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「私は壊してない」部室に姿を現すなり、琉夏さんはそう主張した。「皐月が壊したんでもない」

「じゃあどういうわけなの? 勝手に壊れたの?」

「まさにその通り。今回の件について、文芸部にはなにひとつ責任がない」

 自信満々である。なにか根拠があっての発言なのだろうが、生徒会を相手にこうも堂々としていられるのが凄い。生来の図太さがなせる業だろう。

「私たちも犯人捜しをしたいわけじゃないし、それぞれの部活には快適に活動してもらいたいんだけど――いちおう状況は記録しておかなくちゃいけないんだよね。倉嶌さん、これに気付いてすぐに報告してくれたってことでいいよね?」

「もちろん。隠し立てする意味がないからね。にしても生徒会、昨日の今日ですぐ視察に来られるもんなんだね。文芸部なんて弱小集団、延々後回しにされ続けるのかと」

「今年の管財担当はしっかり者だから。で、文芸部としての希望は? 修理?」

「できれば買い換えてもらいたいね。こんな骨董品使ってる部活、他にある? どうしても無理なら余所から代わりの棚を回してもらってもいい。どこかで余ってるのがあるでしょ」

 目黒さんはこの要求を書き留めてから、

「私だけじゃなんとも言えないから、ちょっと一緒に来てもらってもいいかな? 担当と直接話してくれる?」

 そういった次第で、私たちは目黒さんに連れられて生徒会室へ向かった。文芸部の部室がある文化部棟は、本校舎と渡り廊下で繋がっている。やたら古めかしい木製の天井が、規則的に並んだ柱で支えられているだけの代物である。非常にみすぼらしく、運が悪いと得体の知れない蟲と鉢合わせたりするのだが、このときは幸いにして、無事に向こう側へと到着することができた。

 本校舎中央廊下の壁に、〈杠葉高校のあゆみ・その一〉と題された作品が貼ってあった。各年代の出来事を取り上げて紹介するという趣向で、今回は三十年ほど前に焦点を当てているらしい。恐ろしく几帳面な人物が作成した気配が濃厚な、言ってしまえば堅苦しい展示だ。

「それ、凄いでしょ」と目黒さんが嬉しそうに言う。「律ちゃんがひとりで完成させたんだよ」

「律ちゃんってのは何者? 学校史の研究かなにかやってる人?」

「ううん、生徒会役員。今からふたりに会ってもらう人だよ。優等生でね、成績はずっと学年で五位以内」

 途端に琉夏さんの表情が曇った。私の耳に顔を寄せてきて、「属性石頭って感じだな。どうしよう、困った」

 目黒さんが生徒会室の扉をノックし、引き開ける。テーブルでなんらかの資料を確認していると思しい人物に近づいていき、

「律ちゃん、文芸部の人たち。例の本棚の件で」

 ああ、と不機嫌そうな声を洩らしながら、女生徒が顔を上げる。「自分らでぶっ壊したんでしょ。どう責任取るって?」

「壊してないんだって。話、聞いてあげてくれる?」

「じゃあなに、勝手に壊れた? 馬鹿じゃないの。そんなくだんない言い訳が通るかっての」

 吐き捨て、こちらを振り返る。三白眼が私たちを射た。その鋭さに身震いした。

「文芸部? 年度当初に修繕の予算が付けてありますよね。それで直してください。生徒会としては以上」

 私ひとりならば、はいすみませんでした、で即座に退散していた。この人、態度も怖ければ顔も怖い。冷たく研ぎ澄ませた感じとでも言おうか、対面していると極度の緊張を強いられるタイプだ。

 苗字は楠原さんだった。私と律ちゃんは幼馴染で、などと解説しようとする目黒さんを、余計な話はいい、と黙らせて、

「そういうわけだから。帰って活動に励んで」

「まあ聞いてよ。修繕費ってさあ、毎年慣習として付けてるだけで、言っちゃえば雀の涙みたいな額なんだよね。それであの太古の遺物を直したところで、どうせすぐガタが来ると思うんだけど」

 怯むことなく言い返した琉夏さんに、私は一種の尊敬の念を抱いた。凄まじい精神の強度である。恐怖心というものを根底から欠いているのかもしれない。

「だから予算を組み替えろと? どの部活も割り当てられた額で活動してるんだよ。あんたらだけ特別扱いはできない」

「あっそ」琉夏さんは携えてきたファイルを広げ、生徒会のふたりに突きつけた。「これ、私が部長になったときの部室の写真なんだけど、当時から微妙に棚が歪んでるのが分かるよね? 隣が今年の春。ちょっと広がってるでしょ? 私は最初、この写真を添付したうえで、もう寿命だから買い替えの予算を付けてくれって要求したんだよ。なのに急な増額は認められない、例年通りの修繕費のみとする、とか言って突っぱねられたわけ。つまり見通しが甘かったのは生徒会」

 滔々と語ったのち、私に向けてしたり顔をしてみせる。彼女のこの準備の良さには、ただ純粋に驚くほかなかった。万事どんぶり勘定、細々した事務作業はいっさい御免の人ではなかったのか。

 さすがにこの理屈は効果があったようで、目黒さんは少し感心したような、楠原さんは苦虫を噛み潰したような顔で、琉夏さんを見返していた。ややあって楠原さんが吐息交じりに、

「文芸部って普段、どんな活動してんの? あのサイズの本棚は必須?」

「必須だね。文芸部に本棚がないってありえないでしょ。活動内容は部誌の刊行と、月何回かの読書会」

「活動記録は?」

「そんなもん取ってないよ。それこそ必須? 聞いたことないんだけど」

 あの、と私は小さく挙手し、「文芸部としての記録じゃないんですけど、私が個人的にメモした程度のものならあります。部誌に載せる小説に役立てるための覚書です」

 どやしつけられるのではないかと不安だったが、意外にも楠原さんは少しだけ表情を緩めてくれた。錯覚かもしれないが。

「たとえ非公式でも、そういうのは残しておいたほうがいい。後で役に立つから」

「ま、あんたに見せてやる義理はないけどね。必須じゃないんでしょ? 文芸部の財産として役立てるよ」

 ここで相手を挑発しようという神経が理解できない。案の定、たちまち楠原さんは表情を険しくして、

「今日のところは勘弁してやるってだけ。次の定例会で、全部活動の活動記録の提出を必須にするから、楽しみにしてな」

「そんな学校中から憎まれそうな真似をよくやるよね。で、棚は? 百兆歩譲って、来年までは代用品で我慢してやってもいいけど」

「残念だけど、備品に余りはない」

「はあ?」と琉夏さんが食ってかかる。「この場で即断? 他の部活か、どこかの教室に頼むぐらいしたら? さっきも言った通り、文芸部の責任じゃないんだから」

 楠原さんは足元の鞄に手を突っ込み、ノートを取り出して開いた。廊下にあった展示物と同じ、驚くほど細やかな筆跡。物品名、シリアルナンバー、保管場所、購入年月日……。

「この学校の備品のことは、こちとらぜんぶ頭に入ってんだよ。あれを寄越せだの、これを回してくれだの言ってくる連中は、別にあんたらだけじゃない。こっちも頭を捻って配分してんだ。要求されるままに叶えてはやれないってことぐらい分かれ」

 声を荒げこそしなかったが、その激昂ぶりは明らかだった。相変わらず怖ろしかったが、自分の中で少しだけ、楠原さんへの評価が変化しつつあるのを感じてもいた。相応しい言葉を探すなら、それは畏怖だ。確かな敬意を伴った感覚だ。

 この人は持てる力を振り絞って、生徒会役員としての立場を全うしようとしているのだろう。誰に憎まれようが恨まれようがお構いなしに、ただ学校をより良くするという信念にのみ忠実に行動しているのだろう。

「律ちゃん」

 ずっと傍らで控えていた目黒さんが、楠原さんの肩を掴んで顔を接近させた。その耳元でなにかを囁いて、すぐに引き下がる。魔法にでもかけられたように、楠原さんは唇の端を湾曲させて、

「文芸部の例の本棚に、日常的に頭を凭せ掛けて昼寝をしてる不届き者がいるって報告があったのを思い出した。だとしたら通常の使用しかしてないとは言えないな。本来なら弁償してもらうとこだけど、場合によっては見逃してもいい。身の振り方を考えとけ」

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