第三話 ポム・ド・ノワール(1)

 メインストリートから中道に入ったところに、下級貴族の旧邸宅を改装したカフェがある。その店の名は、ポム・ド・ノワール。


 ヴェーチルが菓子好きであることをルーアが確信したのは、放課後になって彼がこの店に行こうと言い出したことがきっかけだった。

 その意図はわからなかったが、気分転換と思えば、その提案にあえて反対する者もいなかった。



 

 ポム・ド・ノワールをひと目見たルーアは、その上品な佇まいに足が竦みそうになった。

 店内に入った瞬間、店員の挨拶よりも先に女性客たちの会話が耳に馴染んでくる。


「あら、少し意外。ここは身分問わず、って感じなのね」

 ウェリティが感想をポロリともらす。

 客の多くは一般庶民かせいぜい下級貴族の女性たちであり、外観のわりには敷居の低い店といえた。


 案内された席に二対二で座ると、文字が羅列されたメニュー表が真ん中に一枚広げられていた。


 メニューの多くが庶民の懐に優しい価格帯であることに、驚きを隠せない。


 だが、コンポートやヌガーなど、聞き馴染みのない菓子の名前を見たところで、その造形をイメージすることは難しかった。

 高価格のスイーツほどたっぷりと砂糖を使っていることは想像に難くないが、あえてそれに挑戦するほどの欲もない。


 結局、全員がチーズタルトを選んだ。

 だが、アルジントは最後までメニューに一切興味がないようで、テーブルに片肘をついたまま遠目でメニュー表を眺めているだけだった。


「今日はすべて私に払わせてね。死者だけど、まだそれなりにお金はあるのよ」

 ウェリティが年上の貫禄を漂わせて申し出る。

 だが、ルーアもここで引き下がることはない。

「さすがに、自分の分は払います」

 慌てたヴェーチルがテーブルを軽く叩く。

「ま、待って。俺が言い出したんだけど……!」

 埒のあかない言葉のやり取りが繰り広げられる中で、アルジントがため息を漏らした。 

「ウェリティ、この中で一番お金があるのは誰だと思ってるんだ?」

 ウェリティがわざとらしい膨れ面を見せる。

「ここは私の顔を立ててちょうだい、アルジント」

 アルジントはそっと目を逸らし、ただ肩を竦めるだけだった。




「――では、ご注文はチーズタルト四つでよろしいですか?」


 注文を取りに来た女性店員は、こちらを見るなり眉を寄せていた。


「ええ、四つです」

 ウェリティはにっこり笑顔で応える。

「あの、本当に四つでよろしいですか?」

 これは二度目の確認だ。

 注文を間違えたわけではなく、ウェリティは相変わらず笑顔を崩さない。

「はい。四つでお願いします」

「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」

「では、紅茶を」

「分かりました。そちらも四つでよろしいですか?」

「ええ。四つでお願いします」


 ウェリティのにこやかな笑顔を見た店員は、どこか詫びるように深く頭を下げた。

「ただいまお持ちしますので、もう少しお待ちください」


 足早で去っていく店員を横目で見送ったアルジントが、小さなため息をついた。


「分かったか? 姿が見えないと、こういうことになる」


 ルーアはテーブルの上に視線を落とした。

 これは思った以上にきついものがある。自分一人だけがいないもの扱いされたとなれば、つらくないはずがない。


 咄嗟にアルジントが自らフォローを入れた。

「だがまあ、今さらだ。既に分かっていたことだし、何とも思わない。気分良くはないがな」


 ルーアがそろりと顔を上げてアルジントを見ると、彼はどことなく店内風景に目を向けたままであった。



「ねえアルジント。そういえばさ、初めて生者に認識されなくなったときのことって覚えてる?」

 まるで昨日の夕食が何だったかと質問するかのように、ヴェーチルが訊いた。


「衝撃を受けたことは覚えてる」


 衝撃と言いながらも、アルジントはただ憂鬱そうな目をしていた。

 これが日常と化していることの表れなのだろうかと思うと、死者の生活に慣れたくはないものだとルーアはつくづく思う。


 彼が本心を隠してそう言っているのかはわからないが、彼の感情を推察するには、まだルーアは彼について知らないことが多すぎるのだ。



「じゃあ、まず私の話をしてもいいかしら」


 話の先陣を切ったのはウェリティだった。

 彼女の穏やかな笑顔には、常に冷気がまとわりついているようで、どこか懐かしそうに天井を仰ぐ姿が、より異様な雰囲気を引き立てる。


「私が死んだのは、今から六年前。二四歳の時。怖かったけど、今でもあの不思議な感覚が蘇ってくるわ……。何者かが私を殺したのよ。それからアルジントと出会い、ヴェーチルと出会った」


 ウェリティはまるで思い出話をするかのように、過去を懐かしんでいた。

 ルーアは心の中で小さく身震いした。


 彼女が殺人事件の被害者であるという事実は、にわかに信じ難かったが、殺された当事者とは思えないほど自身の死に対して客観的なのだ。


 その直後、ウェリティに何か聞きたいことはないかと問われて、ルーアは彼女の死に直接触れない質問を一つ選んで訊いた。


「……あの、死んでも歳を取るんですか?」


「ええ、そうらしいの。アルジントが一番の証拠」


 名を呼ばれたアルジントがぴくりと反応を示すと、半ば諦めたように口を開いた。


「……もう一〇年も前のことだ」


 その言葉に、ルーアは一〇年前の自分がたった六歳の子供であったことを想像した。

 チクリと刺されるような視線をアルジントに向けられて、ルーアは俯く。


「何か言いたそうだが、僕は嘘など言っていない。死んだのは一八七九年だ」


「じゃあ、アルジントが死んだ理由って……」


「九歳のとき、殺された。最初の頃はウェリティが教えてくれるまで、自分が死者であることを知らなかった」


 ルーアは息をのんだ。

 人の死は生まれながらに決定された運命なのかもしれないが、彼が九歳で亡くなっていたという事実はきついものがある。

 ルーアが両親と温かい家庭で過ごしていた一〇年前、彼はもう亡くなっていたのだ。


「私もアルジントが死者であると知ったとき、とても衝撃を受けた。当時は、死者であること自覚させるべきか相当悩んだもの」


「そうだったのか?」


「当然よ。当時の私は生者だったし、死者という自覚を持って生活することは苦しいことだと思っていたの。……でも、子供だからこそ、アルジントには伝えるべきだと思った。死者の研究をしている私が、死者としての生き方を一緒に探してあげられると思ったから」


「だが、生者が死者の生き方を探すなんて、よほどの物好きとしか思えない」


 眉を寄せるアルジントに、ウェリティは真逆の表情を浮かべた。


「そのとおり、物好きだったのよ。私の研究には多くの本を読む必要があったし、リーグルス家の屋敷には蔵書がたくさんあることを知っていた。だから、生者の私は廃墟になったリーグルス家の屋敷に一人で行ったのよ」


 ルーアはぞくりとした。

 アルジントが言っていた『幽霊屋敷ゴーストハウス』や『血みどろ屋敷』を、ウェリティは生者視点で実際に見ていることになる。


「今思えば、ウェリティはあんな場所によく一人で来たものだな。リーグルス家の事件の真実を知っていたなら、近寄りたくないのが当然だろう?」


「確かに、私が死者について無知だったならね。牧師さんから頂いたもう一つの書物――私は通称『死亡者名簿』と呼んでいるけど、それにも当然リーグルス家の人々が亡くなっている事実が書いてあった。でも、実際にリーグルス家へ行ったことで、私は特異体質だって知った。私は死者と同じ時間を共有することができるんだって分かったの。つまり、生者と死者の両視点でこの街を見ることができたのよ」


 ルーアはウェリティをちらりと見て、わずかに身震いした。

 彼女が纏う違和感は、その特異体質によるものなのかは分からないが、これを平然と語ることのできるウェリティは普通とは違う――少なくとも、ルーアはそう思わざるを得なかった。

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