.2 平穏無事

 ここちゃん。

 剛志は私のことをそう呼ぶ。


 知念ちねん心結こころ

 旧姓、桂箕けいみ心結こころ

 二十五歳。


 平凡な学生生活を過ごし、平凡な社会人生活を過ごしていた。

 特になんらドラマチックな出来事はなくて、だけどそれについて不満も無かった。

 平凡というのは、平穏である。

 平穏無事であれば、人生そこそこ楽しいのである。

 夢や希望に満ち溢れた人生だけが評価されて望まれるのだけれど、世の中そういう人生を生きれるのはほんのひと握りだ。

 ほんのひと握りだ、ってTVでコメンテーターをやってる何処かのジャーナリストが言ってた。

 だから私はそのほんのひと握りではなかった、というだけの事。

 それだけの事に不満なんて抱けるはずもなくて、平穏無事に生きて、平穏無事に恋をした。


 ただ、私は平穏無事であったが、相手もまた平穏無事だったかというとそういうわけじゃなかった。


 恋愛相手がバツイチ子持ちなんて、今の世の中平凡の誤差で。

 その子供が別れた元嫁の連れ子だったというのも、まだギリギリセーフで。

 その元嫁は事故で亡くなってるってところから、雲行きが怪しくなって。

 そして、結婚して二年目。

 昨年、旦那様も交通事故で亡くなったことで、いよいよ平穏無事だとは言ってられなくなった。


 横断歩道を渡る少女をわき見運転のトラックから庇って死んでしまう、というヒーローなことをやられたもんだから、責めるに責められなかった。

 惚れた男は、最後まで格好良かった。


 そんなわけで、血の繋がりのない私と剛志だけが遺された。

 元嫁とか、旦那様の親戚関係からお声をかけて頂いたが、片っ端から断った。

 何故?、と言われても自分でもよくわからなかった。

 冷静に考えれば、親戚関係の引き取りの提案は、剛志にとっても、私にとっても、いい話なはずだ。

 だけど、奪われたくなかったんだと思う。


 何を?、と言われてもやっぱりよくわからないけど。

 よく分からない私の感情は、私と剛志の関係性にも出ていて、剛志は私をまだママと呼んでくれたことがない。


「知念さん、時間大丈夫?」


 終業時間。

 仕事に没頭すると、いつも時間を忘れてしまう。

 うちの職場にもチャイムぐらいあればいいのにと、いつも思う。

 ビルのひとフロアを間借りしてる立場なので、他の階に迷惑のかかるそんな音はもちろん鳴らせないんだけど。


 寿退社なんてものを華々しくやったというのに、私は図々しくも再就職させてもらった。

 旦那様が亡くなって途方に暮れていた頃に、かつての同僚達が声をかけてくれたのだ。

 上層部にも掛け合ってくれたらしい。

 元からアットホームを求人の売りに出来そうな小さな会社だったので、話はすんなり上層部に通って、私はそれに甘んじた。


「つよくんのお迎えでしょ?」


 かつての先輩、私が会社を離れてる間に出世して今は上司と呼ぶことになった女性が声をかけてくれる。


「いつもすみません、残業も出来ずに……」


 再就職時に申し訳程度に希望を出させてもらったこととはいえ、毎日定時終了となるとやはり気が引けるものがあるものだ。


「気にしないの、ほら。お母さんの通る道よ。大事なのは、何より子供」


 仕事としても母親としても先輩である方のありがたい気遣いに、頭が上がらない。


「ありがとうございます」


 頭が上がらないので、下げることばかり考えてしまう。

 これで私が抱えている感謝の一部でも伝わればいいのだけど。


「頑張ってね、あなたのところは大変でしょうから……」


 軽い返事と軽い一礼をして、身の回りの片付けを慌てて済ましてから、会社をあとにした。


 自転車に跨って、保育園を目指す。

 大変という言葉が何を意味しているのかを考えてしまう。


 母子家庭だから?

 血の繋がりが無いから?


 大変なことがありすぎて、どれのことを指しているのかわからなくなった。

 少しだけ、ほんの少しだけ、イラッとしたので、自転車のペダルを漕ぐ力が強くなった。

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