第5話 紫色の渦の前で
目の前の暗闇に、紫色の渦が浮かんでいる。
渦は収縮と膨張を繰り返し、ザワザワと音を立てている。
そんな光景がずっと続いている。
どこに移動するわけでもない。
何かが始まるわけでもない。
どのくらいこの光景を眺めていただろうか。
いつの間にか、ザワザワという音に何か別の音が混じり始める。
――ぶ――――の――だ―
その音は、何か意味を持った音のようにも聞こえる。
ぜ―――お――――い――
数年間悪夢を見続けてきたが、こんなことは初めてだ。
―ん――――え―せ―――
いや、もしかしたら、気づかなかっただけなのかもしれない。
―――、―ま―――――。
もしくは、意図的に、忘れたのかもしれない。
ぜ ん ぶ 、 お ま え の せ い だ 。
こんな言葉、聞きたくもないのだから。
ぜ ん ぶ 、 お ま え の せ い だ 。
紫の渦は、ハッキリとした声で、そう言い放った。
私は咄嗟に反論の言葉を探した。
しかし、声を上手く出すことができない。
そうしている間にも、渦は私を責め続ける。
ぜ ん ぶ 、 お ま え の せ い だ 。
そんな言葉と共に、渦は収縮と膨張を繰り返す。
徐々に姿を変えながら。
いつの間にか、渦には紫色の顔が浮かび上がった。
家族、友人、同僚、上司、後輩、知人、見知らぬ人。
そんな無数の顔が、紫色に染まり、連なり、渦を巻いている。
収縮と膨張を繰り返しながら。
全部、お前のせいだ。
無数の顔が、何故か私を非難する。
私が、何をしたというのか?
そんな問いを投げかけても、顔達は答えない。
全部、お前のせいだ。
その代わり、私をなじる言葉を発し続ける。
その中に、一番苛立ちを覚える顔が見つかった。
全部、お前のせいだ。
全部、お前のせいだ。
全部、お前のせいだ。
その顔は、他の顔より騒がしく非難の言葉を繰り返している。
まるで、喚き散らすように。
だから、私は、その顔を思い切り殴り潰した。
そこで、轟音と共に目が覚めた。
窓の方向から、雨の音が聞こえる。
昨日よりも、頭痛が酷い気がする。
しかし、すぐに壁を殴りつけた拳が痛み始め、頭痛は気にならなくなった。
痛む箇所に目をやると、滲んだ視界の中に、血の滲んだ手の甲が映った。
それから、手のケガを処置して身支度をし、満員電車に乗り込んだ。
雨のせいで、電車の中はいつもにも増して混んでいる。
そのためか、いつもより強めに空調がかかっている。
車内に響く空調の音に、先ほどの夢を思い出す。
それと共に、右手の傷がピリピリと痛んだ。
恐ろしい光景を見るよりも、ずっと嫌な夢だった。
それでも、ただの夢なのだから、気にしても仕方ない。
そんなことを繰り返し考えているうちに、電車は下車駅へ到着した。
それから、電車を降り、勤め先に到着し、執務室に入った。
軽く頭を下げながら、ほぼ滞りなく挨拶を済ませ、自分の席につく。
すると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。
「少し、いいか?」
振り返ると、上司が真剣な面持ちで立っている。
「はい、大丈夫です」
私は返事をし、上司は軽く頷く。
そして、二人して会議室に移動し、予定していた打ち合わせを始める。
今回の件、お前に非がないのは分かっている。
ただ、先輩として、もう少し早く気づいてやることはできなかったのか。
それと、今、他の仕事のフォローに回ったら、担当している仕事はどうなる。
あちらの仕事は、これ以上失敗できない。
もしも、何か起きたとしても、上司としてどこまでフォローできるか分からない。
それに、お前が体を壊すことになったりしたら……。
そんなことを口にしながら、上司はチラチラと私に視線を送った。
「ご心配なさらずに。これ以上問題が発生するようなら、私が始末書を提出しますから」
私がそう答えると、上司は苦笑を浮かべた。
「そうか、悪いな」
そして、どこか淋しげな声で、力なく呟いた。
どうやら、彼の望んでいた回答をすることができたようだ。
それから、予定調和の打ち合わせを切り上げ執務室に戻り、より一層過密になった業務に取りかかった。
集中しているうちに、昼の休憩時間になり、何気なくポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には大量の不在着信と、一件の留守番電話が通知されていた。
思わず、深いため息がこぼれた。
同時に、右手の傷が痛む。
執務室を出て廊下の隅で留守番電話を再生すると、予想通りの内容が聞こえ下来た。
今月の生活費が、まだ振り込まれていない。
それなのに、連絡もよこさないなんてどういうつもりだ。
年寄りを飢え死にさせる気か。
周りの同年代は優雅に趣味を楽しんでいるのに。
こんなに惨めな思いをさせるなんて。
大学まで出させてやったのに、恩知らず。
お前が進学したせいで、金がなくなったということを分かっているのか。
そういう薄情なところは、アイツにそっくりだ。
そうだ、お前のせいでアイツとずっと別れられなかったのに。
それなのに、お前は家族を見捨てるつもりなのか。
お前なんか育ててやるんじゃなかった。
今不幸なのは、全部、お前のせいだ。
耳から少し離したスピーカーから、大声が聞こえる。
要は、仕送りが遅れたことを憤っているのだろう。
それと、不幸な気持ちを誰かに聞いて欲しかった、というのもあるかもしれない。
ともかく、早く銀行に行って、必要な分の振り込みを済ませよう。
それから、謝罪の連絡も入れておかなくてはいけない。
私達は、血のつながった家族なのだから。
軽く目を閉じると、殴り潰したはずの、紫色の顔が浮かんでいた。
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