そいつは突然、夜にわさび芋を持ってきた。

詩人(ことり)

本文

 そいつは突然、夜にわさび芋を持ってきた。けたたましいインターホンに目を擦りながらドアを開けると、見慣れた顔を汗ばませてビニール袋を提げて立っている。

「なんやねん」

「刺身食べようや」

 日頃から変なやつだとは思っていた。ついに人の家に刺身を持って乗り込んでくるようになったらしい。迷惑とまでは思わないものの、事前に連絡してくれれば散らかった部屋を片付けたり、身だしなみを整えたりしたのに。

「うち、わさびおろすヤツとか無いねんけど」

「百均で買ってきた。心配すんな」

「なんで準備いいねん」

 せめてもの抵抗で、会話の途中に足下の散乱した靴を爪先で蹴って隅に寄せた。帰ってくれと言うのも億劫だし相手の勢いに押されて、部屋に招き入れた。

「台風通ったんか」

「うるさい」

 部屋の惨状を見るなり軽口を叩かれ、普段ならもっと気の利いたことを言えるのに、そんな陳腐な返答しかできなかった。

 そいつは部屋に入ってきてからキッチンにビニール袋を置いて、雑に片付けを始めた。二人が座って食事ができるだけの空間を確保するために、そこら辺の散らばったものを隅に寄せているだけだったが、白いフローリングが見えると少しだけ爽やかな気分になった。

「わさびはそのまま齧っても辛くはないねん。すりおろして細胞が破壊されたら辛くなるねんて」

「そういうのどこで知るん」

「マヨネーズ無いやん。マヨネーズはな、舐めたらわさびの辛さ消えるねんで。他にもコーラとかでも消える」

「聞けや」

 他人の家の冷蔵庫を物色して、どこで得たのか分からない蘊蓄うんちくを垂れ流す背中を見つめていた。白いシャツだから気付かなかった。背中一面が濡れている。それが汗だということはすぐに分かった。夜だし気温も高くないのに。

「お前、そんな急いで来たん」

 ほとんど呟くみたいに声が出た。刺身とわさび芋のほかに、買ってきていたらしい飲み物やら卵やらを冷蔵庫に入れていた手が止まった。

「そら急ぐやろ」

「まあ、そうか」

 それからうるさかった声が少し落ち着いた。それでもあいつはわさびをおろしながら、たまにどうでもいい世間話をしてくる。誰々が今、ネットで話題になっているとか、同級生がバイトを辞めたらしいとか。

 それにやる気のない相槌を打ちながら壁にもたれ掛かっている自分が、無性に孤独に感じた。同じ部屋に人がいるのに、そいつの口から出る話での世間から自分が隔離されているように錯覚してしまう。

 目蓋が重力に逆らう気力を失い始めたとき、テーブルに大きなパックが置かれた。所狭しと並べられたツマの上に乗る赤やオレンジが目に入った途端、体のどこかの筋肉が僅かに痙攣した。

 テーブルの向かいに腰を下ろしたそいつは何も言わず、自分の小皿に小袋の醤油を出した。それからパックの隅に置かれたわさびの山を少しだけ割り箸で摘み、まぐろに乗せた。まるで親が子に作法を教えるみたいに、わざとらしく大げさに一つ一つの動作を見せてくる。それでよかった。そうでもされないと、箸を持とうとしたかすら怪しかった。

 力の入らない右手でたどたどしく箸を操って、最初に掴んだのは同じくわさびだった。それからまた同じようにまぐろに乗せて、自分の前の小皿に出した醤油に少し付けて口に運ぶ。

「辛くないやろ」

 そいつの言う通り、辛くない。わさびの風味はするのに、つんとくる辛味だけが無かった。

「おろすときに、ちょっと粗めにしたら細胞が壊れきらへんから辛くないねん」

 その日、初めて飯が美味くて泣いた。なんてことはない、いつもなら少し手が出にくい程度の値段の刺身の盛り合わせが、わさびも効いていないのに涙を誘った。

「火曜日に葬式やるって」

 その言葉に何も言えず、ただ頷きながらサーモンを頬張った。

 昨日の夜、あんなに泣いたのは人生を形作る細胞が壊されてしまったから。その辛酸はわさびなんかの比ではなく、この有様だった。

 この人生は壊れきってしまった。壊れてしまったら治ることはない。治るような壊れ方をしていない。それでも、辛味を抑える方法はいくらでもあるらしい。

 変わり者のお人好しが帰った後、部屋を片付けた。もともとあった場所に色々なものを戻した。壁は凹んでいたし、床には傷があった。家具はいくつも壊れていた。

 わさび芋は水を入れたコップに浸して冷蔵庫に入れた。毎日、水を取り替えれば長期保存できるらしい。

 片付いた部屋を見渡して、大きな溜息を一つだけ吐いた。

 それから、風呂に入った。冷蔵庫の中のわさびに思いを馳せながら、無重力感に体を委ねている。

 人生を長期保存するために、これからは毎日、湯船に浸かろうと思った。

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そいつは突然、夜にわさび芋を持ってきた。 詩人(ことり) @kotori_yy

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