.11 十八年
入社十年目。
朝、顔を洗う為に鏡を見てから僕はすぐ兄に話があると連絡をした。
直接会って話したいと言うと、会社で聞くと兄は返した。
父親のあとを継ぎ、兄が会社で居座るのは、社長室だ。
妻に朝の挨拶をすることなく、朝早く僕は家を後にした。
出社後、僕は職場であるマーケティング部のあるフロアには寄らず、真っ直ぐ社長室のある九階へと向かった。
エレベーターから降りて社長室の前にある受付で、秘書兼受付嬢にアポイトメントの確認を取られる。
顔をよく見てみるとその秘書兼受付嬢は小鳥遊優希さんだった。
いつの間に異動になっていたのだろうか?
小鳥遊優希はこちらを見ても何の反応も見せず淡々とアポイトメントの確認作業を行っていたので、僕も余計なことを言わないでおくことにした。
僕と違い未だに未婚の兄がどうやら秘書と良い感じの関係らしいと、ちらほら噂には聞いていたのでそこらの真偽を確認したかったが数年前とはいえ微妙な関係だった僕からそれを聞くのは無粋と言うものだろう。
もし兄と結婚して義姉となられると少し気まずくも思うが、家族ぐるみの関係などこの先築くことなど無いなと考え直した。
小鳥遊優希は内線で社長である兄に連絡を取り確認すると、僕へ入室の許可を出した。
兄弟だというのに何とも面倒な関係になったものだ。
ここまで段取りしているのだが、一応来訪のノックをしておく。
入れ、と言われてドアを開ける。
昔、父親の部屋に呼び出された時のことを思い出す。
あの時は、何か怒られて呼び出されたんだっけ?
理由が何かは全く覚えていないけれど。
どうせ父親にしかわからないようなロクな理由じゃなかったのは覚えている。
兄の優秀さに満足していた父親は、とりあえずで僕に対して接していたので父親としてのフリをやっていただけな気がしている。
四十を過ぎた兄の姿にこの社長室にいた頃の父親の姿を重ねる。
嫌なぐらい似てるものだなと思う。
本人達もきっとそう思っているだろう。
母親似の僕にはきっと思えないだろう感覚だ。
羨ましくは無かった。
「それで話というのはなんだ? 急に話があるなんて珍しいじゃないか? 例の人事の件か? あれならいつもの膿出しだと説明しただろ? 経緯や今後についてもまとめた資料は送っておいたはずだが――」
僕が兄に話があるなど伝えることは、兄の言う通り珍しいことであった。
いや、今まで無かったかもしれない。
憧れの兄の負担になるまいと、僕は僕の悩み事などは自分で解決してきた。
相談事なんて考えたこともなかった。
「兄さん、ヒーロー・チェーンって知ってるかい?」
その言葉を口にして、その言葉を兄の前で吐き出せて、僕は長く胸につっかかっていた溜飲を下げた。
ようやくだ、ようやくこの言葉を言えた。
「ヒーロー、チェーン? 何の話をしてるんだ、或人。すまない、私の勉強不足なのかもしれないが、それは何か仕事に関わる話なのか?」
兄が知らないであろうというのも想定内だ。
兄は父親のあとを継ぐ為にと死に物狂いで仕事に没頭していたのだ。
元マーケティング部であれど、仕事に直接関係のない胡散臭い都市伝説なんて知る由もないだろう。
僕は鞄から用意していたノートパソコンを取り出し開き、兄に画面を見せるように机に並べられる書類の上に置いた。
ヒーロー・チェーン。
選ばれた人間が、心から愛している人をモンスターから守る為に変身しなければならないというモノ。
そして、それが不規則に無秩序に他人に受け継がれていくという都市伝説。
愛情の形は様々だ。
恋人に対する愛も、自分に対する愛も、家族に対する愛もそうだろう。
そして僕も家族に対して――兄に対して心の底から愛を抱いている。
「これが、こんな子供の遊びが何だと聞いてるんだ。ふざけているのか、早く用件を言ってくれ」
優秀だと散々持て囃されてきた割に、ここぞという時は勘の悪い兄だ。
何も無くこんな都市伝説をただ教えに来るわけはないだろう、ルールを見ただけで理解すればいいのに。
「兄さん、コイツを見てくれないか?」
僕はそういってポケットからウェットティッシュを取り出すと首筋を拭いた。
何をしてるのか、と不思議がる兄の目に首筋の痣が映る。
「痣? 或人、お前にそんなものいつの間に出来たんだ?」
「今朝だよ。長く、長く、十八年待ってようやくこの痣が浮かび上がった」
顔を洗おうと鏡を見た際、僕は歓喜に震えた。
そのまま静かに時を待っても良かったのだが、せっかく十八年も待ったのだから最後まで見届けたくなった。
「痣を待っていた? さっきから本当に何を言ってるんだ、或人。私にもわかるようにちゃんと説明してくれないか?」
未だに何も察しない兄。
いや、はなから僕が見せたネット記事の内容を読む気が無いのだろう。
説明を求めるくせになんて失礼な態度だろうか。
説明はとっくに終わっているというのに、二度手間じゃないか。
「最初にヒーロー・チェーンの事を聞いたのは、十八年前。僕が高校生の頃の話だ。その頃のヒーロー・チェーンというのは今ほど世間に騒がれるものじゃなかったか? ああ、兄さんは知らないだろうが、ヒーロー・チェーンっていうのは今や何でもかんでも事件に結びつけられるような都市伝説なんだよ。そのぐらい有名になってしまった。だけど、昔は違った。ずっと女子高生の間で流行ってるなんて銘打たれているけど、十八年前はそれもほんの小さなグループだけのことだったんだ」
ネット記事になることも無かったんじゃないかと思う。
僕もヒーロー・チェーンという言葉を聞いた後検索したが、まだ出来たばかりのSNSで話のネタとして少しばかり話題に上がる程度だった。
「あの当時はヒーロー・チェーンの理不尽で残酷なルールを信じる人間なんてほぼいなかったんだ。その代わり、恋愛のおまじないみたいな流行り方をしていてね。ほら、この首筋に出来る痣。こいつはその痣が出来た人間が心底誰かを愛している時に浮き上がるものなのさ。わかるかい? 女子高生はそこに恐怖よりロマンスを抱いたんだってさ。誰か私の為に痣作ってくれないかなー、とか言ってたよ」
高校生の時、クラスの女子グループから聞こえた噂話。
たわいもない恋愛話だと思っていたが、内容はオカルト寄りのものだった。
「僕は――その誰にも信じられていない理不尽で残酷なルールの方に興味が湧いた。痣が出来た人間――選ばれた人間が、心から愛している人をモンスターから守る為に変身しなければならないという話。変身したならば、その後変身したものは命を落とし、変身を拒めば心から愛している人物がモンスターに殺される」
僕の説明に兄は顔を引き攣らせる。
理解したのか、理解できなかったのか。
低い唸り声が聞こえた。
「なぁ、或人。冗談なんだよな、ここまでの話も、今聞こえた声も。何か仕事の話の為の前フリなんだろ?」
ひくついた顔で兄は懇願するようにそう言い出した。
ああ、やっと理解したのか。
低い唸り声がまた聞こえた。
耐震設備の整ったビルの九階だというのに、響く唸り声で足下が震えている。
ああ、本当に現れてくれた。
朝、痣を確認してから疼きはしたものの確証が無かった。
これだけネタばらしをしたというのに、痣自体も思い込みによる気のせいだったとしたら洒落にならなかった。
低い唸り声。
下から突き上げてくるような足音。
鳴り響く社長室の電話。
振動する胸ポケットにあるスマートフォン。
都市伝説が本当であったと、誰しもが告げているようで歓喜に包まれる。
「何故だ、何故? 或人、お前はそんなに私を殺したかったのか?」
殺したかった?
いいや、違う。
そんな単純な感情はとっくに塗り替えた。
幼き頃は両親に愛され誰からも持て囃される兄に、一生敵う相手ではないと思い知らされた兄に、妬みと恨みを抱えていたのは確かだ。
だが、違う。
それじゃあ、ヒーロー・チェーンは発生しない。
だから僕は感情を混ぜ合わせたのだ。
ただ自分に嘘を刷り込ませても効果は無いのかもしれないと、そう考えて本当を混ぜた。
「違うよ、兄さん。僕は兄さんの事を愛しているんだ。家族として大事に思ってる」
兄の事を尊敬して。
兄の事を誇らしく思い。
兄の事を愛してやまない。
この世のものとは思えぬ唸り声が近づいてくる。
「だったら、だったら何故お前は! お前は、笑っているんだ!? この状況を、この馬鹿げた都市伝説を笑っていられるんだ!? この都市伝説通りなら、私かお前は死ぬことになるんだろ!?」
笑ってる?
ああ、もう隠しきれないのか。
まだまだだな、僕も。
社長室の外で何かが壊されたような音と、悲鳴が聞こえる。
ああ、小鳥遊さんも巻き込んでしまったのか。
まぁ、仕方ない。
「違うよ、兄さん。まだちゃんとわかってくれてないんだね。僕は兄さんを愛しているんだ。殺したいほど、愛しているんだ」
そう、そうやって僕の幼き頃から抱いていた殺意を愛情にへと混ぜ込んだのだ。
嘘偽りのないように。
万が一、ヒーロー・チェーンが発生しないということが起きないように。
僕はそうやって僕の望むような愛情を作り上げた。
ちゃんと、わかってくれたんだな、ヒーロー・チェーン!!
「た、助けてくれ、或人! 頼む、私は――俺はまだ死にたくないんだ! まだ俺の生きたいように生きていないんだ!!」
僕の肩を掴もうと机越しに手を伸ばしてくる兄。
僕が後ろに下がり避けたので、机に突っ伏しように倒れ込む。
生きたいように生きてない?
だから、何だ?
そんな事知るか?
お前の考えなんて知るか!
僕は――
→助けない
助けない
助けない
低い唸り声が間近に迫ってきていた。
巻き添えを食わないよう部屋の隅へと避けた。
ミシミシとドアが音を立てていく。
ここに辿り着くまでに誰にも僕の首筋に痣があるとは見られていない。
今日からは謎の事件で兄を失った悲劇の弟として会社を受け継いでいこうじゃないか。
首筋の痣が疼いた。
待ち望んでいた疼きだった。
僕は愛おしくなり、痣を撫でた。
仄かに――冷たかった。
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