Door

月夜野すみれ

前編 Moonlight Melody

 初めてその人のクラリネットの音色を聞いた時、衝撃を受けた。


 星次せいじが小学生の時だった。

 父とニューヨークに行ったのだ。

 小さい頃からよく父に連れられて海外へ行っていた。

 その時、父は知り合いとジャズを演奏している店で会っていた。

 正直、ジャズなんて興味がないし薄暗い店で知らない言葉を話す人達ばかりの店で退屈していたからトイレに行くと言って何か面白そうなものはないか探していた。


 そのとき舞台に出てきた人がクラリネットを吹き始めた。

 その瞬間、店内が静まりかえった。

 星次もその場に立ち尽くしてステージでクラリネットを吹いている人に目を奪われていた。

 あとで知ったのだがその人はジャズの世界では伝説級の人で、たまたまサプライズゲストとしてその時だけそこで演奏したらしかった。


 星次は父に頼んでクラリネットを買ってもらい習い始めた。

 住宅地で楽器の演奏をするわけにはいかないので部屋に防音工事もしてもらった。

 星次はそこでひたすらクラリネットを吹いていた。

 一時期、クラリネットに集中しすぎるあまり成績がひどく落ちてめさせられそうになったので勉強もテストでそれなりの点を取れる程度には頑張った。


 父や兄弟達は成績優秀で進学校に入り、有名国立大に進学したから星次の成績には不満そうだった。

 しかし最終的には、父は一流企業の役員にもコネがあるからそこに入社させることも出来るし最悪自分の会社で働かせればいいのだから大卒の肩書きがあればいいと考えることにしたようだ。


 知り合いが、星次がクラリネットをやっていると聞くと「音楽の才能のある息子さんもいるんですね」などとお世辞を言われるのも悪い気がしないというのもあったようだ。

 そのせいか音大付属高校や音大への進学もあっさり認めてもらえた。

 クラリネットを習っていると言うだけではなく、音大付属高校に推薦で入ったと聞くと「すごい」と言われるらしい。

 成績が優秀で一流大学卒の人間はいて捨てるほどいるが音楽の才能があると言われる人間は少ない。

 実際に才能があるかはともかく音大生と聞けば大抵の人は「音楽の才能があるんですね」とお世辞を言う。

 音大を出てから一流企業に入社すれば「音楽の才能がある上に優秀な息子」と言われるのは間違いなかったし、褒められるのが好きな父としてはむしろ好都合だったのだろう。


 だが父は星次のクラリネットに対する情熱を甘く見ていた。

 父は音楽に興味がないから星次も趣味程度だと考えていたのだ。

 星次の兄弟達がやっているようなゲームが星次の場合はクラリネットと言うだけで大学を卒業したら普通の企業に就職するだろう、と。

 星次も高校や大学で才能がある他の生徒達を見ていたから音楽家になれる自信はなかった。

 早い者は大学に入学する頃には既に海外のコンクールに出ていたり演奏会に出演したりしているのだ。

 星次にそれだけの才能はない。

 それは自覚していたから大学を卒業したら普通の企業に就職してアマチュアとして趣味でやっていくことになるのだろうと思っていた。


 星次はコンビニの前で立ち止まると携帯電話を取りだして時間を見た。

 このコンビニに可愛い店員がいるのだ。

 星次はその子に会いたくて彼女がいる時間帯を見計らって店によっていた。


 いつもより十分ほど早い。

 まだ来てないかもしれないし、そこの公園で時間つぶしていくか。

 星次は小さな公園の入口近くに立つとクラリネットを取り出して吹き始めた。

 通行人が足を止め始める。


 最初は自分みたいな下手な人間が知らない人が聴いている場所で演奏するなんて、と思って家や学校の音楽室以外では演奏したことがなかったのだが、クラスメイトに「演奏会では知らない人達ばかりだし、そこにはプロも聴きに来るんだから恥ずかしいなんて言ってたら音楽家にはなれない」と言われた。

 俳優は度胸を付けるために信号待ちの時などに大きな声で芝居の台詞を言ったりしているとも聞いた。

 人混みの中で一人で話し始めたら奇異きいの目で見られるだろうし、それに比べたら楽器の演奏は路上ライブだし珍しくないから変には思われないだろうと、たまに公園などで吹くようになった。


 ふと気付くとあの店員の子が聴いているのに気付いた。

 これから店に行くのだろうか。

 吹き終えても彼女はそこにいた。

 他の人と同じように次の曲を待っているようだ。


 な、なんの曲がいいんだろう。

 一般受けするようなのがいいかな……。

『エリーゼのために』……は直球過ぎるか。

 ちょっと難しいけど吹けるかな……。


 迷った末、思い切って『くるみ割り人形の』の「金平糖の踊り」に挑戦してみた。

 ポピュラーな上に明るく楽しい曲調の曲なのが聴いていた人達に受けた。

 彼女も心なしかさっきより表情が明るくなっている。

 星次はそれに気を良くして『カルメン』の「ハバネラ」を続けた。

 ぶっつけだったため途中ミスったものの誰も気にした様子はなかった。

 何曲か続けてほとんどの人が立ち去ってしまうまで続けてから彼女がまだいるのに気付いた。

 彼女と目が合う。


「あの……お店、行かなくていいの?」

「え?」

 彼女が目を見開いた。


 しまった!


 星次は慌てて口をつぐんだが遅かった。

 彼女があの店で働いてると知っていることがバレてしまった。

 高校生みたいだし、見ず知らずの男が知ってたなんて気持ち悪いと思われるかもしれない。

 しかし話し掛ける口実としてチキンやフランクフルトなどを毎回頼んでいたから客の一人だと気付いたらしい。


 特に不思議そうな様子も見せずに、

「昨日辞めましたから。今日は忘れ物を取りに来ただけです」

 と答えた。

「え……辞めたってなんで?」

「元々昨日までだったんです。イベント期間中の増員で」

「そう……なんだ」

 つまりもうあの店に行っても会えないのだ。

「それじゃ」

 彼女はそう言うと去っていった。

 姿が見えなくなってから名前も聞いてなかったことに気付いた。


 五日後、どこからかかすかな歌声が聴こえた気がした。

 途切れ途切れで旋律も歌詞もはっきりとは聴き取れない。

 声の方に視線を向けると彼女が公園のベンチに俯いて座っているのが見えた。

 歌っているのは彼女だ。

 不意に顔を上げた彼女と視線が合う。

 彼女は慌てて歌を止めると逃げるように走り去ってしまった。


「あ……」

 気付かれる前にもっと近付いて声を掛けていれば……。

 いや、さすがにそれは気持ち悪すぎて嫌われる……。

 星次は肩を落として家路にいた。


 三日後、ファーストフード店に入ってカウンターに近付いていくと、店の制服を着た彼女が出てきた。


「あ、ここで働き始めたの? あっ! ストーカーじゃないから! まさか君がここに……」

 星次の慌てた様子に彼女がくすっと笑った。

「音大の人ならこの辺りの店を利用するの当然だと思いますけど」

「え、なんで音大って……」


 も、もしかして彼女も俺の事……。


 星次の胸が高鳴る。


「駅から離れた公園で、しかもクラリネット吹いてるのなんて音大の人くらいじゃないですか?」


 それもそうだ……。


 がっかりしているのを悟られないようにしながら注文した。


 翌日、星次は同じファーストフード店に来ていた。

 彼女が言ったように学生が学校付近の店を利用するのはおかしいことではない。

 しかも彼女が以前働いていたのはコンビニだ。

 別のコンビニだったら付きまとわれているのかもしれないと思うところだろうがファーストフード店なら利用目的が違う。

 もっとも話し掛ける口実としてポテトやチキンなどの食い物を注文していたから何故コンビニで買うのをやめてファーストフードで食うことにしたのかと疑問に思っても不思議はないが、あのコンビニに来ていてこの店も利用しているのは星次だけではないはずだ。


 とはいえ疑念ぎねんいだかないとしたら、それはそれでその他大勢の客の一人としか思われていないという事になるのだが。

 ストーカーだとは思われたくないが、意識されてないというのも……。

 まぁコンビニと違ってファーストフード店は長居できるから働いている彼女を眺めていることが出来るというのは有難い。

 居座っている理由が自分を見るためだと知られたら、やはり気持ち悪いと思われるだろうが。


「音が変わったな」

 星次が大学で練習をしていると先輩が声を掛けてきた。

「え?」

「前は楽譜通りの音を出してるだけって感じだったけど、近頃は音につやがある」


 艶……。


 そういえば最近は彼女のことを考えながら吹いている。


 以前、教師から「気持ちがもってない」と何度も指摘されていたものの、正直意味がよく分からなかった。

 作曲した時の境遇や当時の社会情勢などから作曲家が伝えたかったことを出来る限り忠実に再現する、そこに自分の感情が入る余地があるとは思えなかったからだ。

 だが今は、彼女が聴いてくれているところを想像したり、彼女にこの曲で想いを伝えたいと思いながら吹いている。


 そうか、こういう事だったのか……。


 その日、いつものように彼女が働いているファーストフード店に来た星次は中国語のレポートの課題を前に頭をかかえていた。

 中国語を選んだのは、漢字は読めるから楽だろうという理由からだった。

 しかしその考えは甘かった。

 砂糖を煮詰めたジャムよりも甘過ぎた。


 まず中国語には日本では使ってない漢字がある。

 基本的に漢字だけで全てを表記しているのだから当然だ。

 だが、それだけなら日本語に無い漢字だけ覚えればいい。

 いくら漢字しか使ってないとは言え頻出ひんしゅつ文字は限られる。

 問題は日本語と中国語で意味の異なる漢字だ。

 これが意外に多くて混乱する。

 その上、今の中国では簡体字かんたいじと呼ばれる簡略化かんりゃくかされた文字を使っている。

「機」が「机」と表記されているのを見た時は、中国人はテーブルを使わないのか? と思ったがテーブルは「桌子」と書く。

 とにかく漢字が読めるから楽勝などというのはとんでもない思い違いだった。


 イタリア語とスペイン語はそれぞれの言葉で喋っても話が通じるくらい似ていると聞いて、スペイン語とイタリア語なら一・五カ国分ですんだのかと思わないでもなかったが、星次が高校時代に取っていた第二外国語はフランス語だった。

 大学で一からスペイン語とイタリア語を始めるくらいなら高校時代からやっていたフランス語ともう一カ国語の方がまだマシなのだ。

 成績だけを考えて楽な科目を選ぶというなら事前に下調べをするべきだったのに、何となく楽そうなどと安易に考えてしまったツケが回ってきたのだ。


 彼女を眺める余裕すらないままレポートと格闘していると携帯電話の着信音が鳴った。

 マナーモードにしておくのを忘れてた。

 星次は慌てて携帯を掴むと席を立って出口に向かいながら受信ボタンを押した。


「星次! どこで道草食ってんだ!」

 父の声に時計を見るととっくに終電の時間を過ぎている。


 終電前に掛けてきてくれよ……。


 まぁ都内だから歩いて帰れない距離ではない。


 それともこのまま店で夜明かしするか……。


 星次が店内に戻ると店員が彼女に「お疲れ様」と言う声を掛けていた。

 彼女が店の奥へ消えていく。

 星次は急いで荷物をまとめた。

 彼女が店の前に来たタイミングを見計らって外に出る。


「やぁ、今帰り?」

「はい」

「終電、もう無いけど……」

「うち、そこですから」

 彼女がファーストフード店の二軒先のオフィスビルを指した。

 オフィスビルに住んでいると言う意味ではない。

 その裏に住宅街があるのだ。


 都内は表通りだけ店舗などの入っているビルが建っていてその後ろは住宅地という場所が多い。

 高いビルで遮られてしまうから表通りからは住宅街が見えないだけなのだ。

 もっともバブル時代にやっていた地上げのババ抜きで、たまたまババを引いたときにバブルが崩壊してしまい、狭くて何も建てられないのに、なまじ通りに面しているせいで地価が高すぎて売ることも出来ない土地がそこここで小さな駐車場になっている。

 そう言うところは奥の住宅街が見えている。


「そう、えっと……」


 名前、聞いていいのかな……。

 図々しいと思われてけられるようになったら嫌だし……。


 もし星次を避けるためにバイト先を変えられてしまったら……。

 流石さすがにそこまでされたら追い掛けるわけにはいかないから失恋確定となる。


「片桐歌夜かよです」

 星次の躊躇ためらいを他所よそに、彼女――歌夜はあっさり名前を教えてくれた。

「俺は宮城星次」

 そう名乗ったとき、オフィスビルの脇の住宅街へ続く道に差し掛かった。

「じゃ、気を付けて」

 歌夜と別れた星次は、

 やっと名前が聞けた!

 浮かれながら帰路にいた。


 土曜日、星次は大学近くのコンビニに入った。

 以前、歌夜が働いていたのとは別の店である。

 お茶を持ってレジに行くと歌夜がいた。


「え!? 歌夜ちゃ……じゃなくて片桐さん!? なんでここに……! あの、俺、付きまとってるわけじゃないから! 今日も大学で……」

「歌夜でいいですよ。私の方が追い掛けてるとは思わないんですか?」

「え!?」


 まさか……。

 それなら両想いって事に……。


「自意識過剰な人ならそう考えますよ。私が行く先々に先回りして待ち伏せしてるって」

 ああ、そういや、そう言う勘違いするヤツいるな。

「いや、俺、そんなにモテないから」

「私もです」

 それは疑問だと思ったが「そんなことないでしょ」とか「ホントはモテるでしょ」なんていうのもおじさん臭いし安っぽい口説き文句に聞こえそうなので黙っていた。


「大学に来たのって練習ですか? 今度学園祭があるんですよね?」

 誰に学園祭のことを聞いたのだろうか。


 もしかして誰かに誘われてるとか?

 まさか男じゃ……。


 考えてみたら可愛いのだから狙っている男は他にもいるだろう。

 というか既に彼氏がいてもおかしくない。


「そう、練習だよ」

「じゃあ、星次さんも文化祭のオーケストラに出るんですか?」

「うん、文化祭、歌夜ちゃんも来る?」

「普通の人も入れるんですか?」


 誰かに誘われたわけじゃないのか……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る