OoL/IN SAGA 国立軍附属魔法化学士アカデミー

Team B.D.T.

揺籃編

第1話 黒い霧

Phase 1 予期せぬ出来事

――少年に見える世界は、他の人間が見ている世界とは少しだけ異なっている。



 日高玲ひだかれいは通い慣れた通学路を歩く。彼の落ち着いた暗緑色の髪を、春風がさっと撫でる。

 彼の周りには、同じデザインだが真新しい中学校の制服に身を包んだ新入生たち。どの顔にも緊張の色がうかがえる。

 去年は自分も同じだったと玲が思い返していると、そのすぐ横を小学生数名が笑い声とともに走り抜けていく。

 そんな光景を見て、犬を連れた老夫婦が柔らかく微笑でいる。

 また玲の向かいからは自転車がやってくる。乗っているのはスーツ姿の男性で、朝にもかかわらず、疲れた表情で欠伸していた。

 朝のひと時。多くの人たちが行きかい、街に活気が満ちていく。

 しかし、彼の瞳には黒い霧が映っていた。

(ああ、やっぱり今日もいる……)

 霧に絡みつかれた女性がコンビニエンスストアから出てきた。

 人間の形をぼかすように、その黒い霧は彼女の身体中に纏わりついている。

 一瞬でも目を凝らして見たせいで、玲の背筋にゾクリと悪寒が走った。

 遠ざかるように玲は信号が変わると同時にそそくさと横断歩道を渡る。玲は表情を歪ませながら、胃酸がこみ上げてくる不快感に耐える。

 アレはいったい何なのか?

小さな子供の頃から幾度となく見てきた黒い霧。けれど、玲は何も分からない。ただただ不気味でひどく忌避感を覚えてしまう。しかも酷いものになると、黒霧は角のような突起が生えた化け物じみた形象に見えるのだ。

 できるのは近づかず、関わらないことだけだ。




佐賀市大和――日高玲が暮らす街だ。

ここには肥前国庁跡がある。肥前国庁が築成されたのは出土品から八世紀前半と推定されており、およそ一三〇〇年経った現在は歴史公園として残っている。

 今、玲が向かっているのはその歴史公園の近くに建てられた中学校だ。

 玲は左手首につけたブレスレット型のマジック・デバイスに触れる。

 ブレスレットから柔らかな光とともにホログラムインターフェイスが立ち現われる。そこには、2053年4月7日(月)7時47分5.02秒――と日時が表示されていた。

 今日は始業式ということもあって遅刻するわけにはいかないが、焦る時間でもない。

 小さな液晶部分を指先で軽くタップし、玲はアプリケーションを起動させる。

 すると、おもむろに玲の頭の中に映像のようなものが想起されていく。

『次はこの春発表された新型車についての続報です! 最新モデルとともに根強い人気のレトロモデルも発売されるとのことです!』

 認識としては、映像でもあり音声でもあるような情報が送り込まれている感覚だ。自分の思考とはまったく別のイメージが脳内で結ばれる。

『フォルムは懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか? もちろん現代の技術でアップグレードされています』

 玲の脳裏ではエンジンが動いている様子が展開される。

『ご存じの方も多いでしょうが、OOデュアルオーエネルギーは、人間が持つ意志の力に反応して、理論的には無尽蔵にエネルギーを生成できる技術です。この技術が応用されたエンジンを搭載した自動車は、旧来のものと比べ物にならないほどクリーンで低燃費とされており、環境問題解決の一助にもなっています』

 ニューストピックの情報は脳内で再生され続ける。

 新型車の形状が分かるように、ゆっくりと回転している。初めはボディ前方が正面。徐々に側面のサイドシル、そして後方のリアバンパーとテイルランプが見えてくるだろう。

 一方で、少し横を向いた玲の視界は、車道を行きかうデュアルオーエンジン搭載の自動車を捉えていた。騒音も少なく、臭いもない。

OOデュアルオーエネルギー技術に代表される「魔法化学」の研究は二十年以上我が国が世界をリードしており、そのエキスパートである「魔法化学士」教育においても中心的な役割を担っているのです』

 恩恵は非常に大きい。

玲も今まさにマジック・デバイスを通して体験している。この一種の二重並列的な思考がその一つだ。魔法化学をもたらすことになった《OoLウール粒子》が情報伝達の媒体となり、脳への負荷を抑制することで実用化に至った。魔法化学の産物というわけだ。マジック・デバイスには様々な形状があるが、玲が着用しているブレスレット型が主流になっている。

 これらの技術は身近でなくてはならないものになっており、改めて聞かされても玲に驚きはない。日本がこの分野の最先端だと言われても、住んでいる人間からすればいまいち実感が湧かない。しかし、教育の中心というのは玲も肌で感じることがある。

玲が住んでいる町の近くに「国立軍学校付属アルカディア特別魔法化学士アカデミー」の本校があるからだ。その母体である研究所ができたことで、日本は経済的に大きく発展し、人口や人の行き来が増大。交通インフラも整備されたという。

 玲自身、この世界的に有名な学校に通う生徒を見かけることは日常的に多い。

 そんなことを考えているうちに、朝のニューストピックは芸能人や今週封切られる映画に変わっていた。玲は再びマジック・デバイスに触れ、停止させる。芸能人がどうしたこうしたといったゴシップには興味がない。

 前方の信号が点滅し始め、交差点を前に玲は歩みを緩める。

 ――キィィィィっ!

 急ブレーキでタイヤが擦れる音が響く。耳を塞ぎ玲は顔をそむけた。

 少しでも離れようとした矢先、玲は腕を捕まれ強い力で身体を引っ張られる。

「っ!?」

 乱暴に玲は尻から自動車の座席に叩きつけられる。そこは大型のバンの中。誘拐!?――と気づいた時にはすでにドアは閉められ、信号無視の急発進だ。車外からは悲鳴も聞こえる。

 しかし、その時に制服を着た玲のホログラムが偶然見えた。助手席の男が腕につけたブレスレット型マジック・デバイスで映し出されている。

「どうして……僕なんかを」

 玲の声に答えたのは、運転手でも助手席の男でも玲を車内に引き込んだ男でもなく、左に座る帽子を目深にかぶった男だった。

「静かにしていろ」と低い声で言われた。ナイフを見せられながら。

 ハッと息をのむ玲から、男は慣れた手つきでマジック・デバイスを奪い取った。

「金が手に入ればそれでいいんだ。殺されたくはないだろ?」

「…………」

 玲はそう言われて、押し黙った。

 肌に刃を当たられたわけでもないのに、その冷たさと硬質さを玲は想起した。

 これからどうなるのだろうか? 

 不安が大きくなる一方で、玲は諦観めいた気持ちを抱いていた。

(僕を誘拐しても身代金なんて手に入らないんじゃないか……?)

 家族。

 同じ家で生活していても、別々に生きている――玲にとってはそういう存在だ。息子が事件に巻き込まれたとして、両親がどういう行動を取るのか想像がつかない。

玲がそんな風に考えていると、嫌な感じがした。薄っすらとあの黒い霧が車内に漂い始めていた。四人の男たちは何事もないように金の話に夢中になっている。

 玲は顔をしかめそうになるのを堪え、平静を装う。一刻も早くここから出たいという気持ちでいっぱいだった。

大型バンは走行を続ける。

窓の外の景色は玲に馴染みのないものになっていた。ただ、高速道路にも乗っていないし、さほど遠くまで行っていないはずだ。住宅は少なく、見えているのは工場と思しき建築群だ。繁華街のような華やかさとは無縁だ。男たちのアジトのような場所にでも行くのだろうか。

「ちっ……なんだアイツ!」

「バカに構うな。避けろ」

 苛立たしげな声が車内に飛び交う。

荒々しい運転で大型バンは急に対向車線に入り、玲の身体が大きく揺らされる。

「うわっ!」

 犯人たちもそれどころではないようで、声を出した玲を咎めることもない。玲は何があったのか確認しようと顔を上げた。

 ドスン!――という大きな衝撃。また車が揺れる。

「な……!?」

フロントガラス越しに、ネクタイを締めスーツを着た青年の姿がある。

(……嘘!?)

彼が両腕を突き出しているのがわずかに見えた。

「冗談じゃねえぞ……ボンネットを潰されたっ!?」

「そうじゃねえだろ、なんで車を止められてんだよ……!!」

信じ難い言葉が玲の耳に入ってくる。そして、次第にキュルキュルと空転していたタイヤの音も小さくなって消えていく。

 走行中の大型バンを青年が受け止めたという事実に、玲だけでなく車内の全員が言葉を失っていた。驚愕をよそに青年はすたすたと歩き出す。その瞬間、彼と玲の視線がぶつかった気がした。

 助手席から運転手に指示が飛ぶ。

「さっさと出せっ!」

「ダメだ、エンジンが……!」 

アクセルを運転席の男が踏む。何度も何度も。だが、車は止まったままだ。

 誘拐犯たちの焦りの色が濃くなる。車体の側面に来た青年がバンのスライドドアを無理やり開けようとしているらしく、ガンガンガタガタと音がしている。

「……ひっ!」

 玲を車内に引き込んだ男が小さく声を漏らす。しかし――ロックごと壊れてドアが開くと同時に、

「うわあぁ!? おい……やめ――」

 スーツ姿の青年に片手を掴まれて放り出されていた。残りの誘拐犯たちもドアを開け、脱兎のごとく逃げ出している。

 玲は動けず、呆然と青年を見るしかできなかった。

「大変な目に遭ったね、怪我はないかな?」

 にこやかな表情を浮かべ、青年は玲を気遣う。

 一瞬迷ったが、玲は車から降りることにした。ちらりとスライドドアを見ると完全にひしゃげている。

「……は、はい」

車を降り、玲はようやく短い返事をした。

人知を超えた怪力の持ち主を前にそれしかできなかったというのが正直なところだ。状況的には助けてもらった形だが、このスーツの青年も得体が知れないことには変わりがない。

 身長一六〇センチの玲に比べて、背は高く彼を少し見上げる格好になる。

「日高玲くん」

 玲は面識がないのに、相手の方が知っている。それは決して安心材料にならない。緊張を解かずに玲は言葉を探す。

「えっと……」

「君は命を狙われている。私は君を守るために来た」

「……え?」

 意味が分からなかった。

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