第19話
「楽しそうだね」
あの男の声だ。
草子は閉まったシャッターを腕力だけでこじ開けるように、力づくで目をこじ開けた。
あの男が微笑みながら立っていた。
「やっと会えた」
「毎日きてたね」
「知ってたの?」
「あそこの陰からずっと見てた」
男は少し離れた場所に立っている大木を指さした。
「声かけてくれれば良かったのに」
草子は思わず責めたような口調になってしまった。
「根比べ」
「何の?」
「君と僕の」
「どっちが勝ったの?」
「君」
なんてめんどくさい男なんだろう。
草子はそう思ってしまう自分の気持ちが嫌ではなかった。むしろ、その言葉は自分だけがこの男に持っていい感情だと、誇りにさえ感じた。
「あたしの勝ち」
草子は、前より痩せてしまった男の細い身体を、折れてしまわぬように優しく抱きしめた。
草子は男に会えたら言おうと思っていた事が、一つも言う必要のない事に思えてきた。
草子が言おうとしていた言葉たちは、自分達の間にはなんの関係もない事だと気付いたからだ。
男も一切何も聞いてこなかった。
草子は男をネットカフェに連れて帰った。男は物珍しそうに店内を見渡している。
「入ったの初めて」
「あたしも初めて入った。でも今はここに住んでるし、働いてる」
草子と男は、顔を見合わせて笑った。
百花に男を会わせると、狂喜乱舞という言葉がぴったりくるぐらいの勢いで喜んでくれた。青年も常連客の人達も、事情もわからないのにおめでとうと言ってくれた。
今日の夜のバイトは変わってあげると、百花が言ってくれたので、草子は甘える事にした。
小さな部屋の中で、草子は男に聞いた。
「名前は?」
「田中」
「本当の名前が知りたいの」
「ごめん……本当に、田中」
「嘘だと思ってた」
「嘘くさい名前だもんな」
「下は?」
「笑うなよ」
「笑わない」
「二郎」
草子は思いっきり吹き出した。
「だから嫌なんだよな、名前言うの」
田中は拗ねたように笑った。
「ごめんごめん」
草子は気づいていた。いつの間にか二人とも敬語でなくなっている事を。その事が嬉しくて楽しくて、だから草子は敢えてその事を指摘しないでおこうと思った。
「二郎さんか」
「俺、それ嫌」
「うーん……じゃあ、ジロー」
「犬みたい」
「あたしの頭の中では、カタカナに変換してるから、外人みたいでいいよ」
「外人にジローはいないよ」
「ジョンとかいるし。これも犬っぽい」
「しょうがないな。どうせ少しの間だけだしな」
草子は男の何気なく発した言葉で、いきなり頭の上から水をかけられたような冷たい衝撃を受けた。
忘れていた。
この男はもうすぐ死んでしまうのだった。
何故こんな一番大事な事を忘れてしまうのだろう。この男はこんなに痩せてしまっているのに。
お金がいる。
ジローと暮らす家がいると、草子は唐突に思った。こんなに痩せてしまったジローと暮らすには、ネットカフェの一室では身体に良くないと考えた。
海の近くの白い小さな家で、ジローに最期を迎えさせてやりたいと草子は思った。
草子は少しずつ貯金をしていたが、家を借りられるほどのお金にはほど遠かった。
どうしたらいいのだ。
ジローの命がたくさんあるのであれば、草子は地道に働き、貯金がたまったら家を借りるという通常の動きでやっていけるのにと、初めてジローの命の短さを呪った。
借りるしかないのだろう。だが、家もない草子にお金を貸してくれる場所はサラ金ぐらいしかない。
諦めかけた草子は、ふと思い出す。
イボ蛙。
あの名前も忘れてしまった男が、お金を貸してくれる気がした。確か名刺を渡されたはずだ。草子はほんの少しの自分の荷物の間をまさぐった。濡れたタオルの間から、その名刺は現れた。
水分で字が滲み、あまりよく読めなくなっていた。電話番号の最後の文字が消えていた。
草子はカウンターで千円札を両替して、小銭をたくさん作り、公衆電話を探した。
公衆電話はいつの間に、その存在を消し去ってしまったのだろうか。どこを探しても見つからない。
今は携帯電話の時代なのだ。
あまり草子は、携帯に興味がなかった。かける相手もいない自分に、いつでも人と繋がる携帯は必要なかった。
夫からは家の電話にかかってきていたし、草子は外出をあまり好まなかったので、夫の電話はかなりの確率で取ることが出来たから必要性を感じなかった。
草子は家にいるときは、音楽も聞かず、無音の中で本を読んでいた。没頭して本の中の世界に浸っているのが、草子は好きであった。
ただ、本を読み終え、本から目を外した時の感じが、夢から覚めた時のようで、いつも草子は寂しくなった。
どちらが現実なのかわからなくなる瞬間。
草子は本の中に逃げ帰りたくなった。現実にいたくないと抵抗した。だが、今はジローのいる現実にいたいという気持ちが勝ってしまった。
一番大事なのは、海の近くでジローと暮らす事だと、草子は渋々携帯電話を作りにいった。
(つづく)
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