きっとあなたを許さない

下村アンダーソン

1

 どういう心境の変化ですか、と危うく尋ねそうになった。言葉を発する直前になって、そこに座っているのが琉夏さんではないと気が付いた。

「ああ、お邪魔してます」

 とまっすぐにこちらを見据えたまま挨拶を寄越してきた人物は、襟の校章を見るに二年生。琉夏さんとの共通点はそれだけで、他の部分はまるで似ていない。にもかかわらず勘違いをしかけたのは、彼女があまりにも当然のように、この部室における琉夏さんの定位置に陣取っていたからだ。部屋の隅、大小いくつもの仕切りを備えたスライド式本棚の前。

「文芸部の部員さん? ごめんなさい、待たせてもらってたの」

「別に構いませんけど。部長にご用ですか」

「うん。倉嶌さんには今日って伝えてある」

 ならば十中八九、なんらかの相談事だろう。我らが杠葉高校文芸部の部長、倉嶌琉夏さんの持つもうひとつの顔は、校内でも徐々に知られつつあるらしい。この文脈においては、私こと志島皐月は彼女の助手、もといおまけという立ち位置に甘んじることになる。

 来客は二年一組の目黒雛さんといった。ふわりとした髪に縁取られた少しあどけない顔立ちと、それによく似合う柔らかい声音が特徴的な人だった。

「いつもの時間に部室に顔を出すって言ってたから、授業が終わると同時に来たんだけど、倉嶌さん、なにか用事があるのかな?」

「あの人、時間の感覚がいい加減なんで。も、のほうが正確ですね。すべてにおいていい加減です」

 目黒さんは驚いたように掌で口許を覆い、「そうなの? 知らなかったなあ。部活の活動時間って決まってるよね?」

「気にしてるとは思えないですね。廃部寸前だった文芸部を独力で立て直したくらいなんで、思い入れはあるんでしょうけど」

 立て直した、と呼べるのか大いに疑問ではあるのだが。なにしろ現役の部員は私と琉夏さんの僅か二名。名義上はあとふたりいると聞いたが、人数要件をクリアするために名前を借りているだけであって、活動の予定はない。

「私、文芸部のことはよく聞いてないんだけど、小説を書く部活なの?」

「広く文芸創作を扱う部活ってことに、いちおうなってます。小説とか評論の載った部誌を出してますね。他にも普段の活動としては、読書会がときどきあります」

 へええ、と目黒さんは目を瞬かせ、「大変そうだね」

「そうでもないですよ。むしろ部活としてはそうとう暇な部類じゃないでしょうか。部長なんか、よくそこに凭れかかって昼寝してますよ」

 ふふ、と微笑が返ってきた。

「だけど自分で小説や評論を書くわけでしょう? 私にはとても無理だなあ。ところで志島さん、私のことはあんまり気にしないで、いつも通り活動してていいよ。倉嶌さんが来るまで静かにしてるから」

 そう宣言するなり、目黒さんは本当に黙り込んでしまった。正直なところ、苦手なシチュエーションだ。あまり親しくない人の前で集中するというのが、私にはなかなか困難なのだ。

 やむなく読書会の課題図書を取りに行こうとして、それがまさに目黒さんの頭部の真上にあることに気付く。なにか別の――と視線をさまよわせていると、

「どの本?」

「――ブラッドベリの『十月はたそがれの国』です」

「ごめん、場所で教えてくれる?」

「目黒さんの頭のすぐ上です」

 彼女は真正面を向いたまま右手だけを動かし、器用に文庫本を掴み出してくれた。テーブルの上にそっと差し出される。

 ひとまず受け取って頁を捲りはじめたものの、やはり没入はできなかった。内容が頭を素通りしていくばかりなので、私は早々に音を上げて、

「すみません、やっぱり雑談しててもらえませんか。部長、もうすぐ来ると思うんで」

「私がいると気が散っちゃうね。外で待っててもいいんだけど――いちおう私、ここにいる正当な理由があるんだよ」

「いえ別に、外で、とは一言も」

「そう? だったら雑談、雑談――。あ、そうだ」目黒さんは名案を思い付いたとばかりに手を打ち鳴らし、「こういうのはどう? 私がここに来た理由を、志島さんに推理してもらうの。そういうのって本来、倉嶌さんの専売特許なんだろうけど、志島さんって倉嶌さんの相棒なんでしょう?」

「あの人がそう吹聴したんですか? 断じて違います。周りに勘違いしてる人がいたら、訂正しておいてくださると非常に助かります」

 目黒さんは大きな両目をぱちくりとさせ、「違うの? じゃあこのゲームも駄目かな」

「駄目ってわけでは。ええと――」私は言葉を探した。「――最初に思い付いたのはもちろん、探偵・倉嶌琉夏への依頼です。文芸部に来る人の用事ってだいたいそうですから。でも目黒さんと話してるうちに違和感を覚えたんです。それで私の中で、依頼説は消えました」

「どうして?」

「決定打だったのは、正当な理由、という言葉です。無関係な生徒がむやみに余所の部室に入るのは禁止されてますよね。実質的に誰も守ってないにしても、そういう決まり自体はある。それに抵触してない、とアピールする意味があったんだと思いました。だとすると、あなたの目的はいくつかに絞れてきます」

「たとえば?」

「まずひとつ。文芸部への直接の用事。たとえば入部希望ですね。でもこれは外れだと思っています。目黒さんは二年生ですし、今は十月で時期も中途半端です。それに小説を書くのは無理そうだと自分で仰った。ブラッドベリという作家もご存知ではなかった。だから本に興味がないと断じることは当然できませんけど、まあ傍証にはなるかな、と」

 目黒さんはだんだん笑顔になった。「なるほどね。じゃあ本当の理由は? もう気付いてるの?」

「あくまで仮説ですけど。順番にお話しします。私がここに来たとき、鍵はすでに開いていました。部室の合鍵を持ってるのは部員だけです。だから目黒さんの姿が目に入った瞬間、私は部長が急にイメチェンを図ったのかと思ったんです。私たち以外は普通、この部室には入れないわけですから」

「だったら私はどうやって鍵を開けたのかな?」

「真っ先に潰せるのは、部長に鍵を借りた、という説です。それも規則に引っ掛かりますから。なぜか開けっぱなしになっていたので侵入した、も同じく潰れです。そうなると考えうるのは――あなたは正当な理由のもと鍵を持っていた、です」

 ほ、と彼女は息を吐き、「つまり?」

「部長は文芸部を復活させる際、部としての最低条件を満たすための人員を確保したんです。名前だけ借りた、ということですね。最初から幽霊部員なわけですが、正式メンバーには違いない。目黒雛さん、あなたがここにいるのは文芸部員だから。どうですか?」

 目黒さんが穏やかに拍手をしはじめた。正解?

 すっかり気をよくした私がにやにやしていると、彼女は微笑を湛えたまま、「残念でした」

「――え?」

「だから部長さんに用事なんだってば。この件でね」

 言いながら、〈生徒会〉という札の付いた鍵束を私の眼前に突き出す。そしてずっと同じ位置で同じ姿勢を維持してきた彼女が、初めて椅子を動かして体を横にずらした。

 目黒さんの陰に隠れていた部位の惨状が露わになり、私は思わず目を見開いた。部の備品である本棚の、棚板の一枚が崩落していたのである。

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