大いなる喪失

和泉茉樹

大いなる喪失

      ◆


 黄金色のグラム酒の注がれたグラスが行き渡ったところで、リーダー格であるホームズが声を張り上げた。

「俺たちの勝利と五千ダラーの報奨金を祝して、乾杯!」

 同じ卓を囲んでいる五名が笑顔を弾けさせ、乾杯! と唱和し、グラスを触れさせる。勢い余って酒の雫が無数に飛び散るが、それさえも彼らを喜ばせる。

 彼らは地下に張り巡らされた迷宮から戻ってきたばかりの冒険者たちだった。地下に巣食う魔物を十五体ほど討伐し、その首を聖教会に持ち込んだ帰りなのだ。聖教会では神の敵たる魔物の討伐を励行し、報奨金を冒険者たちへ支払っている。

「しかしまさか、五千ダラーとは、教会もケチくさいぜ」

 ホームズたちの冒険者集団において、前衛を担当するアシュリーが言った。彼は長身で、がっしりとした体つきをしている。戦闘になれば全身を鎧で固め、仲間を魔物の攻撃から守ることもある。

 彼らは報奨金をきっちりと山分けすることに決めていた。アシュリーは危険を一人で引き受けているようなものだが、それには不満はなさそうだ。しかし報酬が多いに越したことはない、という意志が言葉の端々、瞳の色に見えた。

「仕方ないよ、もう上位種はほとんどいないし」

 細身の女性、クリスが答えた。彼女は機敏な身のこなしでアシュリーを補助する役目が多い。鎧も皮をなめした簡単なもので、武器は短剣である。全身に無数の傷痕があり、それは仲間も知っている。顔にも深い傷跡が走っていて、しかしそれは彼女の整いすぎている顔に愛嬌を与えているようにも見えた。

「上位種はもっと潜らなきゃな、遭遇しないさ。英雄とそのお仲間が討伐しちまったから」

 一人だけ年を取っている、白に近い灰色の髪の男が低い声で応じる。チャールズという名前の、前衛を担当する冒険者だった。ベテランで経験が豊富、戦いの機を見るのにも長けている。戦闘では長剣を使う。

 短槍使いのロイドが笑いまじりの声で混ぜ返す。

「しかし俺たちなら、上位種にも対処できるだろう? それとも誰か、負けると思っている奴はいるか?」

「ロイド、それは言い過ぎよ」

 幼さの残る女性、キーリが軽口を飛ばすロイドを諌める。

「上位種の魔物には英雄たちでも苦労したのよ。私たちが歯が立つわけがないわ。せめて三十人はいないと」

「おいおい、キーリちゃん。さっきの俺たちの戦いを間近で見ただろう」

 ぐっと酒を飲み干したロイドがニヤニヤと応じるのを、やれやれといった様子で周りのものは見ている。これは普段からよくある、いつもの光景だどその空気が示していた。

 それでもキーリが生真面目にロイドに向かっていく。

「私たちが相手にした魔物は、下位種ばかり十五体で、しかも一度に対応したのは三体が最多で、他の十二体は一体ずつ、フラフラと出てきただけ。私たちは六人でタコ殴りにしただけじゃないの」

「上位種もタコ殴りにすりゃいい。だろ、みんな?」

 言い過ぎだぞ、とホームズがロイドをたしなめようとする。

「キーリの言い分の方が安全さ。それともロイドは、一人で上位種を相手にできるかな」

「おいおい、やめてくれよ、リーダー。まさかキーリちゃんとデキているのか?」

「かもな。少なくともキーリの発想に従っていれば、無駄な危険を冒さずに済む」

「俺がリーダーになることはないだろうよ。もしホームズが倒れれば、その時はチャールズのおっさんが指揮する。俺はただ、言われるままに戦うだけさ」

 文句ばかり言うな、とチャールズが穏やかに指摘するのに、同感、とアシュリーが付け加える。

 オーケー、とロイドがおどけた態度で両腕を万歳した。

「言いすぎた。しかし、ちょっとは自信を持ってもいいだろう? 俺たちはもう二ヶ月も、一人の負傷者も出さずに、全部で六十体も魔物を討伐している。そのうち、どこか大所帯のギルドから誘いがくるぜ。それでもって、俺たちはそこで最も強い小隊になるんだ。そうしてもっと大部隊を指揮して、魔物を根絶やしにする」

「夢を見るのは若者の特権だな」

 辛辣なチャールズの言葉に、年寄り冷水って知っているかい、とロイドがやり返すのにチャールズは鼻を鳴らしただけだった。

「みんな、今日くらいは楽しく飲もう」

 おかしな方向へ転がり始めた空気をホームズが修正しようとする。

「酒をもらってこよう。リクエストは」

「ノースランド産の赤葡萄酒がいいわ」

 クリスが間髪入れずに答えるのに、みんなもそれでいいな、とホームズは即座に応じて席を立ち、足早にカウンターの方へ移動してた。

 地下迷宮の出入り口の中でも、あまり人に知られていないものがそばにある集落、そこにある宿屋の一階の食堂で彼らは飲んでいるのだった。まだ部屋は取っていないが、酒量如何によってはここで一晩を過ごすかもしrねあい。

 もっとも、食堂の広い空間にはテーブルが三つ置かれているが、彼らの卓以外に人はいない。カウンターにも席があるが、そこではみすぼらしい服装の男が一人で黙って酒を飲んでいるだけ。その男はホームズから見れも、だいぶ酔っているようだが、静かだった。

 カウンターの向こうには三十代ほどの男性がいる。店を仕切っているのは彼だったが、他に店員はいない。

 彼に歩み寄り、ホームズは声をかけた。

「ノースランド産の赤葡萄酒はあるかな」

 男は無言で顎を引くと、カウンターの奥にある棚を眺め始めた。様々な地の、様々な種類の酒が一面に並んでいた。色とりどりの瓶とラベル。酒の色さえも種々様々だった。

「ノースランドのウルド地方で作られた、十八年ものの赤葡萄酒でいいか?」

 背中を向けたままの声に、ホームズは軽く答えた。

「値段が張らないならいい」

 その一言がどう影響したのか、カウンターの向こうの男が振り返る。

 表情にはあまり感情がなく、瞳もどこか暗く見えた。

「見たところ、冒険者のようだが」

「ええ、そうです。地下迷宮の帰りです」

 とっさにホームズがそう答えたのは、冒険者という生き方に自負があったからだった。それはもはや、自信、と言ってもよかったかもしれない。ロイドをたしなめはしたが、ホームズも仲間が力を合わせれば上位種の魔物にも対処できる、倒すことができると内心では思っている。

 口は軽く言葉を紡いだ。

「明日もすぐに迷宮に戻るつもりです。ほどほどに魔物が残っていますから、楽に稼げます。危険はほどほど、報酬もほどほど、悪くない状況です」

 それがやりたいことかね。

 不意の宿の男の言葉に、ホームズは思わずキョトンとしてしまった。

「店主? なんですって?」

「それがやりたいことなのか、と聞いたんだ」

 この男は何を言っているのか、ホームズは即座には理解できなかった。

 一方の男は、また背中を向け、棚の方を見始めた。だが言葉は続く。

「冒険者か。下等な魔物を一方的に倒して、何が面白い」

 下等な魔物? 面白い? いよいよホームズには理解できなかった。

「何をおっしゃりたいのか……」

「魔王が討伐されて、何年が過ぎたかな」

 やっと酒瓶を手に取った店主が、それをカウンターにそっと置いたが、ホームズはそちらではなく、目の前の店主の顔を見ていた。

 無表情で、乾いた目つき。

「魔王の討伐は、八年は前になります」

「四英雄と勇者たちのことをどれだけ知っている?」

「名前は知っています。あとは伝説も」

 伝説かね、とグラスを用意しながら店主が答える。

「お前たちは何と戦っている? いや、そもそも戦っているのか? 日々を生きるために、魔物をただ殺して、小銭を得るのが戦いか? ただの仕事だろう。冒険者などと格好をつけても、要は狩人だ」

「それはいけないことですか。俺はそうは思いません」

「では、どう思っている?」

「魔物を討伐することで、魔物が地下迷宮から溢れることを防いでいます。俺たちはいわば、守護者です」

「魔物は本当に溢れ出すのか? いつ? どれくらい?」

 グラスに赤い液体を注ぐ男を見るうちに、ホームズの中では苛立ちが、怒りが湧き始めていた。

 安全な場所で、食堂兼宿屋を経営する男に、自分たちの生き方を否定する権利などないはずだ。ここにいて命の危険を感じることなどあるまい。そして自分たちのように大金を稼ぐこともない。この宿屋の建物はいかにも古びて、ボロボロだった。安いからここを利用する気になったが、失敗だったとホームズは考えざるをえない。

「店主、あなたにはわからないだろうが、俺たちは自分を危険にさらして、この世界のために戦っているのです。それはあなたを守ることでもあるんです」

「守る? お前が? 私を?」

 この時、店主の表情にわずかな変化が見られたが、ホームズにはどういう感情の発露か、判断がつきかねた。呆気にとられたようにも見えた。しかしに何に?

 すぐに元の無表情へ戻ると、店主は六つ目のグラスに液体を注ぎ、瓶に栓をした。

「何かおかしいことを言っていますか」

 酒瓶を棚に戻そうとする店主にホームズはとっさに言葉を向けたが、相手は答えず、棚の方を向いている。

 この時にはホームズの仲間たちもカウンターの方に注目していた。

「おかしいですか」

 問いを重ねるホームズに、男は振り返ると、「おかしいね」と答えた。

 テーブルの方ではロイドが椅子を蹴倒して立ち上がり、それをアシュリーが腕を掴んで止めていた。クリスが剣呑な表情で立ち上がるのを、チャールズが視線を制止する。

 そんな彼らを気にした様子もなく、店主が言葉にする。

「世界のためといいながら、実際には子どもの遊びだ。英雄の真似事をして悦に入っているだけ。危険などというが、火遊びに過ぎない。自分たちに力があるようなそぶりをしているが、どいつもこいつも、半端者だ」

「言っていいことと悪いことがある」

 温厚なホームズの視線にも、激しい怒りが燃えていた。

 だが店主は全くひるまない。

「言ってはいけないこと? お前たちを正確に評価したはずだが、言ってはいけないのかね? まさか恥ずかしいのか? 自分たちが実は無能だとわかっていて、だから他人に指摘されたくないと?」

 ついにロイドが仲間の手を振り払い、カウンターへ歩み寄ろうとした。

「うるせえぞ、ガキども!」

 唐突な声は、カウンターの端の席にいる男だった。酔っているためにやや呂律は回っていないが、迫力だけはあった。ロイドが舌打ちし、「不愉快だ、よそへ行こうぜ」と仲間に声をかけた。

 ホームズは自分の懐から手に入れたばかりの金貨をカウンターに叩きつけるように置いた。それからこれ見よがしにグラスの一つを飲み干すと、空になったグラスを思い切り床に叩きつけて粉々に割ってから身を翻した。

 ホームズたち六人は表に出て、忌々しげにたった今、出てきたばかりの建物を睨みつけた。

 かすれてよく見えないが、看板には「カルージャン・イン」と書かれていた。今夜はここで飲み明かすつもりだったが、失敗だったと誰もが腹を立てていた。

 六人は夜の闇に包まれた通りを眺め、今度こそ気持ちよく飲める店を探し始めた。

 しかし目の前にある深い闇に塗りつぶされている通りは、不気味であり、不吉でもあった。


      ◆


 カルージャン・インの経営者であるルイード・カルージャンはフロアの床に飛び散ったグラスの破片を掃除し始めた。

「お前、商売には向かんよ」

 カウンターでグラスを両手で包むようにしている男がルイードに声をかける。

 ルイードは憮然とした声で答えた。

「若造を見ると、どうも腹が立つ。冒険者などと言っているが、間違った使命感、思い込みで戦っているだけの人間だ」

「俺たちも昔はそうだった」

 酔客がグラスの中身を飲み干すと、自分ですぐそばにある酒瓶から琥珀色のウルズ酒を自分のグラスになみなみと注いだ。視線はその揺れる表面に落ちている。

「昔というには最近だ」

 ルイードの言葉に、忘れたよ、と酔客が応じる。

「もう忘れつつあるが、あの頃は良かったと思う。魔物の脅威は現実のもので、戦わなければ人間は滅ぼされたかもしれん。魔物は敵で、魔物は倒すべき存在そのものだった。人間は生きるために、生き残るために、家族のために、隣人のために、剣を取った。そういう時代だったな」

「だから、そんなに昔ではないだろう」

 答えてルイードは顔を上げ、少し口元を歪めた。

「ほんの八年前だ。本当は忘れちゃいないだろう」

「八年は昔だよ。十年と変わらん。人生の五分の一だ」

 グラスの方に口を近づけてすするように酒を飲む男に応じずに、ルイードはグラスの破片を回収し、ゴミ箱に入れた。カウンターの上には葡萄酒が注がれたグラスが五つ、残っている。

「飲めよ」

 そう酔客に声をかけるが、相手は「金を取るんだろう」と応じている。

「まさか。金はあの若造どもが支払っていった。無料だ」

「では一つ」

 酔客の手が素早くグラスの一つに伸び、あっという間に葡萄酒は口の中に流し込まれた。

「ノースランドの葡萄酒は甘いな。舌が粘つく。ウルズ酒の方が飲み心地が良い」

「この葡萄酒がいくらすると思っている。仕入れるのに苦労したんだぞ」

「でも金は手に入ったんだろう。感想を言う自由はある。お前が若造どもをやっつけたようにな」

 今度こそ、不快げな表情に変わったルイードはカウンターの中に戻った。

 その時、扉が開いて入ってきたものがいる。

 長身のせいで男のようにも見えたが、女性だった。細身だが、しかし安定感のある歩き方がそれを意識させない。服装は高級品に見えた。

 にっこりと明るい笑みを見せると、彼女はカウンターへ歩み寄ってくる。

「久しぶり、ルイード。キルケルもまだここにいるのね」

 キルケルというのが酔客の名前らしく、彼は女性にうっすらと笑みを返した。

「イブリスか。まだ傭兵なんぞをしているのか」

「そうよ。でも今は休暇。あと一週間は自由よ。ルイード、ここに並んでいるのはノースランドの葡萄酒じゃないの? 匂いと色からすると、ウルドの十八年ものね」

「よく知っているじゃないか。傭兵が酒に詳しくても、敵は倒せまい」

 キルケルの切り返しに、まさにね、と余裕たっぷりで答えてから、イブリスはグラスの一つを手に取った。優雅な仕草でグラスを回し、匂いを確かめてから、ルイードに確認する。

「飲んでもいい? っていうか、なんでここにあるの?」

「気にするな。飲んでいい」

 ありがと、と笑みを見せると、イブリスはグラスを口元へ寄せ、一口飲んだ。

「やっぱり美味しいわね。戦前の葡萄酒、高かったんじゃない?」

「そこそこにね」

 ルイードがそう応じる横でキルケルが「酒とは呼べん」と毒づいている。

 三人はそれからしばらく話していたが、話題は自然と先ほどまでいた客のことになった。無人の卓の上ではグラスと簡単な肴がそのままにされていたので、イブリスとしては話題にせずにはいられなかったこともある。

 いよいよあやふやな発音でキルケルが説明するのに、イブリスはおかしそうに笑っている。細められた目が眩しそうにルイードを見るが、ルイードはといえば、不服げだ。

「ルイードはそういうところ、変わらないのね」

「変わるものか。まだ八年しか過ぎていない」

「そんなに若い子たちが危険に飛び込むのが許せない?」

 イブリスの穏やかな眼差しから、この時のルイードはさりげなく視線を外した。

「許せないわけじゃない。無駄だと思うだけだ」

「魔王がもういないから?」

「そうだ」

 ルイードは今度は視線をイブリスに返した。二人の視線が衝突する。

「私たちが、魔王を倒したのがそんなに重荷?」

 視線の激しさとは裏腹に柔らかいイブリスの言葉に、かもな、とルイードが応じる。

 かつて魔物を率いて地下から地上へ、人間世界を侵略した魔王は「四英雄と勇者たち」と表現される人々によって倒された。勇者たちの多くは地下迷宮の最深部で命を落とし、四英雄は魔王を倒した後、どこかへ消えたとされている。

 宿屋の主人であるルイード、酒に溺れているキルケル、女傭兵のイブリスは、四英雄のうちの三人だったが、もはや誰もそのことを知らない。彼らは素性を隠し、魔物とも、地下迷宮とも関係のない日々を送っていた。

 時折、こうして会うことはあっても、もう彼らは魔物を討伐しようとはしない。

「魔王がいれば」

 キルケルがグラスの中のウルズ酒を飲み干し、それから小さく笑った。

「こんな風に酒を飲むこともなかっただろう」

「それに話題の冒険者たちも、とっくに死んでいたかもね」

 イブリスが続けるのに、かもしれん、とルイードは二人に背を向けた。視線は棚の上の酒をなぞっていく。言葉は自然と口をついたようだった。

「しかし、今の時代には敵と呼べるものはいない。魔物は敵だ、とするのは、都合のいい理屈だろう。もう魔物はただ地下に生きる生物の一つに過ぎない。人間界を脅かすこともない」

 手が伸びて、酒瓶の一つを手に取り、キルケルとイブリスに向き直る。

 キルケルは手元のグラスに視線を向けて動かず、イブリスは中身のないグラスを明かりにかざしていた。

 ただルイードの声だけが流れる。

「俺たちは敵を倒し、敵というものを消滅させた。だから今の時代は、敵がいない時代だ。平和かもしれないが、倒すべき存在はもういない。俺たちを魔王を倒す戦いに駆り立てたものは、あの時代では当然のものと受け入れられたが、今の時代は違う。俺たちの正当化された衝動と同様のものが、今では不自然なものなんだ」

 語るじゃないか、とキルケルが苦い声で答える。

「俺たちは異常だった。それは間違いない。お前が言う通り、あの時は異常こそが歓迎されたな。だが、俺は面白く生きていたよ。異常な人間が異常な世界を楽しむ。なるほど、問題ないな」

「私は自分が異常だったとは思わない」

 二つ目のグラスに手を伸ばし、イブリスが優雅に口元へ運ぶ。

「私はあの時の戦いは、ただ必死だったし、必死になるのが自然だったと思っている。だってそうでしょ? 間違っていると考えていることに命をかけられる?」

「どうだか」

 ルイードは新しいグラスを出し、棚から持ってきた米から作られる和酒を注いだ。

「戦いたい奴はどの時代にもいるが、そういうのが生きづらい時代だな。それは俺たちもそうだ」

 葡萄酒を飲んだイブリスが笑いまじりに言う。

「私は楽しく生きているわよ。人間相手に剣を取るのも、面白いと言える」

 異常者め、とキルケルが応じ、手元の酒を飲み干す。

「俺はこうして酒が飲めるから、そこそこに楽しいがね。もう血にまみれることも、血反吐を吐くこともない。平和は大歓迎だ」

 キルケルの言葉に、ルイードは和酒の入ったグラスを突き出しながら、釘をさすことは忘れなかった。

「いくらツケで飲んでいるか、忘れるなよ」

「これでも魔王の首の報奨金はまだ残っている。払えるさ」

 和酒のグラスがイブリスにも渡る。ルイード自身も自分のグラスを持っている。

「旧友の再会に、乾杯だ」

 キルケルがグラスを手に取り、震える手で掲げながら言葉を続ける。

「異常者の集会に乾杯だ」

 興ざめね、と言いながらもイブリスもグラスを掲げた。

 三つのグラスの縁が澄んだ音を立てた。


      ◆


 イブリスが二階の部屋へ去っていき、キルケルはカウンター席で深い眠りに落ちている。

 ルイードは洗ったグラスを布巾で拭いながら、考えていた。

 この世界で、生きる目的は無数にある。

 ありとあらゆるとことに、ありとあらゆる理由が転がっている。

 親のため、子のため、恋人のため、友人のために、できることは無数にある。

 その一つ一つが、尊く、重要な生きる目的のはずだ。

 しかし何故か、危険を冒すこと、命を危機にさらすことに、生きる目的を見いだすものが大勢いる。

 そんなことをする必要はないはずだ。

 それなのに、命をかけることは、魅力的な目的なのだ。

 たとえ破滅に自ら近づいている、生死の境を歩くことになるとしても、崇高に見えるし、立派にも見える。誰かが認めてくれると容易に想像でき、過去において大勢がその手法で成功し、名声と富を手にしている。

 その筆頭が、ルイードたちだった。

 四英雄の称号と、莫大な報奨金。どこへ行っても知らないものはいない。

 だからこそルイードには、戦いの後の生き方がわからなかった。

 すでに達成した目的以上の目的はどこにもない。

 魔王以上の倒すべき相手、強大な敵はどこにもいない。

 宿屋を始めたのは五年前だが、経営はうまくいっていない。客を追い返すような真似ばかりしているのだから、当たり前だ。

 ルイードは世界の何もかもが、許せなかった。

 何よりも、自分自身が許せなかった。

 賭けには勝ったかもしれない。成功したかもしれない。

 その結果、残ったものは取るに足らないものだけになった。

 満たされることは二度とないという確信がある。自分の人生は頭打ちだ。望む以上の結果をへて、もうそれ以上は有り得ないし、起こりえない。

 何も考えていなかった。戦うことしか考えなかった。

 迂闊だ。

 最後のグラスを拭い、布巾を置いてから棚にグラスを戻していく。

 キルケルが何か、小声で寝言を漏らした。

 グラスを収めた棚の前でルイードはここにはいない、残る一人の四英雄のことを思った。

 隠者を自称して山奥に閉じこもっているという。もうルイードも長い間、会っていない。

 同じ成功を手に入れた仲間と語らって、酒を酌み交わしても、乾きが癒えることはない。

 密かに溜息を吐き、ルイードはカウンターを出た。用意してある薄手の毛布をキルケルにかけてやり、フロアの灯りを小さくする。

 自分が生活するための建物の裏手にある小屋へ移動する時、ルイードは空を見上げた。

 夜空は昔から変わらずにある。

 しかし魔王を倒す地下迷宮での激戦の中では、星などなかった。

 地下世界、あの星のない世界が、自分をおかしくしてしまったのか。

 それとも元からルイードはおかしかったのか。

 キルケルの考えも、イブリスの考えも、ルイードには馴染まなかった。

 言葉で表現できるものではない。

 自分は大きな何かを喪失したようだった。

 魔王を倒すと同時に、自分の一部を切り離してしまったのだろう。

 ルイードは小屋へ入り、着替えもせずに粗末な寝台に横になった。

 眠りに落ちる寸前に、名前も知らない若者の怒りに強張る顔が思い浮かんだ。

 あの若者も、おそらくルイードと同種の人間だろう。

 しかし、まだ何も失っていない。

 失う前に引き返すべきだ。

 でも、とルイードは思うのだった。

 失うということは、失った後にしか理解できない。

 失って、初めて失ったことに気づくのだ。

 俺は敵を失った。自分を失った。気づいた時には、遅かった。

 ルイードは夢を見ていた。

 地下迷宮の夢だ。

 地下の住民たる魔物の喚き声と断末魔、そこへ侵攻している人間の兵士たちの怒声と罵声と悲鳴。

 ここでなら自分は生きていける。

 そう思うルイードは、強く剣を握りしめた。

 全身に負った傷が痛まないことは、無視した。

 夢だと気付きたくなかった。

 ルイードは声を張り上げた。

 その声もまた響かず、これは夢であると主張したが、無視した。

 現実であってくれ。

 夢であっても、長く、長く、いつまでも続いてくれ。

 ルイードは不確かな闇の中へ、闇の奥へ進み始めた。

 逃げるために、夢の奥へと進み続けた。

 敵を求めて。

 倒すべき敵を探して。

 それがあるうちは、この夢を続けられるから。

 いもしない敵を、ルイードは夢の中で求め続けた。

 朝が来て、何も取り戻せないことに心がひび割れることを予感しながら。



(了)

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大いなる喪失 和泉茉樹 @idumimaki

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