『深夜0時の司書見習い』特別書き下ろしエピソード/『走れメロス』 編(3)

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 翌朝。アンは〈モミの木文庫〉の受付に座って『走れメロス』を開いた。中学の授業で習ったが、きちんと読むのは初めてだ。短い話なので三十分ほどで読める。


 最後の一行を読み終えたとき、アンの眉間に深い皺が刻まれていた。


 友だちのために命懸けで走るメロスと、そのメロスを信じて待つ友人――授業ではそう教えられ、アン自身、友情の物語だと思っていた。ところが。



「メロスって、じつはちょっと迷惑な人?」



 町の老人から悪徳ぶりを聞いただけで王を殺しに向かい、二年ぶりに会う友人セリヌンティウスを本人の確認なしに人質に指定する。妹の結婚式を強引に進め、道端の犬を蹴っ飛ばし。愕然としたのは妹の結婚式のあとに深く眠り、寝過ごしたことだ。


 自分の身代わりに親友が牢に繋がれていたら心配で一睡もできないのではないか。道中のんきに歌ったり、ぶらぶら歩いたり。



「なんかモヤッてする」



 カッとして王を殺そうとしたのだ、死刑を言い渡されるのもある意味しかたがない。そこに友人を巻き込んでおきながらメロスは途中でふてくされ、約束さえ投げ出そうとする。最終的には間に合うのでハッピーエンドではあるのだが。



「友だちのためなら……迷わず、まっすぐに走ってほしかったな」



 そう願ってしまうのはアンが中学時代に友人関係で苦い経験をしたからだ。


 メロスにマイナスイメージを持ったが、幸いアンがいくら蔵書を読もうと〈登場人物〉や〈著者〉には影響しない。図書迷宮は想像力によって無限に変化するが、迷宮の司書の想像力は異界を守り、管理するために使われるからだ。



「とにかく新しい読者を見つけなくちゃ。迷宮の〈メロス〉は走ってない疑惑に怒ってたから『メロスは走った』って疑いなく、純粋に楽しんでくれる人に本を貸し出せばいいよね…………って、そんなセリヌンティウスみたいな聖人現実にいる!?」



 自らにつっこみ頭を抱えたとき、図書館の正面口に人影が現れた。


 小柄な男性とがっしりとした女性がふうふう言いながら入ってくる。



「ノトさん、リッカさん」



 能登のとと妻の六花りっかは屋敷に住み込みで働く五十代の従業員だ。長袖長ズボンに長靴姿で暑そうに日よけの帽子を取る。その様子で何の作業をしていたかわかった。



「いまの時間まで庭の手入れですか?」


「うん、夏はすぐ雑草が生えるから。いやあ、今日は暑いね。アンちゃんに朝手伝ってもらわなかったら昼過ぎまでかかって茹でダコになってたよ」



 丸眼鏡でおだやかな雰囲気のノトはさりげなく人を褒めるのがうまい。



「お茶にしよう。摘みたてのアップルミントとハーブを浮かべてね」



 リッカは園芸用の工具箱を置き、小さなハサミを手にきびきびと庭に戻っていった。「元気だねえ」とノトはタオルで汗を拭い、受付に置かれた本に気づいた。



「『走れメロス』だ、懐かしいな。アンちゃんが読んでたの?」


「はい、さっき読み終わりました」


「楽しかった?」


「えーと……」



 以前のアンなら空気を読んで『楽しかったです』と答えただろう。だが図書屋敷に来てからは違う。ここでは優等生の答え方をしなくていい。



「中学で信頼とか友情の物語だって習ったんですけど、いま読むとそんなにきれいな物語じゃない気がして。メロスが自分勝手に見えるというか、まわりにすごく迷惑かけてるというか……」



 ふふ、とノトが相好を崩した。



「『走れメロス』はメロスの視点で書かれてるからつい共感しちゃうけど、よく読むとおかしな場面がたくさんあるよね。メロスは単純でちょっと思い込みが激しいし、考えたくないことは先延ばしにしがちで」


「そうなんです、友だちの心配ほとんどしないし、すぐ投げ出そうとするし」



 アンは何度もうなずいてから、ふと思った。



「ノトさんはメロスの〝走ってない疑惑〟って知ってますか?」


「走ってない疑惑?」



 ネット上にそうした書き込みがあると伝えると、ノトは合点がいった様子になった。



「いつだったか、ある中学生が作中の時間経過と移動距離を書き出してメロスの走る速さを算出した自由研究がコンクールの賞をとってね。それまでもメロスは走ってないんじゃないかって疑う人はいたけど、一目瞭然のグラフで発表されたもんだから。やっぱり走ってなかったかあって納得した人が多かったみたい」



 それを抜きにしても、と言葉が続く。



「もともと『走れメロス』は面白おかしく読まれる傾向があるんだ。『少しずつ沈む太陽より十倍の速さ』はマッハ十以上だとか、十里は四十キロくらいだから三日もかかるのは変だとか。走ってないっていう説があっても不思議じゃないね」


「そうなんですか……ちなみにメロスが走る速さってどのくらいだったんですか?」


「平均でだらだら歩き、全力で走って早歩き程度らしいよ」


「全然走ってないですね!」



 ねー、とノトが声を揃えて笑う。


 そのとき、離れたところからリッカの怒声が響いた。



「よくうちに来られるね!」



 驚いて声のほうを見ると、玄関口の向こうにリッカとスーツを着た狐目の男性がいた。摘みたてのハーブを手にしたリッカは「またこんなところで油売って!」とおかんむりだが、対する狐目の男性――高見は飄々としている。


 アンは眉を顰めた。



「あの人、不動産会社の」


「高見君だね。セージ君の幼なじみ」



 アンはびっくりしてノトの丸眼鏡の奥を覗き込んだ。



「幼なじみ? じゃあ、ノトさんも前から知ってる人なんですか?」


「うん、セージ君と小学校が一緒で、セージ君が東京の大学に行くまで仲良しだった」


「あの人図書屋敷を潰そうとしましたよね……。お金がないなら出てけって」


「そりゃあ仕事だから」


「だけどそんなに仲がいいなら、あんなにきついこと言わなくても」



 立ち退きを迫る高見の態度はひどいものだった。乱暴な口調で高圧的。セージは一方的にやり込められ、間に入ったノト夫妻は必死にとりなしていた。


 友だちにあんなことするなんて、ひどすぎる。


 アンはそう思ったが、ノトの考えは違った。



「歯痒かったんだね、高見君」


「え……?」


「大学を卒業してこっちに戻ってきたと思ったら、セージ君、ずっと屋敷に引きこもってるでしょ。生活は昼夜逆転してて外出もしない。高見君なりに何とかしたかったんだろうね。そりゃあ褒められたやり方じゃないし、言い方もひどかったよ。でも高見君がセージ君を気にかけてきたのも本当だから。リッカもぼくと同じ気持ちじゃないかな」



 ノトの眼差しは穏やかで、遺恨を感じさせなかった。リッカも腹を立てた様子だが高見を追い返そうとはしていない。竹を割ったような性格のリッカだ、本気で嫌っていたら決して敷居をまたがせないだろう。


 当の高見はといえば、へらへらしながらリッカのお叱りを受けている。


 ……世の中って、わかんないことだらけだ。


 理解しがたい大人たちのやりとりにアンは内心で首をひねるばかりだった。





 三十分後。ノト夫妻とお茶をして業務に戻ったアンは館内をそぞろ歩いた。


 図書屋敷は長らく開店休業状態で、日に五人ほどの利用者があればいいほうだ。業務といっても掃除と希に本の貸出手続きがあるくらいで時間はのんびりすぎていく。


 自然と『走れメロス』のことを考えていた。



「どんな人に薦めたらいいんだろ。だいたい、ふさわしいってなに」



 相手に合った本を選ぶこと。心躍る読書であること。必ず楽しんでもらうこと。


 ついでに作品を上辺で読まず、他人の意見や評判に振り回されないヤツがいい――

ワガハイの言葉を思い出し、うめきたくなった。利用者の好みに合った本を選んだことはあるが、本にふさわしい読者を探すとなると格段に難しい。



「メロスは走ったって感じてくれる読者。うーん、ひねくれてなくて、素直に受け止めてくれる人だよね。小さい子かな」



 イメージを掴みかけたとき、廊下の掲示板に目がとまった。


 市内の催し物のチラシを置いたコーナーで、来館者が自由にコメントを残せるように色とりどりの紙とコルクボードがある。そこに新しい感想カードが貼られていた。


 中高生の字だろうか、濃い鉛筆書きでこう記されていた。



『シラクスから村まで十里=約四〇キロ。男子マラソン世界記録、二時間ちょっと。メロス、走れよ』



 ブランドのスニーカーを履いて肉体美を見せつけてくる迷宮の〈メロス〉が脳裏をよぎり、思わず渋い顔になった。



「ワガハイが言ってた直近の影響って、きっとこれだ」



 この紙を剥がしたら、あの〈メロス〉も安定するだろうか。


 誘惑にかられて紙の端に指をかけるが、それ以上動かせなかった。


 気に入らない意見だからなかったことにする? 毎回剥がすの?

 それで解決するなら簡単だ。だがこの感想カードを貼った人は感じたままを記したにすぎない。その気持ちをないがしろにしていいのだろうか。



「本は自由だよね」



 図書屋敷に来て教えてもらったことが背中を押してくれる。


 アンはコルクボードの感想カードをそっと撫で、その場を離れた。


 洋風の館内は古い紙とインクの匂いに満ちている。どっしりと大きな本棚とアンティークの調度品に囲まれていると日本にいることを忘れそうだ。窓の外に広がる立派なイングリッシュガーデンもその一因だろう。


 ヒバ、黄金アカシア、ナナカマド、ハリエンジュ。バラやアジサイなどの園芸種があれば、北海道ではお馴染みのフキやウバユリが小径を彩る。一見無造作に作られた庭は四季の草花がバランスよく配され、いくら眺めていても飽きることはない。


 八月の日差しに草木がきらきらと波打つ。そのとき、背の高い植物の間に人影を見つけた。狼を思わせる長身の痩せた青年は遠くにいてもすぐそれとわかる。


 日中にセージが庭にいるのは珍しい。



「そうだ、セージさんならアドバイスくれるかも」



 アンは踵を返し、正面口から建物を出た。


 庭に下りるとハーブと花の香りを強く感じた。風に吹かれて、植物がさらさらと葉擦れの音を響かせる。メインの通りを外れて小径を駆け、低木とワレモコウの茂る一角を抜ける。ようやくセージの姿が見えた。


 アンは声をかけようとして初めて周囲の様子に気づいた。



「わあ」



 セージよりもさらに高く、深紅の花をつけた植物がすっくと伸びている。大輪の花が太い茎に連なり、花びらはフレアスカートのようだ。赤のほかにピンクや白がまざったものがあり、背の高い花に囲まれると花束の中にいるみたいだ。



「きれいですね、なんていう花ですか?」



 声を弾ませて尋ねると、セージがぼそりと言った。



「コケコッコー花」



 きつい三白眼がじっとアンを見下ろす。不機嫌で威圧的に見えるが、コツを掴んだアンには違う表情が読み取れた。


 この顔は冗談じゃなさそう。えっ、じゃあ本当ってこと?



「変わった名前の花ですね」



 セージは無言のまま赤い花びらを優しく引き抜いた。厚みのある花びらの付け根を丁寧に二枚に裂き、不意にアンの鼻に触れる。


 ひゃっ、とアンは身を縮めたが、花びらは落ちることなく鼻の頭で揺れた。



「あれ、くっついてる?」


「花弁の付け根が粘着質なんだ。赤い花びらがニワトリの鶏冠みたいに見える……だから、こうして遊ぶ」



 セージは同じように割いた花びらを自分の顎にくっつけ、天を仰いだ。



「コケコッコー」


 棒読みの、とても静かな低音だ。反らした顎から首筋の線は細く、喉仏がかすかに動く。寡黙な青年は横目でアンを見、ふっと笑った。


 セージさん、おちゃめだ。


 きつい三白眼の強面は殺し屋かその筋の人に見えるが、内面はとても穏やかで優しさに満ちている。



「コケコッコー花は、ホリックやタチアオイとも呼ばれる。関東でも咲く」


「そうなんですか?」



 言われてみれば公園や街路樹の片隅に似た花を見たような気がする。

 

 記憶を辿っているとセージの静かな声が響いた。



「話……あったんじゃないか」


「あっ、そうだった! あの、『走れメロス』をどんな人に薦めたらいいかわからなくて。考えを聞いてもらってもいいですか?」



 セージが目顔で話の続きをうながす。



「『走れメロス』って誰でも楽しめる話ですよね。でも学年が上がると素直に読めないっていうか……斜めに読んじゃって友情がテーマのいい話だと思えなかったんです。だからこういう話は小学生とか小さい子のほうが楽しめるんじゃないかなって」



 短編小説はコンパクトでスピード感がある。小学生が読んでも楽しめるはずだ。中高生のように邪推や疑いを挟むことなく素直に感動してくれるだろう。


 アンはそう結論づけたが、返ってきた答えは予想と違っていた。



「斜めの部分も、大切だ」


「え? ……だけど揚げ足を取るみたいな読み方はよくないんじゃあ」


「つまらないだろう。批評してやる――たしかに本を開く前からそんなふうに構えた読書は、誰も幸せにしない。でもまっさらな気持ちで読んで感じたことなら……斜めでも脱線でも、どれもいい」


「ええと、どういうことでしょう?」



 沈黙が落ちた。


 セージは口下手だ。その上、自身の威圧的な風貌と暗い声が相手を怖がらせることを気にしている。その証拠に普段は背筋が伸びているのにアンの前ではいつも猫背だ。


 アンは考えを巡らせ、質問を変えた。



「セージさんならどんな人に『走れメロス』を薦めます?」


「メロスっぽい人」



 なんですかそれ。


 ますますわからない返答に困惑するが、セージはじっと視線を返すばかりだ。



「ごめんなさい、わからないです……詳しく教えてもらってもいいですか?」


「………………あとは、もみじに聞いてくれ」


「もみじ君に?」



 でも、と食い下がろうとすると、青年がくわっと双眸を見開いた。世にも恐ろしい形相に「ひっ」と悲鳴がもれる。しかしセージを怒らせたわけではなかった。


 青年の肩からひょっこりと三角の耳が現れた。


 真っ黒な子猫が肩によじ登り、小さな爪を首に刺している。セージが動かないのをいいことに子猫は頭に前脚をかけた。


 ほほえましい光景のはずだが、セージの形相が恐ろしすぎる。



「お、下ろしましょうか、猫」


「………………いや、おやつの時間だ」



 つくづく凄みのある悪人面が惜しい。心優しい青年は頭で子猫を遊ばせたまま、のっそりと屋敷に引き返した。


 昼間に庭にいるのは珍しいと思ったが、子猫を見つけて誘い出されたのだろう。セージはかわいいものに目がないのだ。


 ひとり庭に残されたアンは青年の言葉を振り返った。


 もみじに聞いてくれ。セージがそう言うなら相談の続きはそちらにするほかない。

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