第16話

 夫に何を言われているのかわからず、草子は戸惑った。いったい何がおかしいのだ。


「離婚届は後日送ります。今日は少しだけ服とか持って」


 そこまで言った時に、ぐらりと眩暈がした。

 草子は立ち上がろうとするが、身体に力が入らないのだ。


 まさか……毒?


「安心して。毒なんか入れたりしてないからさ」


 夫は歌うように、草子に喋りかけてくる。


「離婚なんかするわけないでしょ。俺の出世に響くだろ」


「騙したの?」


「騙される方が馬鹿なのさ」


 夫は力の入らなくなった草子を軽々と担ぎ、かつて二人の寝室であった場所に草子を連れて行った。


 草子をベッドに投げるように下ろすと、いつの間に持っていたのか、細い縄で草子の手足を縛り始めた。


 毒をもられたのは私の方。


 草子はあまりにも無防備で馬鹿だった自分を、心の中で責め続けた。


 せっかく自由になれたはずだったのに。


 夫は草子の手足を縛り終えると、期待に満ちた笑みを浮かべながら、草子の上にのしかかってきた。


「子供欲しかったんだろ」


 夫は器用な手つきで、草子の服を脱がしていく。草子が一緒に暮らしていた時の夫とは違う人間の様に見えた。


 服が全て脱がされ、一糸纏わぬ姿にさせられた草子は、ただただ絶望していた。


 夫は、以前は見向きもしなかった草子の乳房を手で弄ぶ。夫が丁寧に愛撫すればする程、草子の心は渇いていった。


 きっと浮気相手には、こんな風に丁寧に懸命に、相手を喜ばせる事だけに夫は心を注いでいたのだろうと知らされてしまう程の、夫の手の動きであった。


 夫の手が、草子の一番感じる場所に辿りついた。


 草子は絶対に感じるものかと歯を食いしばった。だが、敏感な場所を執拗にこすられてしまうと、自分の意思だけではどうする事が出来ない事実に、草子は愕然とする。


 自分の身体は、自分の感情と一致しない。


 急いで草子は思考する。

 身体と共に心までもが、汚されてしまわないように。


 これは原始人が火を熾す為に、木を擦り続ける行為と同じなのだ、と草子は自分に言い聞かせた。


 擦れば火が出る。


 ただそれだけの事だ。


 しかたなく、草子は夫の手によって快楽の穴に落とされていった。




 寒い。


 いつの間にか、草子は眠ってしまっていた。こんな状況でも人は眠れるのだなと、一人苦笑した。


 草子は、夫がセックスまではしていない事に安堵した。好きでもない男に、自分の身体の中にまで入られるのは、やはり抵抗がある。


 草子は、手足が縛られ一糸も纏っていない裸の自分を見て、ため息をついた。草子が逃げられないようにしているのだと思うと、少しだけ夫が哀れになった。


 こんな事は一時しのぎなのだ。現実から逃げているだけなのだ。夫は昔の私にそっくりだと草子は気づいた。


 夫の浮気を認めたくなくて、赤い口紅がついたシャツを洗い続けていた自分と、今の夫は同じだ。


 だからと言って、夫の気がすむまで付き合ってあげる事は、私には出来ないと草子は思った。


 時間がないのだ。


 だって、あの男はもうすぐ死ぬのだから。


 草子は手足の縄を解こうとするが、夫の草子への憎しみの深さが縄の堅さであるかのように、縄は解こうとすればするほど、草子の手足に食い込んでくる。


 たぶん夫は今会社に行っているはずだ。夫が戻ってくるまでに、この縄を解かなければと、草子は焦りを感じた。


 今日は昨日のようにはすまない気がした。蛇が蛙をいたぶるように、少しずつ夫は草子を犯そうとしているのだ。


 まるで傷つけられたのは、自分の方だと言わんばかりに。


 草子は罪悪感で押しつぶされそうになってしまった。夫をあんな風にしてしまったのは、自分が悪いからなのではないのか。


 まただ。


 夫といるといつも草子は自分が悪いと感じてしまう。


 草子は、必死であの男を思い出す。

 自分を解放してくれたあの男。


 男を想うと、草子は力が湧いてくる。自分が自分らしく生きていきたくなるのだ。


 草子は、口を手の縄に寄せ、食いちぎろうとせんばかりに縄に歯を立て始めた。この縄さえ解ければ、自分は自由になれるのだ。


 草子の唇が切れた。唇から血が流れている事にも構わず、ひたすら縄を噛み切ろうとした。


 草子は傍に人の気配を感じ、横を見た。


 口から血を滴らせている女が、こちらを見ていた。


「ひっ」


 草子は恐怖で声をあげたが、すぐにその女が、鏡に映っている自分だと気づいた。草子はまじまじとその女を見た。


 草子はわざと笑ってみた。


 あちらの女も笑っていた。


 まるでゾンビだと、草子はおかしくなった。人でも食ってきたようだ。全裸で口から血を滴らせている私は、ゾンビだ。


 草子は笑い続けた。笑い飛ばす事で、惨めな気持ちを消し去れればいいと笑い続けた。


 笑いが止まると、今度は草子の目から涙が零れ落ちた。


 横を見ると、惨めで哀れな女が泣いていた。



 (つづく)

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