僕は、騎士学院のモニカ。【増量試し読み】
陸そうと/ファンタジア文庫
序奏
古き時代に世界統一が成された大陸。
政府が治める下で幾千年の調和を保ってきた人類の歴史は、災厄としか喩えようのない魔物によってあっけなく終止記号を打たれようとしていた。
古来よりこの大陸に生息している、“ディソナンス”と呼ばれる人類の天敵————その中でも歴史上類を見ない脅威度に認定された“ディザストロ”が出現してから早一週間。政府の戦力は余すことなく返り討ちに遭い、彼らはこの国『シンフォニーアイランド』の運命を一人の〈はぐれ者〉に託すほかない状況まで追い詰められてしまっている。
「目標との距離は……四百、いや三百くらいか」
とっくに避難が済んでいた辺境の街を背に、現代最強の騎士である青年は緊張感なく体の節々をほぐしながら呟いた。
背負っていた剣を構え、相対する敵を改めて夜をさらに暗く覆う暗雲共々見上げる。
……大きい。周囲に見える山々と同じ——いやそれらの山岳以上の体躯を引きずりながら、“ディザストロ”はこちらへ侵攻を続けている。
「あれだけ大きいと、お腹いっぱい食べるのにも苦労しそうだ」
こんな状況でも浮かんでくるのはそんな戯言ばかりだ。どれだけ相手が強大であろうとやることは変わらないし、そもそも青年にとって化け物と戦うことは恐怖の対象にはなり得ない。
青年がすべきは目の前の巨体に慄くことではなく、それが振り撒く雑音を剣でかき消すことだから。
「行こうか」
あれこれと浮上してくる余計な思考を投げ捨てた後、青年は全身を巡る血液——そこに宿る力を呼び起こす。
瞬間的に高められた身体能力をもって大地を蹴飛ばした青年は、跳躍というよりは飛翔と表現すべき勢いで暗闇の空へと舞った。
「極限技法」
繰り出されたのは数えるのも馬鹿らしくなるほどの、斬撃の嵐。
本来弱点である心臓を定められたリズムに沿って攻撃を加えなければ倒すことのできない“ディソナンス”————その中でも間違いなく最強に据えられる“ディザストロ”の肉体を、青年は再生する暇も与えないまま夜の景色へと溶かしてしまった。
「困った」
避難が済み、人の気配がない街の片隅。
青年——騎士ダレンは建物の外壁に背中を預け、夜空を見上げながら呟いた。
人類の天敵たる怪物を葬り、世界を救った直後とは思えないほどに、彼はひどく落ち着いているように見える。
だがその実ダレンの右半身は骨も筋肉も粉々に粉砕されており、遠のいていく五感は命の終わりが近づいていることを暗示していた。
技の反動で肉体が崩壊することは承知していたものの、生を手放す心の準備までは済んでいない。
冷めた顔の裏側にあるのは、今にもばらけてしまいそうな魂を懸命に掻き集めるかの如き焦燥。
「こんなところで寝てる暇はないぞ、ダレン」
途切れそうな息を必死に繋ぎながら、ダレンの心は未だ足掻き続けている。
自分にはまだ全うすべき役目がある。
これから先も己の力を人のために振るい、この国に貢献しなければならないのに。
「僕は……これから先も、」
「——騎士ダレン、で間違いありませんか?」
夜空の星々が視界から消え、代わりに少女の小顔が占領する。
肩に被さる寸前まで伸ばされた薄い金髪に、品のある桃色の双眸。その大きな瞳は見つめていると吸い込まれてしまうと錯覚するほどに大きい。
「……はい?」
前触れもなく現れた存在にダレンが唖然としている最中、少女は淡々とした調子で先ほどの言葉を繰り返した。
「騎士ダレンで間違いありませんか?」
「えっ……は、はい。そうです」
「そうですか」
そう相槌を打って腰元に手を添えた彼女は、おもむろにホルダーから一管の笛を取り出してはそれを静かに構えた。
「……君は誰? なにをするつもり?」
「喋らないほうがいいですよ。あなた見るからに死にかけですし。〈間に合わなくなる〉」
彼女もまた瀕死の人間を前にしているとは思えないほど、冷静な調子を崩さない。
少女は構えた笛の歌口に唇を添えると息吹を紡ぎ、透き通るような音色を奏で始めた。
これから死にゆく人間の前で演奏する葬送曲にしては雄大で、どこか燃えるような情熱を秘めたような音の連なり。
……神奏術だろうか。ダレンも知らない、不思議な曲だった。
人気のない、寂れた街道。
少女の演奏を聴く者はダレンただひとり。
風の音すら聞こえない静寂を塗り替えるような演奏を終えた彼女は、眼下で静聴していたダレンへ視線を落とす。
「どうですか?」
「……素敵な演奏だったよ。ありがとう」
「……どうして『ありがとう』なんです?」
「死にかけてる時にこんな綺麗な曲が聴けるなんて、思ってなかったから。……君はこの辺に住んでるの? 逃げ遅れちゃったのかな? でももう心配いらないよ。怖い怪物は僕がやっつけたから」
「……こんな状況でも、他人を気遣うんですね」
蝋人形のように固定された少女の顔が、ほんの少しだけ揺らぐ。
その感情は読み取れない。珍妙な動物でも見るように、彼女は瀕死のダレンに対して怪訝な眼差しを向けている。
「死ぬのが嫌なら、安心してください。あなたをこんなところで終わらせはしない」
「……え?」
冷めた表情とは裏腹に、その声音と瞳には力強い意思が宿っている。
ダレンの意識が朦朧としていく中、少女の大きな瞳とその内で揺れている炎のような輝きだけは、最後まで鮮明だった。
「どうか次に目覚めた後でも、誰かを想う心を失くさないでくださいね」
その言葉を聞いた直後、ダレンの視界は幕を下ろされたように漆黒で覆われる。
周りの景色が閉ざされた世界でも、最後に出会った少女の顔が頭から離れない。
ただひとりに見守られながら、英雄はその夜に生涯を終える————はずだった。
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