死者の条件

島文音

プロローグ

フロール・ヴァレンヌ 享年一六歳

 一七二四年五月三十一日。

 目が覚めると、頭上に柔らかな木漏れ日が降り注いでいた。

 どこか長い夢を見ていたかのような気分で、今が何時なのかすぐには思い出せない。

 リンデンバウムの木陰に寄りかかり、私は眼下に広がる景色を見回した。


 そうだ、ここは大好きなアマリウスの丘の上だった。


 上半分には青い空、下半分には広大な緑の大地。放牧された牛や羊たちがのびやかに過ごしている、いつもと変わらない日常。


 私はこの景色が好きだ。この丘の上から見えるネルソン村の風景が、とてつもなく大好きだ。


 ふと、数十メートルほど下方に私のよく知る二人の姿が見えた。


「お父さま、お母さま!」


 私は群青色のスカートの裾を風にはらませ、ブロンズの緩やかな長髪をふんわりと揺らしながら、二人の元へと駆けていった。



「もうあれから八年も経つのね……。今日はあの子の命日だし、たくさんの花があれば、きっとフロールも寂しくないわね」


 突然聞こえてきた母の言葉に、私は足を止めた。地面に深く根を張ったように身体が動かない。


 ――八年? 命日?

 

 一歩ずつこちらに近づいてくる両親。

 私は右腕を伸ばした。母がその手を掴んでくれるような気がして。


「ねえ、お母さ――」


 その瞬間、両親は何事もなかったかのように、私の身体を真正面からリンデンバウムの樹の方へと歩いていった。


 私は通り過ぎたばかりの両親を振り返る。恐怖に瞳を大きく開き、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 両親には私の姿が見えていない。触れることもできない。


 これではまるで幽霊ゴーストだ。


 わずかに顔を上方に向けると、傘のように緑の葉が広がるリンデンバウムが目に入った。私はそれを空虚な青い瞳で見つめた。

 先ほどまで寝そべっていた木陰には両親が膝をついていた。籠に詰め込んだ花を一本ずつ木の周りに置いている。


 両親の動きに合わせて視線を動かしながら、私は大樹の右側に目に入ったものを見て息を飲んだ。


 墓標だ。


 私はつい先ほどまで、その存在に気がついていなかった。



フロール・ヴァレンヌ

一七〇〇年三月二十一日 – 一七一六年五月三十一日

ネルソン村



 自分の名が書かれた墓標を、私は誰か知らない人の墓を眺めるように見つめた。


「ここにあの子の身体がないなんて……」

 母が小さな嗚咽を漏らしていた。

「そうだな。必ずこの場所に帰してあげよう。せめてもの、魂は神の国に辿り着いていることを私は願っているよ」

 フロール・ヴァレンヌという少女の死を悼み、両親は寄り添い合っていた。まるで誰か知らない人の話をしている――そんな気がして、私には二人が言っていることの意味がまったく理解できなかった。



 でも、もしも――これが夢ではなかったならば、私はどうすれば良いの?

 


 私は丘を下りていく両親のあとをついて行くことにした。

 自宅に着いてまず目にしたのは、全く見覚えのない花壇と、初めて見る青い花。

 ここが自分の家ではないように思えて、不気味だった。


 そして、私の恐怖心をもっとも煽ったのは、玄関で両親を出迎えた小さな犬。

 両親に懐いていることが一目で分かり、私はおぞましいものでも見たかのように目を見開いた。血の気がさっと引いていく。

 両親と三人で暮らした家に犬はいなかった――少なくとも私の記憶の中には。


 両親は犬と共に家の中へ入ると、何事もなかったかのように扉を閉めた。

 その物音と共に、私の心に鋭い痛みが走る。


 今にも雷が落ちてきそうな顔で、私は晴れ渡る空を見上げた。

 村の長老、大ばば様の予言では、今日は「大雨が降る」はずなのだ。よく当たることで有名なあの方の予言が外れるなんて信じられない。

 だって、こんなにも天気が良いのに――。


 それなら、大ばば様に直接会って話を聞いてもらうしかない。

 村の預言者であるあの方なら、きっと私のことを助けてくれるはず――。



 自宅から数分歩いた林の入り口、そこに大ばば様の家がある。

 たどり着いた私は、見事に期待を裏切られた。その場で糸の切れた人形のようにガタリとくずおれる。


「どうして……」


 その家は天井が落ちて大きな穴が開き、すでに半壊状態。昨日までは考えられなかった光景に、私は感情が混乱していた。

 どうすることもできず、両手で頬を挟むようにバチンと叩く。じんじんと鈍い痛みが顔と手に伝わってくる。

 項垂れながら頭を左右に振り、私は両手で顔を覆った。

 大ばば様はもういないという現実を突きつけられたのだ。


 私は大声あげて泣いた。


 でもその声は誰にも聞こえない。

 私は誰にも助けてもらえない。


 昨晩までの思い出は、私が生きていたら未来なのだろうか?

 一六歳で死んだことを憐れに思った神様が、私に幸せな長い夢を見せてくれたのだろうか?


「こんな夢なら見たくなかった……」



 誰か、私をこの悪夢から解放して――。

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