最終話

 草子は不安になりながら待つ。


 だから、背後からジローの少し足を引きずったような足音が聞こえてきた時は、胸が苦しくなるほどの喜びを感じた。


「おはよう」


 ジローの声で、草子は初めて気づいたような顔をして振り向く。


「おはよう」


「楽しそうだね」


「うん。楽しいよ」


 ジローは自分で入れた珈琲を手に持ち、草子の隣に座り、静かに海を眺める。


 ジローの手足は、枯れ枝のように細くなり、あまり食欲もなくなっていた。


 最近は、夜中になると、痛みで意味のわからない言葉を叫んだり、急に泣き出したりするようになった。


 そういう時、草子はジローの背中をそっと撫ぜた。そしてジローの身体の全てを撫ぜ続けた。


 髪、目、鼻、口、耳、鎖骨、肩胛骨、尾てい骨、そして、足の指の一本一本まで。


 ジローはまだ生きているんだよと伝えるかのように、草子は丁寧に撫ぜ続けた。


 草子に全身を撫ぜられると、ジローは安心したようにまた眠りに入っていくのだった。


 草子にはジローが、少しずつ子供に戻っていっているように感じた。こうやって人は、人生の時間を巻き戻されていくのかもしれない。


 そして最後は無になる。


 何もないところから生まれて、何もないところに戻っていくのだ。


 そう考えると、草子にとって死は怖いものではなくなる。


 いつか自分も無になるのだ。


 だからこそ生きている間は、無でいてはいけないのだ。


 草子は、目の前に広がる海を眺めながら、


「生きてるね、私たち」


 とジローに話しかけた。


 返事がないので、草子はわざと隣を見ようとしなかった。


 草子は長い時間、まっすぐ前を向き、海だけを見続けた。静かな時間が続いていた。


 草子は、歯を食いしばり大きく息を吸い込んで、やっと隣を見た。


 草子の隣で、ジローは幸せそうな微笑みを浮かべて、眠っていた。


 草子は、ジローの髪を撫ぜ、優しく口づけをし、ジローの手から落ちそうになっている珈琲カップをそっと取り、海に向かって投げた。


 出来るだけ遠くへ。




 ジローが無になってから、一ヶ月が経った。


 心配だから一緒に暮らすと百花が言い出したが、草子は優しく丁重に断った。


 宣言通りジローの後釜に座ろうと近寄ってきた松野の存在も、草子は難なくはねのけた。


 草子はジローの死によって、自分を取り戻したのだ。草子は強くなった。


 もう誰も草子の中に勝手に入る事は出来ないのだ。




 草子は、海の近くの喫茶店で働き始めた。


 長年の主婦生活で培った料理の腕をマスターに買われ、毎日誰かの為に料理を作っている。


 生きていた過程の中で自分がやってきた事は、どれ一つ無駄な事はないのだなと、草子は理解した。


 無になるまで生きるんだ。


 草子は、ベランダにある白いベンチに座り、海を眺めながら足をブラブラさせ、自分のお腹を優しく撫ぜた。


 私は一人じゃない。



 (おわり)

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狂恋 はる @harujun666

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