夕に落ちる影

明日朝

夕に落ちる影

 私が彼と出会ったのは、湿った風が荒ぶ、日も暮れかけた会社の屋上だった。

 特に理由なんてものはない。ただ、時間に追われた私の逃げ場所だったように思う。そこに彼はいた。


「疲れてる目をしてるね」

 呟くように紡がれた言葉は、男性にしてはやや高い、澄んだ声音だった。

 淡色の髪と墨に浸したような色の目。黄金律を保った端正すぎる顔立ちは、どこか儚げで弱々しい。


「無理してない?」

 彼は軽く首を傾いで尋ねかける。私はと言えば、惚けた顔で口を半開きにしていた。


「その、あなたは?」

「名前はないよ。人じゃないからね」

 絞り出すように尋ねた問いに、彼は苦笑して答える。


 人じゃないとは?


「僕は、そうだね、いわゆる霊体のようなものというべきか」

「霊体?」

「そう。ただあまり良い存在じゃない。不幸に引き寄る、邪霊に近しいものだ」


 彼はいったい何を言っているのだろう。さっぱり状況が読み込めない私に対し、彼は薄く微笑み、声のトーンを落として、

「……ここから飛び降りてもいいけど、残念ながら君は生きながらえる。後に待つのは悲劇だけだよ」

 そう、微笑みを貼り付けたまま彼は告げる。やけに確信めいた口調だった。

 私の喉がひくりと引き攣り、顔の筋肉が強張る。


「なんで、そんなこと……」

「目を見たからね、君の双眸の底にある、濁った色。それが黒に染まる前に、一旦考えてみるといい」


 ふわりと笑って、彼は背を向ける。一歩二歩と歩を進め、刹那、彼の体が大きく傾いた。

 私の口から掠れた悲鳴が漏れる。


 彼は柵を透過するように通り過ぎると、そのまま屋上から落ちていった。吸い込まれるように、引き寄せられるように。


「あ、ああ……」

 一拍置いて、弾かれたように私が駆け寄る。手摺に手をついて下を見下ろすが、そこにあったのは何事もないように行き交う群衆の様相だけで、彼の姿などどこにもなかった。


「彼は……」

 混乱する頭を押さえ、私がうめく。屋上から落下していった彼の姿が、目に焼き付いて離れない。

 今の出来事は現実なのか、彼は本当に存在していたのか。それとも、私が疲れた末に見た幻か。

「しっかり……しっかりしないと……」


 何度も言い聞かせ、顔を上げる。先程見たあの、墨に浸かった彼の目が、なぜだかやけにはっきりと記憶に残っていた。


 私の目もいずれ、あのような色に染まるのだろうか。


 遠くから響くカラスの鳴き声が、やがて私を現実に引き戻していく。

 

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夕に落ちる影 明日朝 @asaiki73

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