敢に挑んでいる。

「少し溶かした方がいいよ」

 この子はこの高いアイスの食べ方を知らないらしい。見ず知らずの人間に話しかける労力を嫌って何もしない時間の謳歌を優先することもできた。けれど、この若い男の帰省か、旅行の重要なピースである食という楽しみに手を差し伸べてやれる程度には、ささやかな優しさを私は持ち合わせていた。

「ありがとうございます」

「帰省かい」

「はい。盆なので、有給も取って親に顔を見せに」

 朗らかに笑う、純朴そうな子だった。学生というほど若くは見えないので社会人ではあるだろうが、社会の汚れを知らない顔だ。私のように突然、首を切られるという事態が現実にあるということを、この子は予想もしていないだろう。

「私も帰省だよ。親が帰ってこいとうるさいんだ」

 その現実はいずれ、自ずと分かることだ。つい先ほど優しさを提供すると決めた手前、彼の純粋さに水を差す選択肢は無かった。

 無かったはずだった。それが変わったのは、彼がアイスを握っていたせいで冷えた手に、息を吐きかけるのを見たときだった。

 左手首に巻かれている腕時計に見覚えがあった。私は将来を漠然としか考えていなかった高校生の頃から、大人になったら何か立派な物を身に付けたいと思っていた。その何かを腕時計と決めたのは進学のために大阪に出たころで、そのときからネットやカタログで色々なブランドを漁っていた。

 けれど結局、本当に欲しかったものにはとても手が出なかったから、妥協して予算内で買えたものを今も付けている。

 隣の男が巻いている腕時計はかつて、そして今も私が欲しくてたまらないブランドの最高級モデルに間違いなかった。何度も見て諦めて、それでも諦めきれずにまたカタログを見て、そしてまた諦めた時計だ。見間違えることはない。

「良い時計だね。誰かからのプレゼントかい」

 震えそうな声を必死に取り繕った。今までの何気ない会話の一環に過ぎない、その体を崩さないように。

「いいえ、自分で買ったんです」

 今この瞬間、最も聞きたくなかった返答だった。私がどうしても手に入れられなかったものを、何故この若い男が持っているのか。実力という答えは、私にとって毒以外に成り得なかった。

 彼は純朴で、リストラということを予想しない。それもそうだろう。この若さであんなに高い腕時計を買えるような優秀な人間は、リストラなどという低レベルな事故には遭わない。予想する必要がない。

「アイスの食べ方、教えてくださってありがとうございます。そちらも丁度いいのでは」

 彼は私がどんなに背伸びしても届かない場所にいる。それなのに、ただアイスクリームの食べ方を知っているというだけで、僅かでも優位に立っていると思った。勘違いをした。

「私はもう少し、溶かしますよ」

 激しい劣等感は地獄だ。この地獄は新幹線が止まるまで続く。逃げることはできない。

 不幸なことに、目的地まで二時間以上もあった。

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120分間ブルー 詩人(ことり) @kotori_yy

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