.10 クリニック

 自転車を十分ほど漕いで、個人病院クリニックに着いた。

 この周辺にある総合病院は軒並み午前診療までなので、午後七時まで診療受付をしているこのクリニックはご近所御用達なところがあって割といつも混雑している。

 五階建てのビルの三階にあるワンフロア分もない小さなクリニックなのだけど、併設してリハビリテーションマッサージ施設もあるので風邪などの病気の診察に来た患者以外にも、リハビリ客で待合室の席は埋まっていた。


 椅子取りゲームのように診察の順番が来たとかで空いた席の取り合いが静かに行われ、何とか座ることのできた私は、受付から名前を呼ばれるまで隣に座る剛志が今日保育園でどう過ごしていたのかを聞いていた。

 最近よく聞くことになったまさはるくんときょうへいくんの名前以外に、ちょくちょく挟まれるともちゃんという女の子の事が気になった。

 すっかり初恋なんてものをしちゃいだしてるのだろうか。


 心底楽しそうに話す剛志の保育園での出来事を聞いていると――


「ヒーロー・チェーンって知ってる?」


 突然聞き覚えのない声をかけられて顔を上げると、剛志のそばに見知らぬ女性が立っていた。

 私は何だと警戒して、剛志の身体をそっとそばに寄せる。


 保育園の保育士の先生では無さそうだ、チラッと見た記憶もない。

 大体見た感じ、年下っぽかった。

 控えめな化粧の感じとか肌の感じから、女子高生ぐらいだろうか。


「あの――」


 何の用ですか?

 誰ですか?

 何言ってるんですか?

 聞きたいことは色々あったのだけど、私の質問を見知らぬ女性は遮る。


「ヒーロー・チェーン」


 聞き取れなかったのだと判断されたのか、念を押すかのようにその言葉を繰り返す。

 ハッキリ聞こえた上で何のことを言ってるのだと疑問に思っているのだけど、そこを察してはくれないようだ。


「何です、それ?」


 失礼な態度を取られてるので、タメ口でもいい気がしたのだけど、よくわからない行動を取ってる相手に刺激を与えても不味いのかもと敬語になってしまう。

 個人病院なれどここはやっぱり病院なので、精神的に病んでる人とかだったりしたら怖いし。

 受付の看護師とか周りの患者が特に動いたりしないところからして、この女性が色々と変な行動を取る常習患者では無いことはわかった。


「そう、知らないならこれから知ることになると思う」


 知らないことをこれから知る、何を当たり前の事を言ってるんだろう。

 今にも泣き出してしまいそうな物悲しげな表情で私をじっと見つめてきてるけれど、演技がかってるみたいで私には胡散臭く見えて仕方ない。

 この子、絡んじゃダメな子かな。

 やっぱり、精神的にアレな子なのかもしれない。


 首元に包帯を巻き付けてるのが、怖く見えてきた。

 女子高生とか女子中学生にありがちなリストカットを、過剰に盛り上がって首でやっちゃったタイプとかだったりするのかな。

 ああいうのってファッション自殺だったりするのに、本気にしちゃったタイプか。

 あるいは、本気にしようとしちゃったタイプか。

 可哀想な私、を演出したがる悲劇のヒロイン気取りの女子はクラスに二人ぐらいはいるもんだから、この子もその一種なのかもしれない。


 とにかく、剛志に危害を加えさせないように気をつけないと。


「ねぇ、お子さんのこと、もっと愛してあげてね」


「はぁ?」


 唐突にかけられた言葉に、私は立ち上がって怒鳴りそうになるほど苛立ってしまう。

 剛志の前だし、他の患者の目もある。

 グッと堪えるものの、睨みつけるぐらいはしないと収まりつかない。

 何でいきなり現れた見知らぬ子に、そんなことを言われなければならないのだろう。


 私は誰よりも、誰よりも剛志を愛している。


 それを上から目線で、何様なんだこの子は。

 見下すような目でも、蔑むような目でもなく、同情するような目なのが余計に腹が立つ。

 何も知らないくせに、何を分かったような目をしてるんだ。


「知念さーん、知念剛志さーん」


 上から目線に耐えきれず、怒鳴りそうになった時に剛志の名前が呼ばれた。

 ふと気づくと、剛志が私の袖を握っていた。


 震えている?

 怖がっている?

 この子を?

 それとも、私を?


「ここちゃん、よんでるよ」


 まるで私の事を制止するように、剛志がそう言ったので、私は冷静になる為に小さく息を吐いた。

 またやってしまった、と反省しながら。


「そうだね、行こうか、つよくん」


 剛志の手を握り、そばに立つ女性を避けるように席を立った。

 反省はするものの、好き勝手言われっぱなしなのは悔しかったので、女性をもうひと睨みしてやった。

 女性は何も反応を返さず、ただ首元に巻いた包帯を触っていた。

 やっぱり、絡んじゃダメな子だったんだ。


 診察室へと向かう途中、別の誰かが受付に名前を呼ばれていた。


「内谷さーん、内谷愛深さーん」

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