第30話 脱藩者
三郎は、藩校に下る途中で小夜に会わなかったことから、小夜がよく行く街道沿いの林を、大声で呼びながら、探しまわった。
小夜が、押し花に夢中なのは知っていた。
花のつまれた跡を追って、峠の頂きまで上ってみたが、小夜の姿は見えない。妹の細い足で、峠を越え、海沿いの城下町まで下ったとは考えにくかった。
ゆっくり引き返すことに決め、草花の踏まれた跡、茎のちぎられた跡を注意深く探しながら、下っていった。
草の踏まれた跡が、街道沿いの川のほうまで続いているのに気づき、今まで以上の大声をあげて、小夜を呼んだ。
「アニウエ、コッチ、コッチ!」
か細い声が、かろうじて聞こえた。
三郎は、走りだした。
ろくに整備されていない、倒木や岩のとがった先が突き出している、でこぼこした山道を、撥ねるようにして下りた。
小夜は、川にかかる、焚き木置場を兼ねている橋の上にいた。暑さを避けて、休んでいたらしい。
「なんだ、ここに居たのか。――帰ろう!」
三郎は、小夜の手をつかんで引っ張った。
小夜は、なぜか動こうとしない。
「兄上! この人、けがしてるの」
小夜の指さす方を見ると、積まれた焚き木の束の向こう側に、うずくまった若い男がみえた。小夜が崩したらしい焚き木の山のへこみを踏み越えて、警戒しながら男に近ずく。
男は、何かつぶやいた。
三郎は、かすかに「……来るな」という声を聞いた。男にすれば、叫んだつもりだったかもしれない。
しゃべれないほど弱っている。
よく見ると、まだ幼さの残っている顔だ。十二、三歳だろうか。
三郎は、思案に暮れた。
短刀しか持っておらず、着物も粗末だが、おそらく武家の子弟だ。
〝脱藩〟という言葉が頭に浮かんだ。
去年から隣の藩の脱藩者が増えている。
隣の藩は、上級武士と下級武士の貧富の差が激しく、食いつめた下級武士の子弟が、山を越えてこちらに逃げてくることが多かった。
黒船が来て以来、以前にも増して脱藩者が増えている。
国境の山を越えて、人の少ないうちの藩を通り、さらにひと山越えれば、瀬戸内に面したにぎやかな港町に出る。そこから、大阪行きの船に潜りこみ、京まで上り、先に脱藩した者たちと落ち合う。やがて攻めてくるだろう異国の船をうち払い、国を守り、その功績を持って異国を敵とみなす大名に取り立ててもらい、出世する。ないしは、異国の者を追い払うことができさえすればそれでよいと、後先考えず、脱藩する者たちもいる。うちの藩でも、十名に満たない微々たる人数ではあるが、脱藩者が出ている。
わが藩の殿様はのんきなのか、食いぶちが減って助かると公言して、さほど気にしていないようだ。戻ってきた者もいるが、見て見ぬふりで、お咎めなしだった。いちいち捕まえて牢屋などに入れれば、その分金がかかる、というのが本音のようだった。
「脱藩してきたのか?」
男は――少年は、無言のままだった。
脱藩者は見つけ次第、即座に捕まえ、隣の藩に引き渡すことになっている。が、あくまで、それはたてまえで、見て見ぬ振りが暗黙の了解となっている。
他藩の者のことなど、放っておけ、無理に捕まえようとしてケガ人でも出たら困る、というのが、わが殿様の、ひいてはわが藩上役たちの本音なのだ。
少年のけがは、肩の刀傷だけのようだ。安静にしていれば、数日で歩けるようにはなるだろう。死なぬ程度に世話をして、早々に出て行ってもらおう。
そう決めると、三郎は、急いで小夜と一緒に家の道場に引き返した。祖母と母に事情を放すと、食い物と清潔な着物、寝床代わりになるわら束を用意してくれた。
父は、何もいわず、文字通り、見て見ぬふりである。母は、夕食をおにぎりにして持たせてくれた。
小夜も戻りたがったが、夜になるので、明日まで我慢しろと言い聞かせた。
戻ってみると、少年は眼をつぶり、眠っている。肩をゆらして起こし、水を飲ませ、持ってきたわらの上に寝かせた。落ち着いたところで、冷めた味噌汁を飲ませた。すこしむせたが、吐くこともなく、最後まで飲みほした。
腹が減ったら食べるようにと、梅干しと漬物、具をいれた握り飯をそばに置き、その日は道場に戻った。橋の上なので、小便などは川にするだろう。不潔になることはないはずだ。
心配していた小夜に、死んではいない、大丈夫と話した。明日朝早く、様子を見に行くつもりだった。
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