第17話
縄を噛み切る力も既に無くなり、草子は壁にもたれて、何も感じないように心を閉ざしていた。
その時、階下でガラスの割れる音がした。
草子は床に耳を近づけ、何が起こったのか確認しようとした。
階段を上ってくる足音が聞こえる。
草子は、恐怖を感じ逃げようとするが、手足に食い込む縄のせいで、逃げることすら出来なかった。
あたしはなんて無力なんだろう。
弱い者であり続けるしか、生きていく術はないのだろうか。
強くなりたい。
草子は足音が大きくなるのを感じながら、よりいっそう強くなりたいと切望するのであった。
ドアがそっと開かれた。足音はあんなに大きかったのに、ドアをそっと開く相手に、草子の恐怖は途端に小さくなっていった。
「あっ」
という小さい叫び声がしたので、草子は不自然な顔の上げ方で、そちらを見た。
百花が驚いた表情でこちらを見ていた。草子は足音が幸運への道だったと確信した。百花は困惑の表情を浮かべて、草子を見ていた。
そうだ。今自分は全裸で、唇から血を流し、そのうえ手足を縛られているのだった。日常からかけ離れた姿をしているのだ。百花が驚くのも無理はない。
「百花ちゃん」
草子がかすれた声で呼びかけると、百花は催眠術が解けたように、草子の元に駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
百花は、草子の手足の縄を凄い早さで解いてくれた。一刻も早くこの場から立ち去りたいのだろう。
草子は長い時間縛られていたので、なかなか手足の感覚が戻らなかったが、百花と一緒に着るものを探し、やっと服を着る事が出来た。
服というものはなんと素晴らしいものなんだろうと、草子は普段当たり前に思っていた事に感謝した。
人は、全裸でいると不安でたまらなくなる。服を着ていると安心する。きっと心も全裸だと、人は不安でたまらなくなるだろうと草子は想像した。
全てをさらけ出すなんて、恐怖以外の何者でもない。どのぐらい自分をさらけ出すのかも、自分で決めたいと草子は思った。
自分をどこまで相手に見せるか、その分量は、その都度、相手によって自分で采配する。
見せたくなければ、見せなくていい。
草子は、自分ではまだ気づいていないが、近頃いろんな事を考えるようになっていた。草子は以前とは、少しずつ変わってきているのだ。
「草子さん、ここから早く逃げよう」
百花は、この家にいると息苦しいと草子に訴えた。そう、ここは鳥かごの中だからだ。
草子は、手早く自分の身の回りのものを鞄に詰め込み、一階に下りた。
窓が大きく割れていた。
百花のどこにそんな力があるのかと驚いたが、夫が帰る前にここを出なくてはと、草子は一度思考を止めることにした。
思考すると、身体が止まる。
身体を使うと、思考が止まる。
人間とは面白い生きものだと草子は思った。
止められない。
草子は思考を止める事が出来なかった。
人は生きてる限り思考する。
「早く」とせかす百花に頷きながら、草子は部屋の中を見回した。
テーブルの下に落ちているチラシを拾い、その裏に、
―お世話になりました。離婚届は後日郵送します。二度とあなたに会う事はないです。さようなら。草子―
草子はわざと乱雑な字で書き、テーブルの上に乱雑に置いた。自分の気持ちを示すかのように乱雑に置くべきだと思った。
そして草子と百花は、玄関の鍵を開け、胸を張って家から出て行った。
(つづく)
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